第2話 雨のバス停
喉の奥のざわめきは、寺を出ても、消えてくれなかった。だせ、と。地の底で寝返りをうった、あの震えの余韻が、まだ足の裏に残っている。
バスは来なかった。
最終便は、とっくに過ぎている。知っていて、それでもハルは屋根の下を動かなかった。祖父も腰をあげない。雨が屋根を叩き、水たまりに白いしぶきを立てる。町の灯りは遠く、二人のまわりだけ世界から取り残されたようだった。
「濡れて帰るしかないな」
祖父がのんびり言う。あわてる様子もない。ハルは思わず笑ってしまった。妖鬼と戦ったあとだというのに、この人はこういうときだけ子どもみたいだ。
「タクシー、呼ぼうか」
「もったいない。歩けば三十分ほどだ」
「その足で?」
言ってから、しまったと思った。祖父の膝が悪いのを、わざわざ口に出すことはなかった。祖父は眉をあげて、それから、ふ、と笑う。
「言うようになったな」
「おじいちゃんが口下手なの、うつったんだよ」
「言うな」
祖父が苦笑する。雨の中でも、その笑い皺はあたたかかった。
制服のすそが雨で重い。鞄の中でスマホが一度だけ光った。クラスの友だちだろう。あとで返そうと思って、そのままにした。あの子たちに今夜のことは話せない。話しても、きっと信じてはくれない。
雨の音が二人のあいだにしみこんでいく。ハルは膝を抱えて湿った空気を吸った。土と雨と、祖父の作務衣にしみついたお香のにおい。ずっとそばにあったにおいだ。
この人に引き取られたのは七つのとき。母のことは、色のあせた写真が、たった一枚きり。晴れた縁側で、若い女の人が、赤ん坊を抱いて、笑っている。うらには、母の字で、みじかい言葉。にじんで、半分は読めない。父のことは、その一枚さえ、ない。聞いても、そのうちな、とはぐらかされる。そのうちがいつまでも来ないことに、ハルはもう慣れていた。
「あたし、今夜も妖鬼の声にあてられちゃった」
ぽつりとこぼした。祖父は何も言わず聞いている。
「声を出すのがこわいの。むかし、あたしの声で人が熱を出したことがあって。偶然だってみんな言うけど、あたしにはそう思えなくて。だからいつも飲みこんじゃう。ほんとうのことが、言えない」
施設にいたころだ。けんかをした男の子に、消えて、と叫んだ夜、その子は熱を出した。あやまるかわりに折り鶴を置いたけれど、退院した日、鶴はゴミ箱に落ちていた。それきり、あたしは強い気持ちを、声にのせられなくなった。
なさけなくてうつむいた。夜と雨は、ときどき人の口を軽くする。祖父はしわだらけの手でハルの頭をぽんと一度たたいた。それだけで少し息がしやすくなる。
この人は、あたしの声を、こわがらない。世界でたった一人、そういう人だった。
「ねえ、おじいちゃん」
ふと、前から気になっていたことを口にした。
「なんで妖鬼って、いつもこの町の近くにばっかり出るの」
祖父の手が、数珠の上で止まった。
「よそから討伐の話ってあんまり来ないよね。いつもこの谷のなか。廃寺も、川むこうも、みんな歩いて行ける場所。へんだなって、前から思ってて」
答えはすぐには返ってこなかった。雨が屋根を叩く。祖父は暗い山のほうをじっと見ていた。さっきまでののんびりした空気が、すうっと引いていく。
「よく気づいたな」
低い声だった。
「この町はな、ハル。ただの町じゃない」
ハルは顔をあげた。
「どういうこと」
問いかえしながら、頭の中でばらばらだった記憶がつながりはじめた。この町だけやけに神社や祠が多いこと。よそへ引っ越した友だちが、こっちは空気が重い、と言っていたこと。祖父が夜たびたびどこかへ出かけていくこと。ぜんぶが一本の線の上にのっている気がした。
「昔むかし、ここには何かを封じるために人が住みついた。町そのものが大きな蓋のようなものだ。だから妖鬼が集まる。ほかの土地より、ずっと濃くな」
蓋。その言葉が、いやなひびきで胸に残った。何かを、無理やり押さえこんでいる。そういう、きしんだ音のするひびきだった。
「何を封じてるの」
しばらく雨の音だけがあいだをうめた。
「言葉だ」
「……言葉?」
「何百年ぶんもの人の恨み。妬み。呪い。誰かを傷つけるために吐かれた言葉が、消えずにこの土地の底にたまりつづけておる。妖鬼はそのこぼれ落ちたしずくにすぎん。ほんとうにおそろしいのは、底のいちばん深いところに眠っておる。何百年もこの町が必死に抑えこんできたものが、な」
ハルはぞくりとした。今夜、廃寺で聞いた声を思い出す。こえを、だせ。あれはこの土地の底からしみ出してきた、しずくのひとつだったのか。
