第4話 よみがえる声
いやな予感は、たいてい当たる。
寺の石段の下まで来て、ハルは足を止めた。理由はうまく言えない。ただ、空気がおかしかった。
雨がやんでいる。風もない。それなのに寒い。つめたい何かが、肌の上をそろりと這った。廃寺で祓ったばかりなのに、まだ家にも着いていないのに、それでも体は覚えていた。この寒さのあとには、いつも、あれが来る。
「おじいちゃん」
声がかすれた。祖父はすでに足を止めている。数珠をにぎった手がゆっくり上がった。その背中から、いつものやわらかさは消えていた。
「さがっていなさい」
低い声。廃寺で聞いたのと同じ、戦うときの声だ。
あたりの色が抜けていく。石段も木々も寺の屋根も、白茶けた灰色に沈んでいった。妖鬼のいる場所の色。けれど今夜のそれは、廃寺の比ではなかった。町ひとつまるごと、灰の底へ引きずりこまれていく。
月が消えた。
空がぐにゃりとゆがむ。ハルの立つ一角だけが世界から切り取られて、どこか別の場所へ運ばれていく。足もとがたよりない。立っているのに、深い水に沈んでいくようだった。
自分の呼吸だけが大きく聞こえる。さっきまで隣にあった町の灯りも、遠いバス停の屋根も、もうどこにもない。ここには祖父と自分と、そしてまだ姿を見せない何かしかいなかった。
ハルは、走ってきた坂道をふりかえった。町の灯りはもうない。かわりに、灰色の霧のようなものが、じわじわとこちらへ広がってくる。逃げ場はない。相沢くんを呑んだ町が、そっくりそのまま、この化けものの腹の中なのだ。あたしたちは、いま、その腹の底に立っている。
「なに、これ」
つぶやいた声も、灰色に呑まれて消えた。この空間では、ふつうの声は、なんの意味も持たないらしい。まるで、水の底で叫んでいるようだった。
地の底から、ずずん、と重い音が突きあげてきた。一度ではない。二度、三度。足の裏から体の芯へ、いやな震えがのぼる。
石段の上、寺の屋根のさらにむこう。灰色の空を突きやぶって、それはゆっくり立ちあがった。
黒い。そして、大きい。
見あげると首が痛くなるほどの、影の塔。その表面を、無数の顔が浮かんでは消えていく。泣く顔。叫ぶ顔。恨む顔。呑まれた人たちの、最後の表情だった。
ビルの三階ぶんはあった。手足の輪郭はさだかでない。ただ口だけが裂けたように大きくひらいて、そこから何千という呪詛があふれ出していた。恨み。妬み。呪い。人の口からこぼれた言葉のなれの果てが、ひとつのかたまりになってうねっている。そのうねりの底から、たすけて、という細い声が聞こえた気がした。呑まれた誰かの、声だ。いや、一人じゃない。神隠しと呼ばれて消えた、この町の人たち。何十年、何百年ぶんもの、呑まれた声。それが全部この一体の中で、まだ、たすけて、と言いつづけている。
その声のひとつが、相沢くんのものではないかと思った瞬間、ハルの膝が笑った。
これだ。この化けものの伸ばした手が、あの子を側溝の闇へ引きずりこんだのだ。町の底に眠っていた、すべての元凶。
「おじいちゃん、あれ」
「そうだ」
祖父の声はおそろしいほど静かだった。けれどその底に、かすかな震えがある。長く夜を祓ってきたこの人が、いま、たしかにおそれていた。
「リンが命をかけて抑えこんだものだ。それがいま、よみがえった」
封じの町の、いちばん底。何百年ぶんもの言葉を喰らってふくれあがった澱のかたまり。リンがその身をけずって蓋をしていたものその蓋が今夜、ついに外れたのだ。
妖鬼の裂けた口が、こちらを向いた。何千もの呪詛の底から、ひときわ低い声が這い出てくる。
――かえせ。あの声を、かえせ。あの子を、リンを、かえせ。
その声を聞いた瞬間、ハルの胸のいちばん深いところで、とくん、と何かが鳴った。
妖鬼の腕が上がった。ビルほどもある黒い腕が、まっすぐ石段めがけて振りおろされる。
「ハルッ」
祖父が動いた。その細い体でハルを突きとばす。かばうように前へ出た。
「喝ッ」
呪符が宙で燃える。けれど今度は違った。妖鬼の腕は止まらない。見えない壁を粉々に砕いて、なおも振りおろされてくる。
