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世界の色は一つでいい  作者: oqutopus
2章 愛しい日々は戻らない
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彼女の強さと祝いの季節(1)

「杉原」


 廊下ですれ違った女子生徒を呼び止めて、クイクイと親指で生徒指導室の方を差し、少し話せるかと呼び出した。


「どうしたの、先生? 私、なんか悪いことしちゃったかな?」


 大きなお目目をぱちぱちさせて、人好きのする可愛らしい笑みで人懐こく小首を傾げて見せる杉原。教師に対するには馴れ馴れしい態度ではあるが、しかし彼女のその奥にある深い気遣いを知っていれば、何一つ不愉快なものは感じない。むしろ、その誰に対しても同じように接する姿は彼女の強さを物語っていて、尊敬に値する。


「いや、すまない、そういうわけではないんだ。君は成績も生活態度も、何一つ欠点なく良好。……本当に、君の幼馴染にも見習ってほしいくらいだ」


 私にとっての杉原は、もうすっかり彼の保護者代わりだ。どうしようもない彼の愚痴を、偶にこうして彼女と話している。

 いつもの調子でため息交じりに冗談めかして言った私に、にこりと可愛らしく笑んだ彼女は、


「あははっ、薫ちゃんはそういうところまったく気にしないもんね~。どうも、うちの子がご迷惑をおかけします」


 そんな私の冗談に乗って、彼女もまた楽し気に言いながら深々と保護者然とした体を装って頭を下げて見せる。


「まったくです。お宅のお坊ちゃんには手を焼かされますな」


 厳かな先生然として腕を組んで厳しい態度を繕ってみると、何だか私もおかしくなってきて、杉原と二人、声をそろえて笑ってしまった。



「それで、何か用事があったんじゃないの?」


 彼が勝手に持ち込んでいるインスタントコーヒーとココアを迷惑料として拝借して、それを片手にしばらく談笑を楽しんだ後、場の空気を切り替えるように一口ココアに口をつけた杉原が言った。


「……ああ。まあ、君のことだから、薄々察しはついているかもしれないが。……一色のことで少し。最近……何かあったか?」


 恐る恐る、言葉を選んだつもりで、結局、何一つ確信に触れられず、慎重に尋ねた。

 杉原菜月は優しい女の子だ。明るくて楽しくて、いつも笑顔を纏っている。いつも同じ空気で癒してくれる。……だからこそ、彼女の抱える痛みは気づき辛い。そして皮肉なことに、誰よりも痛みに敏感な彼が、唯一それにだけは気づけない。誰よりも優しい彼が、いつまでも彼女を傷つけ続ける。

 この子の笑顔はどこまでも深く、何よりも本物らしい。今の彼女の笑顔が私との他愛ない談笑を楽しんでくれている本物なのか、あるいはその栗色の瞳の奥に痛みを抱える偽物なのか、……恥ずかしいことに、私には少しも分からない。

 この子にとって、一色薫は何よりも大切な存在だ。世界の中心であると言って過言でないほど、この子の愛は本物だ。

 だからこそ、何一つ具体的に尋ねることは出来なかった。


「何かって、……なに?」

「っ……!」


 まさか問い直されるとは思わなかった。

 きょとんと首を傾げて、すっと瞳の奥を覗き込まれる。

 その問いかけが本当に言葉通りのものなのか、あるいは……。やはり私には分からなかった。


「その、……何か、だ」


 罪悪感や後ろめたさから、彼女からさっと目を逸らして、何の答えにもなっていない、とても先生が生徒に対して返す解答とは思えないような、曖昧な答えを返してしまう。

 そんな私の様子を見て、ふっと彼女は頬を緩めた。


「ふふっ、ごめんごめん、ちょっと意地悪しちゃった。ほら私、美人なお姉さんの困ってる顔も大好きだから」


 けろりとした顔をして、いつものようにセクハラまがいの冗談で沈んでいた空気をぬるま湯に戻してくれる杉原。


「……まったく。君は成績も生活態度も優秀だが、そういうところは少々問題だな」


 弛緩した空気に私も強張っていた身をほぐして、冗談めかして言いながら彼女の軽口に乗っからせてもらう。


「アハハ。……あったよ、何か」

「っ……そうか」


 すっと笑顔のまま切り出された先ほどの問いかけへの答えに、虚を突かれた私は一言、冷静を装って言葉を返すのが精いっぱいだった。


「ふふ、先生のそういうところ、ちょっと薫ちゃんに似てるよね。困ったときに『そうか』って言って考え込むとこ、ほんとそっくりだなあ」

「っ……」


 何を意図して彼女がそんなことを言うのか、私には分からない。ただ、どこまでも深いその瞳は私の浅い思考を見透かしているようで、とても受け持つ生徒に対して抱く思いではないが、それでも。私は彼女を、……この優しさに満ちた愛らしい生徒を。

