第5話 はじめての「あ」
声が出た。
「あ――ッ!」
言葉ですらなかった。ただのひと息。喉のいちばん奥から、ありったけの思いをのせて吐き出した、たったひとつの音。
その瞬間、世界が鳴った。町ぜんたいが、びくりと身をすくめたようだった。
どん、と空気そのものが震える。ハルの胸の前から、目に見えない波がまっすぐ広がっていった。灰色の地面が波紋のかたちにめくれあがる。石段の砂がいっせいに空へ舞った。
その一音は、ハルの喉を灼きながら、胸の奥から、両腕から、指の先から、これまで飲みこんできたありったけの言葉を道づれにして噴きあがり、灰色の空気を、雨のなごりを、妖鬼が垂れ流す何千もの呪詛を、まとめて後ろへ薙ぎ払いながら、まっすぐ祖父を呑む黒いかたまりへと突き進んでいった。
妖鬼の、振りおろされようとしていた腕が、その波に弾かれた。
ビルほどもある黒い腕がぐにゃりとしなり、横へそれる。祖父を呑んでいた黒いかたまりが、内側から押し返されるように震えた。
「え……」
ハル自身が、いちばん驚いていた。何をしたのかわからない。呪符は一枚も投げていない。祖父の札も、結界も、何ひとつ挟まなかった。ただ、声を出しただけだ。それなのに、この町ひとつぶんの化けものが、たった一音で、波が引くように、いっせいにたじろいでいる。ぎゃあ、ぎゃあ、と耳をつんざく悲鳴をあげ、我さきにと折りかさなって、逃げ惑っている。たった、ひと声で。札を恐れぬものが、ハルの喉ひとつを、恐れていた。
――拒む。
頭のどこかで、そんな言葉がひびいた。ここから先は通さない。この人だけは、渡さない。そのたったひとつの意志が、声にのってかたちになったのだ。
喉の奥から何かが噴き出す感覚があった。ずっと鍵をかけてきた扉が、内側から吹き飛んだような。こわい。でもそれ以上に、ふしぎと体が軽かった。
黒いかたまりがゆるんだ。祖父の体が、そこからずるりとこぼれ落ちる。
「おじいちゃんっ」
駆けよって、その体を受けとめた。老いた体は思ったよりずっと軽い。作務衣が黒いすすで汚れている。それでも息はあった。かすかに上下している。
「よかった……生きてる、生きてる」
その声は、もう、かすれはじめていた。
涙があふれた。とめようがなかった。相沢くんは救えなかった。でも、この人は、この人だけは、間にあった。ひとりぶんの命なら、あたしにも守れる。さっきは、それすらできなかったのに。
妖鬼がうなった。いや、とまどっているようだった。裂けた口がハルのほうへぐるりと向く。何千もの呪詛がざわめいた。
――なぜ。あの力が。リンの力が、なぜ、いま、ここに。
その声には、恨みの底に沈んだ、とほうもない悲しみのようなものまで混じっていた。そして、まぎれもない怯えも、札を持つ退魔師は幾人も喰ってきた。だが、札を持たぬこの娘の一声は、喰えない。触れれば、こちらが拒まれる。
ハルは祖父をかばうように前に立った。膝はまだ笑っている。こわい。あたりまえだ。それでも逃げなかった。
「もう一回やれば、いいんだよね」
自分に言いきかせるようにつぶやく。さっきの感覚を、もう一度。息を吸って、拒む意志を声にのせて。
ハルは息を吸った。
けれど。
喉が、焼けた。
息を吸っただけで、喉の奥が鉄の味でいっぱいになる。さっきの一音が、未熟な喉を内側から切り裂いていた。むりやり力を通した、その代償だった。リンも、こうだったのだろうか。あの子も力を使ったあと、血を吐いたと祖父は言っていた。声を持つ者は、その声で、自分をも削るのかもしれない。
「かは……っ」
声にならない。二音めを出そうとしても、ひゅう、とかすれた息が漏れるだけだ。喉が言うことをきかない。
妖鬼の裂けた口が、またゆっくりひらいていく。ハルの力が尽きたのを見透かすように。
もう一度、あの腕が振りあがった。
だめだ。声が出ない。守れない。またあたしは、目の前で。
絶望が胸を黒く塗りつぶそうとした、そのとき。
「喝ッ」
ハルの背後で、しわがれた声がはじけた。
祖父だった。ハルの腕の中で、意識もさだかでないはずのこの人が、最後の一枚の呪符を懐から抜いて、宙へ放っていた。
呪符が燃える。それは妖鬼を倒すためのものではなかった。灰色の空へまっすぐのぼっていく。ぱあん、と大きな光がはじけた。
夜明けを呼ぶ光だ、とあとで祖父は言った。
妖鬼が身をよじった。その体が光をきらって、じりじりと後ずさっていく。灰色だった空の東のほうに、ほんのわずか、白いものがにじみはじめていた。
――おぼえておけ。
妖鬼の声が、ずずんと地をゆらす。
――その力。まちがいない。また、くる。かならず、その声を、もらいうけに。
黒いかたまりはみるみる崩れていった。けれど消えたのではない。どこか深い場所へ、いったん身をひそめただけ。ハルにはそれがわかった。町の底の蓋は、もう、外れてしまったのだ。
これから、この町はどうなるんだろう。相沢くんのように呑まれる人が、まだ出るのだろうか。祖父が守ってきた蓋は、もうない。だとしたら、次に立つのは、誰なんだろう。ハルは、自分の焼けた喉に、そっと手をあてた。
