彼女の秘密(2)
月影症。
過度なストレス等により免疫力が著しく低下した状態において、特定のウィルスが目から感染することによって発症する極めて稀な眼疾患。通常、無害なそのウィルスは、感染が進むに従い網膜に異常をきたし、色素を判別する機能を失わせ、やがて光さえも奪いゆく。それまでの期間、患者は発症から徐々に視界の色を失い、白黒の世界を見るようになると言われている。それはまるで墨汁をひっくり返したような、光と影だけの世界。
この病名は作家・柴崎郁三郎の小説、『月の影』に由来し、作中で似た病を患っていた主人公が語った、
『その陰りがお前のものか私のものか、もう私には分からないけれど、それでもお前はいつ見ても、美しく闇夜を照らすまばゆき光だ』
という一節が世に広まり、この病の名と共に人々の記憶に刻まれた。
現在も治療法は確立されておらず、分かっているのは慎重な経過観察しか手立てがない一方で、診断を受けた患者の半数以上が発症から約三年以内にこの世から完全に光を失っているという現実のみ。
そしておそらく、今日診察に来たあの哀れな少女も、きっと同じ結末をたどることだろう。
「あの笑顔を見る度に、自分は無力なんだとつくづく思うよ。あんな風に笑われてしまっては、辛いのがどちらか分からなくなってしまう」
「先生……」
「いや、こんな言い方は間違っているかな。辛いのも頑張っているのも、すべてあの子だ」
「っ……」
診察中、ずっと我慢していた涙を拭って、胸の痛みをこらえるように嗚咽を漏らす看護師からそっと顔を逸らして、彼女の担当医である北原和彦は熱くなる目頭を、メガネを拭くフリをしてぎゅっと抑えた。
患者にあんな顔をさせるために、この仕事を選んだわけじゃなかった。
不安で病院を訪れる患者を、心から笑顔にして送り出す。
父や母の志した理想を、自分も継いでいきたかった。
『おかげで元気になったよ。ありがとう、和彦』
『先生、ありがとうございました』
ふいに、記憶の中の、幼い頃に見た祖母の微笑みと、さっきの彼女の笑顔が重なった。
「っ……」
昔、医者なんて志すよりもずっと前。祖母の病室に毎日通って、父におもちゃ代わりにもらった壊れた聴診器で、本気で祖母の病気が治ると思っていた。
『元気になってね、おばあちゃん!』
『ふふ、……ありがとう和彦。和彦のおかげで、おばあちゃんすっかり良くなったよ』
――それが、祖母と交わした最後の言葉だった。
どれだけ願っても、気持ちだけでは誰も救えないのだと、そのとき知った。
そしてどれだけ腕を磨いても、どれだけ多くの患者を救っても、本当に大切な人を救えないこともあるのだと、泣き崩れる父の背中を見て思った。
そう、あの時知ったはずだ。けれど、やはりそれを認めたいとはどうしても思えなかった。
医者という職業を続けていると、世界は残酷なものだとつくづく思い知らされる。
欲しいものは与えられず、大切なものは奪われて、けれど気まぐれに願いを叶えて見せる。
もしも神様がいるのなら、いつか一発ぶん殴ってやりたいと何度も思って、そしてその分だけ何度も何度も感謝した。
僕たち医者にできることなんて本当に限られている。
たとえ病気を治せても、彼女を幸せに出来るとは限らない。彼女を幸せにできたとしても、病気を治せるわけじゃない。
現代医療では、彼女の病気は治せない。神様にだって不可能だ。
だからどうか。どうか。
奪われてばかりのあの子を幸せにしてくれる誰かが、どうか現れますように。
心から願う。
無力な僕たちには、願うことしかできなかった。