地面が割れた。石段が砕けて宙に舞う。ハルは吹き飛ばされ、灰色の地面に叩きつけられた。息ができない。口の中に鉄の味が広がる。それでも顔を上げた。祖父が、まだ戦っていたから。
祖父の読経がはじまった。あの長い呪文。うねる声。額に汗がにじみ、老いた声をふりしぼって、それでも――足りない。
わかってしまった。廃寺の妖鬼とは桁が違う。祖父ひとりでは、とても届かない。あんなに大きな背中が、いまはひどく小さく見えた。
それでも祖父は退かなかった。呪符を次から次へと宙に放つ。一枚が燃え、二枚が燃え、妖鬼の腕にわずかな綻びを作る。その一瞬のために、この人は何十年も術を磨いてきたのだ。あたしの知らないところで、ずっと。
黒いかたまりが祖父の体を呑もうとする。数珠の緒がはじけ、玉が灰色の地面に散らばった。乾いた音を立てて転がっていく。
「おじいちゃんっ」
叫んだ。今度こそ声が出た。けれど何の力にもならない。ただの悲鳴だ。相沢くんのときと、同じ。
祖父の体がふわりと宙に浮く。呪文がとぎれた。
「……ハル。逃げろ。おまえだけは」
黒いかたまりの中から、かすれた声がした。それでもその目は、まっすぐハルを見ていた。逃げろと言いながら、何かをたくそうとするように。
いやだ。いやだ。いやだ。この人まで、あの闇に渡してたまるか。
ハルは走りだしていた。祖父のほうへ、灰色の地面を蹴って、何もできないのはわかっている。武器もない。呪符も残っていない。それでも体が勝手に動いた。
足もとに、祖父の数珠の玉がひとつ転がっていた。とっさに拾って、妖鬼めがけて投げつける。玉は黒いかたまりに触れたとたん、じゅっと音を立てて溶けた。何の意味もない。わかっていた。それでも投げずにいられなかった。
妖鬼の裂けた口が、ハルを見おろす。何千もの呪詛がぴたりとやんだ。あたりが急に静まる。そして、たったひとつの声だけが残った。
――おまえ。その声。まちがいない。リンの、力だ。どこだ。リンは、どこへいった。
ハルの足が止まった。妖鬼は、あたしの中に、その少女の力を嗅ぎとっている。なぜ。会ったこともないのに。
胸の奥がまた鳴る。とくん、とくん、とだんだん速く。ずっと眠っていた何かが、目を覚まそうとしている。血のめぐる音が耳の中で大きくなった。
これは、あたしの中にずっとあったものだ。こわくて、ずっと蓋をしてきたもの祖父が町にしてきたのと、同じように。
喉の奥が熱い。飲みこんできた言葉たちが、いっせいに扉を叩く。出して、と。いまこそ、と。
こわい。声を出せば何かが壊れる。ずっとそう思って生きてきた。むかし、あたしの声で人が熱を出した。あの日からずっと。
友だちにも、ほんとうのことを言えなかった。祖父にも、ありがとうのひとことが言えなかった。声を殺して、うなずくだけで、やりすごしてきた。その生き方が、いま、目の前で祖父を呑ませようとしている。
でも。
さっき、あたしは声を出せなかった。だから相沢くんを、あの闇に渡してしまった。今度も飲みこめば、祖父を失う。
妖鬼の腕がふたたび振りあがった。祖父を呑んだまま、とどめをさそうとしている。
その一瞬、頭の中を祖父の言葉がよぎった。リンは長い呪文なんぞ使わなかった。たったひと声で、すべてを抑えこんだのだ、と。
あたしにもできるだろうか。いや。できるかどうかなんて、もうどうでもいい。
相沢くんの、声にならない「助けて」が、まだ耳に残っている。あのとき動けなかった自分を、これ以上、抱えて生きていけない。
ハルは息を吸った。ありったけの息を、胸がいっぱいになるまで。
こわくてもいい。壊れてもいい。もう飲みこまない。もう二度と、目の前で誰かを、あの闇に渡さない。あたしは、あたしの声で、この人を守る。
声が誰かを傷つけるなら、その同じ声で、誰かを守ればいい。いまさらのように、そう思えた。
ずっと閉じこめてきた声。誰かを傷つけるのがこわくて、鍵をかけてきた声。いまは、それだけが、たったひとつの武器だった。
ハルのくちびるが、ひらいた。
ずっと鍵をかけてきた声が、いま、闇にむかって、放たれる。この一撃で、なにが変わるのか。なにを失うのか。考えている間は、もう、なかった。




