いつだって、杉原菜月は知っている(1)
「佐藤、加藤……井之村……大槻、青原……。だいぶ覚えてきたな」
「ええ、なかなかやるわね。私も大槻さんと青原さんは分かったわ。天ノ目さんの友人よね? 青原さんはクラス委員長だったかしら」
「……そうか。頑張ったな」
「ええ、頑張ったわ!」
彼に褒められたのが嬉しくて嬉々として言うと、それはもう愛らしいものを眺めるような、慈しむような、……愛犬に向けるような微笑とともに、
「そうか。偉いな」
『――その三。一色薫は困ったら「そうか」と言って……』
「うん!」
もういろいろ開き直って、やけくそみたいに頷いた。
あれから数日が経ち、週が明けた月曜日。
ほとんどクラスメイトの氏名を暗記した一色くんと、オセロで負け続けたおかげで八割……七割……半分くらいは覚えられた私。
「ほら」
「ありがとう」
いつも通りレモンティーを私のマグカップに淹れて渡してくれる一色くんに慣れた様子でお礼を言って、その手からコップを受け取る。そんな私に一色くんは、
「根詰めすぎるなよ。ちょっとずつでいいんだ。一緒に頑張ろう」
娘の高校受験を応援する父親みたいな、温かい目と優しい声音で言ってくる。
「う、うん」
そんな彼に私も段々目的が分からなくなってきて、言われるがまま頷いて、もう一度、座席表の出席番号を一番から順番に読み上げていく。
「蒼井早紀、青原優菜、安部翔、天ノ目紗月、安藤姫香、井口晴臣、池田慎之介、一色薫、伊藤……これなんて読むの?」
「またか。それはええと……分からん。なんだったっけ?」
『丞』という名前の読み方が分からなくて一色くんに尋ねると、呆れたように言っていた彼もその字を見て、困ったようにきょとんと首を傾げた。名字はほとんど覚えたと言っていたけど、名前はまだ怪しいらしい。
そういえば前も同じ人で詰まって、こうしてお互いに首を傾げたわね。そのとき読み方を調べたはずだけど、もう忘れてしまったわ。
人の名前って、何でこんなに無駄に読みづらいのかしら? 当て字とか古字とかあると、もう無理。
「ちょっと待ってろ。今スマホで調べるから、お前はとりあえず次の――」
「伊藤丞くん。漢字だけだとちょっと覚えるのは難しいよね?」
「「っ!」」
その聞き慣れた声に、彼と私は同時に身体を跳ねさせる。
二人でああだこうだと席順表片手に名前を覚える作業に熱中していたため、いつの間にか開けられていた生徒指導室のドアに気づかず、何故か聞こえた菜月の一言にそちらに目をやると、いつもの賑やかしい可愛らしい笑顔と、満ち月の夜桜でさえ見劣りしてしまう、美しい微笑みが向けられていた。……彼に。
「楽しそうだね~、二人とも。浮気かな?」
「……まあ、似たようなもんだ」
「ちっっがう‼」
いつもの調子で面白おかしくニヤケ面で尋ねて来る菜月にまたテキトーな軽口を返した彼。そんな二人に、私はさっき覚えた名前も忘れてしまうくらい、全力で叫んだ。
*
一色くんが菜月と天ノ目さんにそれぞれココアとレモンティーを、そのついでに私の分のおかわりも淹れてくれたあと、私たちは菜月に尋ねられるまま、ここ数日間の取り組みを二人に話した。
「ふむふむ、なるほどなるほど。浮気の言い訳にしてはなかなか上出来だね。私の可愛いトモちゃんに手を出した間男の薫ちゃんを健気に庇いたくなる気持ち、分かるよ」
「だから違うって! てゆうか、あんた絶対分かってるでしょ⁉」
「おい、あんまり古谷をからかうな。それに俺が無理に頼み込んで嫌々付き合ってもらったんだ。こいつは何も悪くない」
「ちょっ⁉ 言い方は間違ってないけど、今そんな言い方するとまた変な意味に聞こえちゃうでしょ‼」
さらりと私を擁護しようとして更に余計な誤解を生もうとする一色くん。
「? 何だ? 何の誤解を受けると思ったんだ?」
「っ……そ、それは……って、あんたも絶対分かってて言ってるでしょ⁉」
「さあ、何のことかわからないな。なあ、菜月?」
「あっはは、薫ちゃんも癖になっちゃった? トモちゃんからかうの、すっごい楽しいよね!」