 ……怖いと思った。

 彼女の言う通り何と言っていいのか分からず、手元のコーヒーの入った紙コップを一口飲んで間を埋めるように誤魔化す私に、彼女は言った。


「先生だよね? 薫ちゃんに、メメちゃんを気にかけるように言ったの」

「!」


 思わず手に持った紙コップを取り落としてしまいそうだった。驚いて目を見開く私に、しかし彼女は笑って。


「……ううん、先生の思ってるようなことは全然思ってないよ。むしろ感謝してる。ほら、先生のおかげで、私も美少女転校生とお近づきになる機会ができたわけだし!」


 テヘペロとした様子で軽口を織り交ぜて話す彼女だが、しかしその笑顔が本物ではないということくらいは私にも分かった。


「っすぎ――」


 何か言わなければいけないと思った。でも、何を言うべきか分からなかった。

 謝るべきだろうか?

 何を? 何を謝罪し、何に対して赦しを乞う。

 励ますべきだろうか?

 教師として? どんな顔をして? この子の気持ちを知っていて、それでも天ノ目のことを気にかけるように彼に頼んだのは、他でもないこの私なのに。

 どんな顔をして今更、「大丈夫か?」……なんて、罪深いことが言える? 恥知らずなことが言える?

 ……でも、何かを言わなければいけないと思った。

 「大丈夫か?」でも「すまなかった」でもなく、べつの何かもっと大切な――……


「好きって言ったよ」


 私の言葉を遮って、何でもないように彼女は言った。


「薫ちゃんに、好きだよって、付き合ってよって言ったの」

「ッ……っ君は、」

「もう、耐えられなかったんだ……っ」


 声が震えていた。それなのに、彼女はここに入って来た時と変わらない笑顔を纏っていた。


「っすまない! 私が悪いんだ。私がっ」

「ううん、そうじゃないよ。本当に、そういうことじゃないんだ」


 条件反射で頭を下げようとした私の言葉をそっと遮って、


「桃華ちゃんが学校に通えるようになって、薫ちゃんの世界が変わっちゃった。そしたら薫ちゃん、もう空っぽみたいな顔して。もう全部、終わったみたいな顔して……っ」

「ッ――!」


 それを聞いて、彼がどんな状態なのかをすぐに察した。


『俺の一番は、どんな時も変わらないので』


 入学式当日、この生徒指導室での彼の言葉が脳裏をよぎる。

 彼は妹のために生きている。冗談でも何でもなく、本当に心から彼女の幸せだけを願って、そのためだけに生きている。

 なら、その一番が巣立って行ったとき、彼は――……


「あはは、でもフラれちゃった。すまないって、謝られちゃったよ」


 これほどまでに()()()()笑顔を見たのは初めてだった。

 私はこの子と彼の関係をそこまで詳しく知っているわけではない。ただ昔からの幼馴染で、彼を深く知っている、唯一の存在なのだということは知っていた。この子の想いにも気づいていた。

 そして、それがきっと報われないことも。


「っっ……」


 この子も分かっていたはずだ。

 一色薫は自分のためだけには生きられない。

 私よりもずっと彼のことを見てきた彼女が、分からないはずもない。

 ……だから、きっとそれでももう気持ちを伝えずにはいられないと思うほど、妹の成長を見届けた後の彼の姿が痛ましかったのだろう。想像するだけでも胸が締め付けられるほどだ。誰よりも身近で見てきたこの子がどれほど辛かったか、もはや想像もできない。

 どう声をかけていいか分からず、喉を鳴らして唇を噛み締めるだけの私に、やっぱり彼女はいつものように笑って見せた。


「でも、きっと大丈夫。ちょっとずつちょっとずつ、薫ちゃんも変わって来てる。だから、」


 ――安心してね、先生。


 痛ましいその笑顔が、彼女のどんな微笑みよりも美しいものに見えた。


「もうすぐだよ。きっとすぐ。教室でみんなと笑ってる薫ちゃんを見る日が、きっとすぐに来るよ!」


 グイっと強引に残りのココアを飲み込んで、きっぱりと言い放った彼女のその変わらない笑顔を見て――


 私は強さの意味を理解した。

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