彼女から見た修学旅行 安桜一美 (2)
「あの、安桜先生」
修学旅行三日目の朝。ホテルのバイキングで朝食を取って自室に戻ってきた私に、部屋の前で待っていたらしい天ノ目が声をかけて来た。
「? おはよう天ノ目。今日は良い朝だな」
天気は快晴に限りなく近い晴れ模様。まさに秋日和という言葉がぴったりの空だ。ビルの隙間に見える山の粧いは美しく、今からの京都観光が待ち遠しい。
「はい、おはようございます」
美味な朝食に秋晴れの空、そして今日の京都観光。
気分よく挨拶した私に、彼女もにこりと秋の紅葉に勝るとも劣らない美しい微笑とともに、控えめに挨拶を返してくれた。実に素直で可愛らしい生徒だ。転校当初は病気のこともあって、どこかクラスメイト達とも距離を取ろうとしていた印象だったが、近頃では教室の中でも温かい笑みをよく目にする。
きっと、彼と深く関わりを持つようになったからだろう。
……ただ、
私の策略の上での展開にもかかわらず、しかしそれを素直に喜ぶことはできなかった。
彼には人の痛みが見えている。彼が天ノ目と一瞬でも関わりを持った瞬間、彼は彼女の抱える違和感に気づいたはずだ。そしておそらく彼はこう考える。
『俺という存在が天ノ目に与える負の影響を、俺は知っている。彼女の痛みが明確になる前に、彼女に情を抱いてしまうその前に、早く彼女の下から離れるべきだ』
……本当に、彼は変わらない。彼が考えるのはどうすれば相手が傷つかないかという一点であり、それ以上に優先するべきことなど無いと、切り捨ててしまう。切り捨てて……それでも人として当たり前に抱いてしまう『寂しさ』だとか『悲しさ』だとか……『甘え』だとか。そういったどうしようもない自分の弱さを、徹底的に否定する。だから彼はいつも傷ついて、それでも誰かを助け続ける。まるでそれ以外に選択肢などないと言わんばかりに。それが一色薫なのだと意図も意志もなく証明するように。
正しくて、優しくて、どうしようもなく本物で……だからこそ、どこまでもどこまでも残酷な、そんな生き方しか、……彼には選べない。
とはいえ、最近の彼も以前に比べればいくらか柔らかくなってきたような印象を受ける。おそらく、彼も天ノ目や杉原と関わる中で、知らず救われている部分もあるのだろう。
本質が決して変わらないにせよ、それでもどんな人間であれ抱いてしまう弱さはある。それを支え合うことが本来、人がこれまでの長い歴史の中で培ってきた英知の結晶であり、それが本当の意味での人の強さだ。
……まあ、彼はきっとまだそれには気づいていないのだろうが。むしろ気づかなくていい。気づいてはいけない。気づいてしまった瞬間、彼はまた甘えという弱さとしてそれを捉え、どうしようもなく自分を否定してしまうのだから。
「それで、こんな朝早くに担任の部屋を訪れるとは、どうしたんだい? 何か困りごとかね?」
心中の安堵や不安や葛藤を決して表情には出さず、生徒の前では常に頼れる大人であるよう取り繕いながら、私は何でもないように問いかけた。
「あの、今日の京都観光についてお話ししたいことが……」
そんな私にためらいがちに、廊下に目を伏せながら、何かを堪えるように言う天ノ目。
「? 何か予定に変更でもあったか? たしか、君たちの班は清水寺の方に行く予定だったな」
一色・杉原・天ノ目・古谷・田中・中谷。
彼女たちの班の組み合わせはこんな感じだったはずだ。
私が言うと、天ノ目は「いえ、そういうわけでは」と言葉尻をすぼめながら小さく言った。
「……何にせよ、廊下で長い時間話し込むのは周囲に迷惑だろう。一旦、私の部屋に入ろうか」
彼女の様子から何か特殊な事情――例えば目のことで相談や不安があるのかもしれないと思い、教員が生徒を修学旅行中とはいえ部屋に招くのは……というためらいをそっと気づかなかったふりをして、言い訳交じりに彼女を部屋に入れた。……まあ、女性同士だからセーフということで一つ。……内緒にしてくれ。
「それで、君が私にこうして話しかけてくるのも珍しいな。もっと頼ってくれて構わないんだぞ?」
部屋の中でソファーに腰かけた天ノ目にホテルのアメニティーの中からコーヒーかお茶かどちらにする?と尋ね、見事選ばれたお茶を差し出しながら、彼女の緊張を解く目的で皮肉交じりに本心を伝える。
