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世界の色は一つでいい  作者: oqutopus
2章 愛しい日々は戻らない
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本物を知った者(3)

「なんだかんだ、私も楽しんでしまっているな」


 お手洗いに立った私は手を洗いながら、今日の坂本先生に強引に誘われた合コンについて振り返って、ふっと微笑をもらす。

 毒島一色くん。

 なんとも好青年じゃないか。愛想も器量も良くて、自分の夢を追いかけ続ける純粋さもある。まさに『いい子』という言葉がよく似合う子だ。

 ……本当に、彼とは正反対のような。


「っ……」


 ふいに思い浮かんだ不愛想な顔に、なぜ今更彼を想いだすのか意味が分からず、二~三度首を振って胸に抱いた痛みにも似た感情を誤魔化す。

 ……いい加減、私も前を向くべきだろう。


 つい考え込んでしまったが、あまり席を空けてしまうのは申し訳ない。

 私は少し急ぎ足になりつつトイレのドアを開け――


『―――』



 *



「なあ、どうだった? あの女イケそうか?」

「あー……まあ、ちょっとプライドは高そうだけど、金は持ってそうだったからなあ。今日の分も出すつってたし」

「てか、何気にすっげえ美人じゃね? 年考えなけりゃ俺、一番タイプかも」

「たしかに。でもちょっと真面目すぎるっつーか、つき合うとかは考えられないな」

「バーカ。ああいうのは一旦懐いたら勝ちみたいなもんだ。その気にさせて上手いことやれば、当分は遊ぶ金には困らねえ」

「うっわ、相変わらず毒島、名字どおりの性悪だな」

『あははは』


 …………。


「……随分と、楽しそうな話題じゃないか」

『っ!』


 すっと胸のあたりが冷たくなるような感覚がして、熱が引いて行くような、感情が平らになったような、言葉にし難い思いだった。

 賑やかしく話しながらトイレに席を立ってきたらしい男性陣の軽薄な話題に、思わず声をかけてしまった。


「あ、あさっ…い、いえ、これはべつに、その」

「いいや、いいんだ。構わない。好きなように話せばいい」


 何か言い繕おうと必死に言葉を探す彼に被せるように言って、私は鞄から財布を引っ張り出す。

「すまないが、仕事が残っているのを思い出した。今日はこの辺で失礼する。生憎と、私は腐った果実(半人前)に時間を取っている余裕はないのでな」


『――ッ』


 思いのほかきつい言い回しになった私の言葉に表情を強張らせる子供達に、財布から引き抜いた一万札を数枚握らせて、


「遊ぶ金が欲しかったのだろう? どうぞ好きに使うといい」


 最後に冷え切った目と苛立ちを孕んだ声で言い捨てると、周囲にいた客たちから歓声が上がった。



 *



 ……べつに、彼らが悪いわけではない。

 人間なんて、もちろん私も含めてみんな自分勝手のエゴの塊のような存在(もの)だ。

 どうしたって自分のためにしか生きられない。

 優しい言葉には裏があり、甘い蜜には毒がある。テレビの中のインフルエンサーの偽善と私欲に富んだ優しい優しいチャリティー募金も。毒島一色の誠実を装った夢追い物語も。

 どんな言葉や行動も、結局は自分が利を得るための偽善に他ならない。

 だから、何もおかしなことではない。特別彼らが酷いわけではない。

 自分だって、疲れているときは電車やバスの中でせっかく座れた席を譲りたくはないと思ってしまうし、視界の隅で困っている人がいても、余裕がなければそっと目を背けてしまうときもある。揉め事にはできるだけ関わりたくはないし、余計な軋轢を生むくらいなら、嘘をついて愛想笑いで誤魔化してしまえばいいと思う。

 人は弱い生き物だ。心も身体も弱い私たちは、どうしたって自分の弱さには勝てない。正しく生きたいという理想は誰しもが胸に抱いていても、つい欲に流され痛みを避けて、これが自分だと肯定してしまう。

 人は決して、ヒーローにはなれない。



「どうぞ」


 静かな落ち着いた空間で、寡黙なマスターがそっと差し出したのは『ケーブルグラム・ハイボール』というカクテル。

 何となくこのまま家に帰ると嫌な夢を見てしまいそうだったので、気分を変えようと行きつけのバーに立ち寄った。

 少し気取って頼んだカクテル。グラスを掴んで、くっと一口煽る。

 スッキリとした飲み口。レモンの酸味が爽やかに香る。

 すっかり忘れてしまった今日の料理の味の代わりにその香りに酔いしれながら、ふっと息を吐いて見せると、掲げたグラスの氷がカランと音を立てて回る。


「……すっかり、理想が高くなってしまったな」


 その薄く色づいた氷を眺めながら微笑とともに漏れ出た皮肉交じりの声は、誰の耳に届くこともない。ただ私の胸にそっと積もって、どうしようもなく歪んだ現実を自覚させる。


 人は弱い生き物だ。弱くて愚かで野蛮で小賢しくて、いつだって最後は己の損得でものを見る。

 何も間違ったことではない。自分の人生なのだから、自分のために生きるのは当たり前だ。

 きっと見方を変えれば、あのインフルエンサーの偽善的募金も、あの青年の誠実に見せかけた嘘も、誰かにとっては優しいことになるのかもしれない。


 ……けれど、私は知っている。


 本物の優しさを。本物の正しさを。

 驚くほど不器用で、どこまでも底なしに優しくて、最後まで誰かの幸せを願い続けた、本物のヒーローがいたことを。


 ふっと皮肉気に頬がひきつる。そっと目を伏せて口に残る酸味の余韻を楽しみながら、思わず声が漏れた。


「本当に、責任を取ってもらいたいものだ」


 誰にともなく口の中だけで呟いて、記憶の中の彼を想う。

 優しい人も正しい人も、きっと世の中にはたくさんいるのだろう。たとえそれが私利私欲のためであったとしても、それを偽物と呼ぶのは間違っている。……そんなこと、もちろん分かっている。

 けれど、……どうしても。どうしても考えてしまう。

 願ったところで祈ったところで、もう彼は皮肉さえ返してはくれないのに。

 それでもつい、考えてしまう。

 この悲しみばかりの歪んだ世界で、誰よりも正しく在った彼のような優しさが、本物なのではないのかと。

 純粋に、何の見返りも求めず、決して痛みから目を逸らさない。あんな尊い生き方が、本物なのではないのかと。


 彼のおかげで、随分と理想が高くなってしまった。

 どうしても認められなくなってしまった。

 ああ、本当に困った。本当に責任を取ってもらいたい。


『先生にだって、返せていない恩はいくらでもありますから』


 ふいに思い出した彼の言葉に思わず目頭が熱くなる。

 グラスを煽るのを言い訳にそっと零れたそれを拭って、ふうっと息を吐く。


 ――ああ、もう一度きみに会いたい。


 胸に浮かんだ寂しさを、酔いのせいにした。

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