第3話 鎮め石の道
傘の中はせまかった。
肩が濡れるのもかまわず、祖父はゆっくり歩いた。ハルは歩調を合わせる。町の灯りが近づいてくる。それなのに、近づくほど胸のあたりが重くなった。
この町はただの町じゃない。
さっきの祖父の言葉が頭から離れない。ハルはいつもの通学路を、はじめて歩く道のように見まわした。人の姿は、どこにもない。こんな時間だからあたりまえだ。そう思おうとして、けれど今夜の静けさは、いつもと違って感じられた。町ぜんたいが何かに耳をすませて、じっと息をこらしているようだった。
いつもなら、この時間でも遠くで車の音がする。犬の声も、風の音も、それが今夜は何ひとつなかった。世界から、音という音がそっと抜き取られたようだった。
辻に一つ。橋のたもとに一つ。畑のあぜにも、家々の軒先にも、言われてみればこの町には、古い石がありすぎた。苔むして、文字も読めない小さな石碑。鎮め石。地の底の何かを押さえこむための、蓋の留め金なのだと、いま、はじめて知った。
「あの石、ぜんぶ」
「ああ。ぜんぶそうだ」
祖父は前を向いたまま答えた。
「この町の者は誰も知らずに暮らしておる。自分の足の下に何が眠っているか、な。知らんほうがしあわせだ」
ハルは足もとを見た。濡れたアスファルト。そのずっと下。何百年ぶんもの恨みが、妬みが、呪いがどろりとたまっている。想像すると吐き気がこみあげた。毎朝この道を歩いていた。何も知らずに、その上で笑っていた。
そのときだ。
かつん、と乾いた音がした。
道の先。次の辻に立つ鎮め石。その上のほうが欠けて地面に落ちた。石はまっぷたつにひび割れていた。
「さがれ」
祖父の声が変わる。ハルをうしろへ押しやった。
割れた石のすきまから黒いものがにじみ出す。ねばついた影。小さな妖鬼だ。廃寺のやつよりずっと小さい。それでも生まれたばかりのそれは、いやにするどい殺気を放っていた。石に彫られていた古い文字が、ぱらぱらと崩れて雨に流れていくのを、ハルは見た。何百年もの封じが、こんなにあっけなく、ほどけていく。
祖父が割れた石に顔を近づけた。指先で割れ口をなぞる。その手が、途中でぴたりと止まった。
「……これは」
「どうしたの」
「風化じゃない。ここを見ろ」
示された割れ口に、細い溝がまっすぐ刻まれていた。規則正しい。人の手で彫り込まれたものだ。そして石の裏に、見慣れない呪符が一枚、貼りついていた。祖父の一族のものとはまるで違う。黒い墨で、のたうつような文字が書かれている。
「封じを押さえる札じゃない。逆だ。これは……ゆるめるための札だ」
祖父の声が、ひとまわり低くなった。誰かが、この石に細工をした。妖鬼を外へ出すために、ハルの背中を、つめたいものが走る。今夜のこれは事故じゃない。誰かがわざと、町の蓋を、こじあけようとしている。
祖父は動かない。数珠をそっとにぎりなおす。影が地を蹴った。まっすぐハルめがけて、時間がのびたように感じた、その一瞬。
「喝ッ」
短い一喝。呪符が宙で燃えあがる。影はまっぷたつに裂けて、悲鳴もあげず雨に溶けた。あとには割れた石だけが残る。
祖父の肩が大きく上下していた。今夜はもう三度目だ。老いた体に応えている。
そのとき、遠くでまた、かつん、と音がした。つづけてもう一つ。もう一つ。町のあちこちで鎮め石が順ぐりに悲鳴をあげているようだった。
「おじいちゃん、いまの」
「……石が割れておる。一つや二つじゃない」
祖父の顔から血の気が引いていた。何が起きても動じないこの人が、いま、たしかにおそれている。それを見て、ハルはよけいにこわくなった。
角を曲がった。そこで、ハルは足を止めた。
コンビニの、白い灯り。その前に、見知った顔があった。同じ学校の、相沢くん。教室ではほとんど話さない。それでも、廊下ですれ違えば会釈くらいはする、そういう相手だった。塾帰りだろうか。袋を提げて、ぼんやり立っている。
ふつうの夜なら、声などかけない。明日、教室でまた会う。それだけの相手だ。でも今夜は、なぜか放っておけなかった。この、色の抜けかけた道に、あの子を一人にしてはいけない気がした。
「相沢……くん?」
声をかけようとした、そのとき。
彼の足もとの側溝から、黒い手が伸びた。
ずるり、と。何本も、相沢くんの足に、腰に、肩に絡みつく。彼は声もあげなかった。ただ目を大きく見ひらいて、こちらを見た。助けて、と口が動いた。声にならない、声で。
「相沢くんっ」
ハルは駆け出そうとした。その腕を、祖父がつかむ。
「行くな。おまえまで呑まれる」
祖父の声が、鞭のように鋭かった。
「でもっ、あの子、あの子が」
黒い手が、彼を側溝の闇へ引きずりこんでいく。ハルは叫んだ。ありったけの声で、名前を、けれど、その声には何の力もなかった。ただの悲鳴だった。