「あはは、ありがとうございます。ですが、私はもう十分助けてもらっているので」
貼り付けたような、きっと彼女がこれまでの痛みに耐え続ける日々で身につけた自己防衛にも似た本当に美しい、上手な笑みで。おそらく彼が見たら一発で見破ってしまうだろう完璧な笑みで、彼女はにっこりと微笑を浮かべて私にありがとうと返す。
っ……。
一瞬言葉に詰まりかけ、しかしそんな態度を見せるわけにもいかず、私は手元のコーヒーカップを一口飲んで、胸に抱いたもやもやとした感情を飲み込んだ。
「……まあ、君には優しい友人たちがいる。彼らといれば、きっと君は大丈夫だ」
私はこの子の先生なのに、それでもどうしてあげることもできず、同じく守るべき生徒である彼や彼女に頼ってしまう。そして彼女たちはそれに応えてしまう。いや、応えてくれる。
この子たちが仲良くなっていく様子を見て、傷をなめ合うように寄り添いあっている姿を見て、つい「良かったな」などという忌々しい思いを、「あの時の選択は正しかった」という醜い自己肯定をしてしまいそうになる自分が、どうしても許せなかった。
だってそれは結局、最後には彼を傷つけてしまうと分かっているから。
彼に選択する自由なんてないのだと分かっているのに、結局それを選ばせてしまうのだから。
こんな醜い思いを知られたくなくて、こんなことを思ってしまう先生で申し訳なくて。それでも生徒の前だから取り繕ってカッコつけて励まして見せた私に、何故か天ノ目は辛そうに目を伏せる。
そして言った。
「本当に、それが正しいことでしょうか?」
「っ」
「私は本当に、一色さんや菜月さんにとって、傍にいてもいい存在になれているでしょうか? ッ……彼女の想いを知っているのにっ。それでも離れないでいる私を、邪魔だとは」
「そんなわけない。そんなことを彼女が思うわけないじゃないか!」
どうしてそんな泣きそうな顔をするのか分からなかった。どうして涙を堪えていられるのか分からなかった。
杉原の気持ちには私も薄々気づいている。この子の気持ちにも、察しはついている。……奴の気持ちだけは察していても察したくないし、どうかそれが見当違いであってくれと願わずにはいられないほど、残酷なものだが。
まさかここまで思いつめているとは思わなかった。きっとこの子も気づいたのだ。いや、もともと気づいていて、そしておそらく決定的な瞬間があった。彼女の想いを言葉にして受け止めるような、そんな瞬間が。
「っ……ですが、それがなくても、私はもう視界が薄暗く滲んで来ていて。お医者さんの見立てでは、おそらく来年の春ごろにはもう」
「っ……!」
彼女の口から語られるその残酷な現実に、私はどう答えたらいいのか分からなかった。その代わりに、なぜ彼女がこうして私の下を訪れたのか、何となく察した。
「先生、」
彼女は言った。
「私にはもう、みんなと同じ景色は見えていません」
残酷な運命を背負っていることは知っていた。彼女の病気についても知っていた。でも、こうして彼女の口からそれを聞いたのは初めてだった。
「本当は、昨日の伏見稲荷の時も怖かったんです。人がいっぱいで、足元が見えづらくて。……でも、一番怖かったのは、一色さんたちが見ている景色と私の見ている景色が、同じではないのだと分かってしまうことでした。あの時は凄く楽しかったのに、あとから振り返って写真を見返したとき――っ」
そして彼女は諦めにも似た偽りの微笑みで。
「先生――あの鳥居は、どんな色に見えていたんですか?」
「っ」
教職という立場でありながら、ここまで哀れで残酷な問いかけを受けたのは初めてだった。
答えあぐねて、ただ彼女のそのどこまでも純粋な、儚いほどに美しい瞳を見つめ返すことしかできない私に、彼女はすっと目を伏せて、そして笑った。
「……すみません、つい関係ない話をしてしまいました。体調が優れないので、今日は自室で待機しています。ご心配をおかけして、すみません」
最後まで謝る彼女にただ「……ああ、一色達にはそう伝えておく」と先生然を装った返事を返しながら、その嘘だと分かり切っている仮病を指摘することすらできない自分の無力さを実感し、彼女の抱える悲しみの深さを思い知り、彼女が結局一口も飲まなかったお茶の湯けむりを眺めて、そして私は――
私は彼女を救えないのだと、心の底から理解した。