祖父はゆっくり立ちあがった。膝をかばいながら。
「その話はいつかな。まだおまえには早い」
いつか。またそれだ。母のことも父のことも、この人はいつもそう言ってはぐらかす。ハルは少しむっとした。それでも祖父の横顔があんまり真剣だったから、それ以上は聞けなかった。
「ひとつだけ教えて」
傘をひらきながら言った。
「その蓋を守ってるのが、おじいちゃんたちなの」
祖父は少し驚いた顔をして、それから、めずらしくまっすぐにうなずいた。
「そうだ。わしの一族の、代々の役目だ。この町を守ること。蓋をゆるませないこと」
その声には誇りと、重たい何かがこもっていた。長いあいだ、たった一人で背負ってきた者の声だった。
この人はいつも、あたしに笑ってみせる。そのくせ、数珠をにぎる手の甲には、古い傷がいくつも走っていた。
「町のあちこちに古い石が立っておるだろう。辻や、橋のたもとに」
言われて思い浮かべた。そういえば通学路にも、田んぼのあぜにも、苔むした石碑がぽつぽつあった。あんまりあたりまえにそこにあるから、気にもとめていなかった。
「あれが、留め金だ。……そばを通ったら、見せてやる」
見せる、という言い方が、ハルには少し不気味だった。
「昔はもっとたくさん仲間がおった。強い退魔師も。町を守るために身を捧げた子も、な」
捧げた子。その一言に、なぜか胸がざわついた。
「その子、って」
「もうずっと昔の話だ。この町のいちばん深いところに眠る大きなものを、その子がたった一人で抑えこんだ。長い呪文なんぞ使わずに、たったひと声で、な。おかげで町は何十年ももった。……名を、リンといった」
リン。会ったこともない名が、また胸の奥のほうで小さく鳴った。
「その子は、いま」
「いない。ある日ふっと消えた。どこへ行ったのか、なぜ消えたのか、誰も知らん」
消えた理由がわからない。それがいちばん不気味だった。死んだと言われたほうが、まだ区切りがつく。どこかで生きているのかもしれない。でも、なぜ、という穴だけがぽっかり残る。会ったこともない少女のことなのに、その穴が、やけに冷たくハルの胸を通り抜けた。
それきり祖父の口はとざされた。聞きたいことはまだ山ほどあった。でも、この人がこういう顔をしたときは、何を聞いても無駄だと知っていた。
ハルは雨にけむる町の灯りを見おろした。
見なれた町。学校も、コンビニも、駅前のさびれた商店街も、そのぜんぶが、大きな何かの蓋の上にのっている。そう思うと足もとの地面が急にたよりなく感じられた。この下に何かいる。ずっといた。あたしが生まれるよりずっと前から。
思えば、この町ではときどき人が消える。夜のうちにふっと、家族ごと引っ越したことにされて、神隠しだと年寄りは言う。子どものころはただの噂だと思っていた。いまなら、その意味がうっすらわかる。蓋の下から手が伸びて、静かに一人ずつ、連れていくのだ。
なんで今まで気づかなかったんだろう。いや。気づかないようにしていたのは、この人たちだ。あたしを守るために。
だとしたら、その蓋がいまきしみはじめているとしたら。守られてきた側のあたしは、これから何をするべきなんだろう。傘の柄をにぎる手に、いつのまにか力がこもっていた。
二人は歩きだした。傘は一本きり。ハルはそれを祖父のほうへそっとかたむけた。
坂の途中に、丸い石がひとつ立っていた。祖父はその前で足をとめ、しわだらけの手のひらを、そっと石の頭にあてた。
低い音が地の底から返ってきた。ぐう、という、獣のうめきのような音。石が手のひらの下でかすかに脈打つ。ハルは思わず一歩さがった。石の下に、何かがいる。息をして、こちらをうかがっている。それがはっきりとわかった。
祖父が短く何かを唱えると、うめきは石の中へしぶしぶ沈んでいった。
「こうやってなだめておる。もう何百年もな」
説明はいらなかった。いま、この手のひらの先で、ハルは町の蓋にふれたのだ。
その、すぐ先だった。ハルは足をとめた。
もうひとつの鎮め石。だが、そちらは様子が違った。まっぷたつに近いひびが表面を走っている。雨に濡れて黒く光る、そのひび。ずっと前からのものか、今夜のものか。ただ――そのひびは、妙にまっすぐだった。風雨がつけた歪んだ罅ではない。刃物か何かで、すっと引いたような。背すじがすっと冷えた。
ハルは、そのひびに、そっと指をあてた。つめたい。雨のせいだけでは、ない冷たさだった。だれかが、こじあけようとしている。この町を、内がわから。ずっと守られてきたはずの、この石を、指の先に伝わる、そのひとすじの冷たさが、いつまでも、消えなかった。