そんな耳を疑いたくなるようなことをさらりと笑って言う菜月。思わず聞き流してしまいそうだった。聞き流してしまいたかった。
「ああ、癖になるな」
「あ、あんたたち……」
恨みがましい視線とともに苦々しく言いながら、私はこの二人には敵わないと心の中で悟った。……だって、こうやってからかわれるのもこの二人にだったらあんまり嫌じゃないし、むしろちょっと楽しいとか思っちゃったんだから。……いえ、ドMとかじゃないから。
「あの、」
私たちのやり取りが一段落して、各々が一口二口ずつ手元のコップに口を付けて一息ついた後。空気が変わったタイミングで、天ノ目さんがおずおずと口を開いた。
「その、クラスメイトに打ち解けたいというのは……その」
「ああ、俺の意志だ。いい加減、俺も古谷と同じボッチは寂しくなってきたからな。そろそろきちんと向き合おうと思ったんだ」
「あんた、人に頼み事してる立場でよくそんなこと言えるわね。……まったく」
言いながら、天ノ目さんの不安げな声に被せるように言った彼の軽口の裏にある気遣いを知っていて。『彼女の立場を守るため』なんて、彼は口が裂けても彼女に言えないことは分かっていて。彼にとってそれは『お前のために』というエゴと傲慢に満ちた言葉になることも、優しい彼女が『自分のせいで』と受け取ってしまうのだということも、全部分かっていて。
この数日、普通の友達みたいに毎日お昼休みに一緒の時間を過ごして、彼のことをもっと深く知ったと思っていたけど、どれだけ距離が縮んで言葉を重ねても、結局、最初に知ったその本質は何一つ変わらなくて。
近い距離で冗談を言い合っていても、この人はどこまでも遠い人なのだと思った。そしてやっぱり、そういうところが少し菜月に似ていた。
「っ……そう、ですか」
彼の冗談交じりの、彼にしては普段より少し明るい声音で言った軽口を聞いて、天ノ目さんは罪悪感と安堵感が入り交じったような声で微笑んだ。その微笑が何か痛みや苦しみを耐えたり隠したりしている悲しいものだということは、私にも分かった。
「……ああ、だからお前は気にしなくていい。お前は何も、関係ない」
…………。
相変わらず「言い方ってものがあるでしょ⁉」と叫びたくなるくらい不器用なその言葉選びに顔をしかめそうになり、胸のモヤモヤをため息とともに吐き出した。
少し心配になり天ノ目さんに目をやると、しかし彼女はべつに気にした風もなく、静かに「はい」と頷いていた。それを見て、言葉や外見だけで彼を見ない姿に、私だけではないのだとあらためて気づいた。
彼に救われ、彼から優しさを学び、心から彼を敬っているのは。菜月や私だけでなく、天ノ目さんもまた、彼の本質を知っているのだ。
そんなこと、遊園地で遊んだ時から知っていたけど。でもこうして彼を深く知った後にあらためて気づくと、抱く思いは……。
嬉しかった。だってちゃんと彼を見てくれる人が菜月や私の他にもいるのだと実感したから。
そして、少しだけ胸の奥にモヤモヤとしたものがあった。嬉しいはずなのに、何故か私だけではないのだと思うと少し寂しくて。
――ああ、そうか。
胸に浮かんだそんな思いとともにチクリと痛んだ胸の痛みを知って、分かった。本当の意味で、ようやく分かった気がした。こういう気持ちを、ずっと菜月は抱いていたのだ。例えば天ノ目さんに。例えば……私に。
でも決して、そんなこと言わなかった。彼を独り占めしたいとか、寂しくなったとか。
ずっとずっと、全部あのいつもの笑顔の裏に隠して、いつだって笑い続けてくれた。
強いと思った。そんなこと、ずっと前から知っていたけど。それでもやっぱり、どこまでも強い人だと思った。
寂しいとか悔しいとか、自分をもっと見てほしいとか。そういう気持ちが無いわけがない。それでも、自分が愛されることより好かれることより、
この子が望むのはずっと変わらず、彼の幸せなのだ。
人の痛みの欠片を知って、私は少しだけ優しくなれた気がした。