灰色が退いていく。町の色が戻ってくる。石段の砂も、木々の緑も、寺の屋根の黒も、遠くで、ほんとうの鳥の声がした。
夜が明けようとしていた。
ハルはその場にへたりこんだ。祖父の体を抱えたまま。全身から力が抜けていく。喉はまだ焼けるように痛んだ。
「おじい、ちゃん……」
呼んだつもりだった。けれど口からは、もう何の音も出なかった。かすれた息だけが、朝の空気に白くほどけていく。
声が、出ない。
あれほどこわがっていた声を、たった一度ふりしぼっただけで、失ってしまった。
朝の風が頬をなでた。妖鬼のいた場所には、もうあの寒さはない。かわりに濡れた土のにおいと、夜明けまえのやわらかい空気があった。ハルはその風を吸いこもうとして、また、むせた。喉の奥がずきりと痛む。息をするたび、細い針で内側を刺されるようだった。
あたし、何をしてしまったんだろう。ずっとこわかった声を、いざ出してみたら、傷ついたのは自分の喉だった。手の甲で口をぬぐうと、うっすら赤いものがついた。
それでも、後悔はなかった。今夜、この人を失わずにすんだ。声のひとつくらい、安いものだ。そう思おうとした。
声はこわいものだと教わってきた。人を傷つけ、人をこわす。でも今夜、あたしはその声で、たった一人だけれど人を助けた。言葉は、こわいだけのものでもない。祖父のあの言葉の意味が、いまなら、少しだけわかる気がした。
けれど胸の奥はざわついていた。妖鬼のあの声が、耳から離れない。
リンの力が、なぜ、いま、ここに。
妖鬼はそう言った。まるで、あたしの中にあの少女の声を見つけたように、会ったこともないリンと、あたしのあいだに、いったい何のつながりがあるというんだろう。考えても、糸口さえつかめなかった。ただ胸のいちばん深いところで、さっき目を覚ました何かが、まだかすかに脈打っていた。眠りに戻るのではなく、これから何かがはじまるのを待つように。
祖父のまぶたがふるえた。うっすらと目がひらく。かすむ視界で、ハルの顔を見た。それから、崩れた石段を、めくれた地面を、ゆっくり見わたした。
そして、またハルの顔に目を戻す。
その目が大きく見ひらかれた。
「……ハル。いまのは。その力を、どこで――」
声がふるえていた。妖鬼を前にしてもあれほど静かだったこの人が、いま、はじめて動揺している。
言いかけて、祖父は口をつぐんだ。ぐっと何かを飲みこむように、言ってはいけない何かを、こらえるように、しわだらけの手がのびてきて、ハルの頬にふれた。その手がふるえていた。
「……いや。なんでもない」
祖父は目をそらした。ハルには聞きたいことが山ほどあった。この力は何なのか。なぜ自分にこんなことができたのか。妖鬼が口にした、リンの力とは何なのか。
けれど、声が出ない。だから、目で問うしかなかった。おじいちゃん、あたし、何なの、と。
祖父はその問いに答えなかった。ただ頬にふれた手に少し力をこめて、絞りだすように言った。
「よく、生きておった」
朝の光が二人をそっとつつんでいた。ハルの失われた声のかわりに、ひとすじの涙が頬をつたって落ちる。
まだ、何もわからない。それでも、ひとつだけたしかなことがあった。
あたしの中には、何かがいる。ずっと眠っていた、何かが。その正体を、この人は知っている。知っていて、言わない。
いつか聞かせてくれるだろうか。あたしがほんとうは何者なのか。この力がどこから来たのか。妖鬼がまた来ると言い残した、その意味を。
のぼりはじめた朝日が、祖父のしわをやさしく照らしていた。その顔は安らかで、それでいて、どこかさびしそうでもあった。
その横顔を見ていると、いまはまだ聞いてはいけない気がした。でも、いつか必ず聞く。あたしが何者で、この声が何のためにあるのか。焼けた喉の奥で、声にならない声で、ハルはそう誓った。
*
同じころ。
崩れた鎮め石を見おろす、ひとつの影があった。
その一角だけ、夜明けの光が、届いていなかった。あたたかいはずの朝の色が、そこで、ふっと途切れている。まるで、光のほうが、その影を避けているように、さえずりはじめていた鳥が、いっせいに、鳴きやんだ。風が、止まる。空気が、そこだけ、ぬるりと、粘ついた。
夜明けの光を背に、長い外套のえりを立てている。顔は逆光でわからない。割れた石に貼られた黒い呪符を指先でつまみ、はがすと、その口もとだけが、笑ったように動いた。
「なるほど。あの子の力は、まだこの町に残っていたか」
声は若い。だがその響きには、何十年もの時をくぐったような、乾いた疲れがにじんでいた。
「じき、また会おう。三音の、器よ」
影が、ゆっくりと、こちらを、ふりむいた気配がした。顔は、見えない。それなのに、目が、合った、と感じた。背すじを、氷の指で、なぞられたような、悪寒。次の瞬間、影は光の中へ溶けるように消えた。あとには、はがされた呪符と、崩れた石と、あとを引く寒気だけが、残された。
影は消えた。それでも、あの乾いた声は、まだどこかで笑っている気がした。ハルが守りぬいた、その夜の、ちょうど裏がわで。




