それでも彼は気づかない(1)
「こ…こんにちは。ずっとお休みしていた――」
中学の来賓用のスリッパを履いて、廊下から頑張る妹の姿を覗き見る。黒髪のその少女は緊張と不安を孕んだ声で、それでも最後まで自己紹介を言い終えた。
今日は桃華が中学に初めて通う日。中村先生の計らいで特別に同行を許可された俺は、桃華が教室に入る前に、事前に生徒達に桃華の髪のことや今まで通っていなかった事情を説明した。そんなことをしたところでどれだけの生徒が悪意なく桃華と向き合ってくれるか分からないが、それでも下手に誤魔化したり桃華自信に説明させるよりは、俺が本心を伝えたいと思った。
「お疲れ様です。この様子なら、皆さんきっと仲良くしてくれるでしょう」
一緒に来ていた天ノ目が、さっそくクラスメイト達に囲まれている桃華を見ながら言う。
「ああ。そうだといいな」
「きっとそうだよ! 薫ちゃんは髪黒くしても目つき悪いから、結局あんまり変わんないけど。モモちゃんはもともと社交的だし、きっと大丈夫だよ」
同じく一緒に来てくれた菜月がそう言って茶化してくる。
修学旅行の後、しばらく外に出る練習を続けた桃華だったが、やはり白髪を見られること自体に相当なストレスを感じてしまうらしく、帽子を脱いでの外出は出来なかった。
これまで髪を染めることは考えなかったわけではないが、それは桃華の大事な個性だ。それを否定して黒く染めろと言うのは、桃華をいじめていた奴らと何も変わらない。そう思って言えなかった。
だからこそ驚いた。桃華自信が、髪を染めると言い出したときは。
桃華は髪さえ隠していれば、問題なく外に出られるようになった。そこで、先に髪を染めることで外に出て、外に慣れた後から少しずつ元に戻していこうという話になったのだ。これは俺の案ではなく、菜月と天ノ目が桃華と相談しながら導いてくれた結論だ。
そして今、その判断がきっと正しかったのだと思える光景が目の前にあった。
「っ……本当に、頑張ったね。モモちゃん」
「……はい」
その光景を眺めながら、そっと涙を拭う二人。
あのとき俺達二人で始めた日常が今終わったのだと、クラスメイトたちと笑いあう桃華を見て思った。
*
「行ってきまーす」
「ああ、行ってらっしゃい」
友達が迎えに来ているからと少し早めに玄関を出て行く桃華を、俺は歯ブラシを咥えたままそう言って送り出した。洗面所から廊下に顔を出して、玄関のドアが閉まるまでの間、何となくピカピカのセーラー服に身を包んだ妹の背中を眺めていた。
――ちゃん。かおるちゃん。
「――薫ちゃん!」
「っ」
「あ、やっと気づいた。もう十八時だよ? そろそろご飯作んないと」
うっかり学校から帰った後、そのままソファーで眠っていしまっていたらしい俺に、合鍵を使って入ってきた菜月が呆れたような顔をして言う。
「ああ、もうそんな時間か。助かった。桃華は?」
「モモちゃんなら、今日は友達の家に泊まるって言ってたでしょ? ちょっ、大丈夫だって。女の子だよっ」
「……そうか。そういえばそんなことを言っていたような気がする」
事前にそれを聞いていたので、うっかり自分の飯だの何だのを投げ出して眠ってしまっていたのだろう。
「まったく。モモちゃんがいないとすぐこれだもんね。薫ちゃんはもう少し自分のことを考えるべきだよ。モモちゃんもそれを心配して、私に薫ちゃんのこと頼んできたんだから」
言いながら風呂を溜め始める菜月。そんな菜月の様子が誰かと重なって。
「……そうだな」
菜月と俺、二人分の夕飯を作りながら。二年間暮らしたこの部屋がこんなに広かったんだなと、誰もいないソファーを見て思った。




