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トライトーン ――悪魔の音程で、妖鬼を断つ  作者: 源三郎
第一部 沈黙の継承

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第1話 廃寺に降る灰

 はじめに、音があった。

 たった三文字で夜を祓う少女の話です。

 守るために出した声が、守りたいものまで灰に変えてしまう。だからこの子は、声を捨てた。

 札も呪文もいらない。息ひとつで、妖鬼を断つ。

 どうか、その喉の震えごと見届けてやってください。

 はじめに、音があった。


 祈りでも歌でもない。ただのひと息だった。少女がこらえきれずに吐いた、たったひとつの音。


 夜の村を妖鬼が這っていた。山ほどもある黒い影だ。少女はその前へ出た。守らなければと思った。だからずっと飲みこんできた喉の封を、このときだけ自分の意志でこじあけた。


 ――あ。


 放たれた瞬間、妖鬼の輪郭が白く裂けた。手ごたえがあった。勝てる。そう思った刹那、音は少女の手を離れてひとりでに膨れあがった。


 薙ぐ。


 妖鬼だけではなかった。その背後の家も、畑も、井戸も、逃げる人の背も。音は守るべきものと滅ぼすべきものを見分けなかった。白い光が村をなぞり、なぞったそばから色が抜けていく。悲鳴は聞こえない。音のほうが速かった。


 静けさが戻ったとき、村はもうなかった。


 灰だった。家のあった場所も、さっきまで人のいた場所も、みな同じ灰色に沈んでいる。細い月がそれを上から照らしていた。立っているのは、まんなかの少女ひとり。灰をかぶった長い黒髪が、月あかりに白んで見えた。


 少女は両手で口をふさいだ。ふさいでも遅い。やってしまったことは音といっしょに消えてはくれない。


 深い夜色の瞳から涙が一粒おちた。灰の上に小さな染みをつくって、すぐに乾いた。


 その日から少女は声を捨てた。守るための音が守りたいものを殺すのなら、いっそひとことも喋らないほうがいい。そう決めた。


 ――これは、あたしがその人の名を知るより、ずっと前の話。


   *


 あたしも、声が出せない。


 その声はいつもあたしにだけ聞こえた。助けて。ここから出して。かえして。土の底からいくつもの声があたしの名を手さぐりする。誰にも聞こえない。あたしにしか届かない。


 だからあたしは自分の声がこわい。


   *


 夜の山は音を呑む。


 今夜もハルは祖父について、この廃れた山寺の石段をのぼっていた。妖鬼を祓うための夜の仕事だ。虫も鳴かない。風もない。自分の息の音だけがやけに大きかった。あるのは雲の裂け目から落ちる細い月明かりと、濡れた土のにおいだけだった。


「ほんとに出るの、ここ」


 前をゆく背中に声をかけた。返事はない。祖父はいつもこうだ。大事なことほど間をおいてから口をひらく。


「出る。においが濃い。今夜のは少し大きい」


 作務衣の上に袈裟をひっかけた祖父が石段の途中で止まった。手には数珠と細長い呪符の束。年季のはいった指が一枚をつまみ出す。


「呼ぶまで前に出るな。声も出すな」


 声も、と言うとき祖父の目がこちらを向いた。ハルは小さくうなずく。うしろで一つに束ねた黒髪が肩から胸へはらりと落ちて、額のほつれ毛が揺れた。背は低くない。黒っぽい普段着の下の体は、細いのにしなやかで、けわしい山道でも息ひとつ乱していない。それを払う手も細い。まっすぐな、深い夜色の瞳だけが祖父の背をじっと見ている。母親に瓜二つだと寺の者は言う。だが十七のハルは、その母の顔さえ写真の一枚しか知らなかった。


 喉の奥がきゅっと狭くなった。いつものことだ。声は出せない。前にも出るなと言われた。それでも目だけは伏せなかった。祖父が祓う闇を、まばたきもせず見ていた。うなずくのとあきらめるのはちがう。いつかあたしも、うなずくだけじゃないなにかを――その火だけは誰にも消させないと決めていた。


 崩れた山門をくぐると境内は灰に沈んでいた。焼けたのではない。妖鬼のいる場所は色が抜ける。草も石も朽ちた本堂も、古い写真みたいに白茶けて見えた。この一角だけ世界から切り取られて、どこか別の場所に置きなおされたようだった。


 本堂の奥でずるりと何かが動いた。


「来た」


 祖父の声が低くなる。闇のかたまりが跳ねた。


 速い。


 目が追うより先に、それは祖父の眼前にいた。人の背丈の倍。手足の輪郭はさだかでなく、口だけが裂けたように大きい。その口からぶつぶつと声が漏れていた。


 ――ゆるさない。おまえのせいだ。おまえが。


 呪詛だった。誰かを恨む言葉のなれの果て。意味をなさないはずのそれが、ハルの耳にははっきり届く。届くだけではない。呼ばれている、と思った。その声はハルの呪符には見向きもせず、ハルの喉の奥だけを――飲みこんできた言葉の眠るところだけを、まっすぐ嗅ぎあてていた。応えるな。奥歯を噛む。心臓がいやな速さで鳴りはじめた。