相沢くんの姿が、闇に消えた。
あとには、落ちたコンビニの袋と、雨に流れていく灯りだけが残った。ついさっきまで、そこに人がいた。ふつうに生きていた。それが、一瞬で。
雨が袋の中身を濡らしていく。プリンと、からあげと、缶ジュース。塾のあとの、ささやかな楽しみだったのだろう。そんな、なんでもないものが道に転がっている。持ち主だけが、もういない。
袋のわきで、スマホが震えて光った。画面に、母さん、と出ている。何度も、何度も、雨に濡れた画面が、青白く明滅して、やがて、暗くなった。誰も、出なかった。
ハルはその場に膝をついた。手がふるえていた。声が、出せなかった。もし、あたしがもっと早く声をかけていたら。もし、あたしの声に、あの妖鬼を退ける力があったら。
むかし、あたしの声は人を熱で寝込ませた。今度は、あたしの沈黙が、人を一人、闇に落とした。声を出しても、出さなくても、あたしは誰かをこわしてしまう。
――ちがう。
濡れた地面に爪を立てて、ハルは奥歯を噛んだ。こわしてしまう、で終わらせたら、相沢くんは、ただの“こわれたもの”になる。そうじゃない。あたしは、この力の使い方を、まだ知らないだけだ。退けられなかったのなら、退けられるようになればいい。泣いて膝をつくのは、これで最後にする。雨のなか、ハルはゆっくりと立ちあがった。伏せていた目を、あげて。
「……助けられなかった」
かすれた声がこぼれる。祖父はハルの肩に手を置いた。その手も、ふるえていた。
「これが、蓋の割れるということだ。……すまん。ふつうの暮らしを、守ってやれんかった」
祖父の声は、いつになく重かった。ハルははじめて、この人の背負ってきたものの重さを、ほんとうの意味で知った気がした。守れなかった夜が、この人には、いったいいくつあったのだろう。
「わしの父も、その父も、この町を守って死んだ。派手な手柄なんぞ、ない。ただ蓋を押さえつづける、それだけの一生だ。……おまえには、継がせたくなかった。ふつうの子で、いてほしかった」
雨に濡れた祖父の横顔が、ひどく老いて見えた。
「立て、ハル。ここにいれば、次はおまえだ」
祖父はハルの手を引いた。老人とは思えない力だった。二人は雨の坂道を走りだす。両わきの暗がりで、何かがうごめく気配がした。見てはいけない。ハルは前だけを見て走った。傘はいつのまにか、どこかへいっていた。
道の両側で、家々の窓が順に灰色に沈んでいく。あの色だ。妖鬼のいる場所の色。町が端から、べつの世界に塗り替えられていく。どこかで犬が鳴いて、途中でやんだ。誰かの悲鳴が遠くで一度だけあがって、雨に消えた。ハルは耳をふさぎたかった。でも、手は祖父につながれていた。
走りながら、祖父が息を切らして言った。
「妙だ。今夜は、なにかがおかしい。こんなにいっぺんに石が割れることなど、ありえん。まるで、誰かがわざと、ゆるめておるような……」
言いかけて、祖父は口をつぐんだ。まさか、というように首をふる。そのひとことが、ハルの耳に妙にひっかかった。誰かが、わざと。
「その、リンって子が抑えたものって」
走りながら、ハルは聞いた。なぜか、その名がこの夜とつながっている気がしたのだ。
「町のいちばん底に、大きな妖鬼が一体眠っておる。何百年ぶんもの言葉を喰らってふくれあがった、この土地の澱のかたまりだ。それをリンが、たった一人で抑えこんだ。その身をけずってな」
「なのに、なんで消えたの」
「わからん」
祖父の声が、はじめて途方に暮れていた。
「あの子が消えてから、底のものはまた目を覚ましはじめた。わしは代々の術でだましだまし抑えてきた。だが、今夜のこれは、もう、わしの手には負えん」
やがて山の中腹に、寺が見えてきた。祖父の住む寺。ハルの帰る場所。
その屋根のむこうの空が、ぐにゃりとゆがんで見えた。
ハルは足を止めた。しらずと、こぶしがかたくにぎられていた。
あれは雨雲なんかじゃない。町のいちばん深いところで、ずっと眠っていたものリンが身をけずって抑えこんだ、いちばん底の大きな妖鬼。
それが、いま、目を覚まそうとしていた。
相沢くんを呑んだ、あの黒い手のおおもと。ハルの中で、こわさと、べつの何かがぐらりと音を立てた。守れなかった。もう、いやだ。飲みこむのは、もう。
祖父の手を、ハルは強くにぎりかえした。この人だけは失いたくない。相沢くんのときみたいに、ただ立ちすくむのは、もういやだ。
封じの町が、蓋が、今夜とうとう、こわれはじめる。ハルの足は、それでも止まらなかった。
ただ、ひとつだけ決めていた。もう二度と、目の前で誰かをあの闇に渡さない。たとえこの声が、どうなろうとも。