 妖鬼の口もとが一瞬だけ人の顔のかたちにゆがんだ。老人の、泣きそうな顔。すぐに崩れてまた裂けた口にもどる。あれはもとは人だったのか。恨みを吐きすぎてこんなものに成り果てたのか。ハルの背をつめたいものが伝った。


 妖鬼の腕が真上から振りおろされた。


 祖父の口がひらく。


「喝ッ」


 短い一喝。呪符が指を離れて宙で燃える。振りおろされた腕が見えない壁に弾かれ、横へそれた。灰が舞いあがる。止まっていた時間がそこでやっと動きだした。


 静と、動。祖父の戦い方はいつもこうだ。ぎりぎりまで動かない。息を詰め間合いを計り、たった一手で流れをひっくり返す。派手さはない。それでも今日まで、いくつもの夜を祓ってきた。


「ハル、右の柱。札を」


「うんっ」


 声ではなくうなずきで応える。ハルは身をかがめ灰を蹴って走った。懐から抜いた呪符を崩れた柱に叩きつける。祖父に教わった結界の要だ。四隅に貼れば妖鬼の逃げ道をふさげる。


 一枚。二枚。三枚目で足がすべった。


 濡れた石。いつのまにか細かい雨が降っていた。


 だが妖鬼はハルには目もくれなかった。


 くるりと向きを変え、読経に没入する祖父の無防備な背へ跳ぶ。黒い腕が真上へ跳ねあがった。祖父は気づかない。いや、気づいていて止まれないのだ。言葉を止めれば張りかけた結界がほどける。


 ――間に、合わない。


 ハルの頭がまっ白になった。


 声を出すな。ずっとそう生きてきた。飲みこんでうなずくだけのあたし。声を出せば誰かを傷つける。だから封をして、でも――このままじゃおじいちゃんが。写真の一枚しか知らない母のかわりに、あたしを育ててくれたたったひとりの家族が。


 こわい。あの声を出すのがなによりこわい。


 それでも、とハルは思った。守りたい。


 はじめてその一心で、飲みこんできた喉の封を、じぶんの意志でこじあけた。せりあがる無数の声をたったひとつの音にしぼりあげて吐きだす。


「――ぁ、ッ」


 言葉ですらない。かすれて震えてちぎれた、ひと息。ずっと封じてきたせいで、まともな音にすらならない。


 村ひとつを灰にした、あの音。その、なれの果てが、これ。こんなにも小さく、かすれている。なのに――同じものだ。あたしの中にも、あれがいる。そう思うと、ぞっとした。


 それでも。


 その必死の音がふれた空気がぶるりと震えた。目には見えない薄い壁が、祖父の背と黒い腕のあいだにゆらりと立つ。振りおろされた腕がその壁をかすめて逸れた。祖父の肩を浅く裂いただけで。


 壁はすぐにぐしゃりと崩れた。ハルの制御しきれない音では、それが精いっぱいだった。それでも一瞬を稼いだ。


「四方、そろっとる」


 肩を裂かれてなお、祖父の読経は途切れていなかった。その隙間へ長い言葉がいっきに巻きあがる。四方の呪符が白い糸を張りわたし、糸の交わるところに小さな光が生まれ、暴れる妖鬼の輪郭を輪のように絞りあげていって――


 妖鬼の輪郭がほどけた。裂けた口の声がぷつりと消える。黒いかたまりは灰に崩れ落ち、やがて染みになって消えた。境内に色が戻ってくる。草の緑。石の灰。雨に濡れた木の黒。


 だがハルは動けなかった。


 喉の奥が焼けるように熱い。いまの音をしぼりだした、その一点が。じぶんでこじあけてしまった扉。そのすきまから、封じてきた無数の声がいっせいに外をのぞこうとしていた。だせ、もっと、と。ハルは両手で口を覆った。震えが止まらない。守れた。おじいちゃんを守れた。なのになぜ、こんなにこわいんだろう。


「……いま」


 祖父がふりかえった。妖鬼を祓った直後の、あの穏やかな顔ではなかった。血の気の引いたはりつめた目だった。裂けた肩から血がにじんでいるのにも気づいていない。


「声を、出したな」


 ハルはうなずけなかった。ただ、口を覆った手をはずせなかった。


 祖父がハルの前に膝をついた。しわだらけの手が、口を覆うハルの手にそっと重ねられる。


「……三音(みおと)」


 その言葉を口にしたとたん、祖父の指から数珠がすべり落ちた。石畳にからからと乾いた音が散る。数珠を拾おうともせず、祖父はハルの手を握る手にぎゅっと力をこめた。まるで、いま口にした三文字そのものからハルをかばうように。


 聞いたことのない言葉だった。三つの音。みおと。耳にした一度で、なぜか二度と忘れられない響きだった。祖父がそれをうめくようにこぼした。まるで、その音の行き着く先を知っているかのように。


「……そうか。お前も、か」


 なにか言いかけて祖父はのみこんだ。そしていっそう低い声で言った。


「その音だけは。二度と出すな。……頼む」


 それから祖父はいっそう声を落とした。ハルにだけ届くように。


「……いいか。あの音はな。ただ妖鬼を祓うだけの音ではない。使えば使うほど……地の底のいちばん深いものが、お前に気づく。こちらをふりむいてしまう」


 叱るのではなかった。おびえていた。妖鬼にも動じないこの人が。守るために出したあたしの声を、まるでもっと恐ろしい何かのように。


 黒い染みのあった場所に、小さな歯が一本おちていた。人の乳歯のような白いもの。ハルは拾おうとしてやめた。今夜のはもとはどんな人だったんだろう。考えると足もとがすくむ。


 祖父がふうと息をついて立ちあがった。汗をぬぐう手が少しふるえている。ハルはその手をそっと支えた。あたたかいのに、こわれものみたいだった。


「歳はとりたくないな」


「……そんなこと、ないよ」


 妖鬼が消えたあとなら声は出せる。ふしぎなものだ。それでもうまい言葉は出ない。いちばん伝えたいことほど喉でつかえて、当たりさわりのない返事になる。祖父は何も言わず、ハルの肩を借りて立った。


 雨は強くなっていた。


 二人は境内をあとにして石段をおりた。ハルは何度も後ろをふりかえる。妖鬼は消えた。消えたはずだ。それなのに背中のあたりに、まだあの声の残響がこびりついている。


 ――こえを、だせ。


「おじいちゃん。妖鬼って、なんで生まれるの」


 石段の途中で聞いた。さっきじぶんが吐いたあの音の正体を、たしかめたかった。


 祖父は雨に濡れる闇を見おろした。


「人の口からこぼれたものだ。恨み。妬み。呪い。誰かを傷つけるために吐いた言葉は、消えてなくなりはしない。どこかにたまって澱んで、やがてああいうかたちになる。……言葉は人を作る。同じだけ、人をこわしもする」


 言葉は消えない。その一言が胸の奥に小さな石みたいに落ちた。


 だったらあたしが飲みこんできた言葉たちは、どこへ行った。喉のもっと奥で、まだ出番を待っているんじゃないか。その奥がまたざわりとうずいた。さっきじぶんの意志でこじあけて吐いた、あの音のように。


 なのに今夜、その封をあたしはじぶんの手でこじあけた。おじいちゃんを守るために。あんなにこわかったのに、ふしぎと悔いはなかった。ただ――祖父があんな顔でおびえるほどのなにかが、あの音の先にはあるらしかった。


「ハル」


 祖父の声で我にかえった。


「こわい顔をしとる」


「……してないよ」


 うそだ。祖父もわかっていた。それでも何も聞かず、しわだらけの手でハルの頭をぽんと一度たたく。それだけで少し息がしやすくなった。


 祖父の手はあたたかかった。妖鬼の灰で汚れたごつごつした手。その温度だけをハルはじっと感じていた。


 あしたも学校がある。昼のあたしはただの無口な同級生のひとり。授業で当てられても、答えを知っていても、窓ぎわの席でただ首をかしげる。声を出せばなんでもない教室の空気にひびが入る気がして、昼と夜の境目をあたしはいつもたったひとりでまたいでいる。


 喉の奥ではまだ、あの声たちがざわめいている。だせ、と。


 そのときだった。


 足の裏にかすかな震えが伝わってきた。地の底のずっと深いところから。まるで途方もなく大きな何かが寝返りをうったような。ハルははっと足を止めた。祖父は気づかない。雨に濡れた石段があるだけだった。気のせい。そう思おうとして、けれどうなじの産毛は逆立ったままだった。


 来るはずのないバスのライトを、ハルは雨のむこうに待っていた。喉の奥のうずきを抱えたまま。


 その、とき。


 ふりむかれた、と思った。


 根拠はない。それでもはっきりと感じた。今夜あたしがはじめて放ったあのひと息に、地の底のいちばん深いところで眠っていた途方もなく大きな何かが――こちらをふりむいた。


 祖父の言葉が耳の奥でよみがえる。使えば使うほど気づかれる。ふりむかれる、と。


 もう遅い。あたしは気づかれてしまった。


 喉の奥で、知らないはずの音がひとつ脈を打った。ずっと昔どこかで村をひとつ灰にしたのと、おなじ音が。

 読んでくださってありがとうございます。

 村をひとつ灰にしたあの声は、だれのものなのか。なぜ妖鬼の呪詛が、ハルにだけ届くのか。物語の芯になる謎を、まずは静かに置きました。

 最後に祖父がこぼした「三音(みおと)」。あの三文字が、このタイトルの正体です。

 次回は雨のバス停。二人は、昔いたある少女の話をはじめます。

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