彼女の秘密(1)
「視力検査の結果だけど、……残念ながら、前回と比べて左右どちらも下がっていたよ。色覚検査についても全体的に前回より低下していた。このままだと」
そこで一旦言葉を区切った先生は、それから先をどう伝えたらいいか一瞬迷うように私と姉さんに視線を向けた後、言いにくそうに、けれど努めて冷静な声音で続けた。
「……このままだと、やはり予想とそう違わないタイミングで、君は視力を失うことになるだろう」
静寂に包まれた部屋の中で、先生のその一言がやけに大きく響いた。
もう一年以上通っている総合病院。月に一度の定期検査も、何度も通っているうちにすっかり慣れてしまって、いつの間にかお医者さんや看護師さんとも顔なじみになっていた。
ぎゅっと拳を握った先生の後ろ、いつも気さくに話しかけてくれる看護師のお姉さんがそっと外に視線を逃がして、熱くなる目頭を隠すように顔を伏せているのが視界の隅に見えた。そんな彼女を見て、きっと私は可哀想な子なんだなと他人事のように思った。
診察結果に心は痛んだけれど、生活の中でだんだん物が見えにくくなってきている気はしていた。だから私はその結果を自然と受け入れることができた。涙を流さずに済んだ。
ただ、気の毒そうに、気づかわし気に私を励ましてくれる先生や看護師のお姉さんに、私は何と言って返せばいいのか分からなかった。どう振る舞えば、二人が私のことで心を痛めずにいてくれるのか分からなかった。
だから私は精一杯の笑顔を張り付けて、いつものように笑って見せた。
病院を出て、駐車場のバス停までの時間、私たちの間に会話はなかった。何か言うべきことも言いたいことも、言ってほしいことも、不思議と何も思い浮かばなかった。
バスが到着して、同じように病院から出てきた人たちと共に乗車した。夏休みの時とは違い車内は比較的空いて、今度は座ることができた。以前、一色さんと乗り合わせてしまったときは誤魔化すのが大変だったなと、何故かふいに思い出して、少しだけ頬が緩んだ。
「お父さん、お母さん。以前もお話しした友人の一色さんですが、最近少しずつ表情が柔らかくなってきたように思うんです。彼の妹の桃華ちゃんとも、友人になれました。すごく可愛らしくて、まるで妹ができたみたいです」
病院からの帰りはいつも、両親のお墓参りに寄って、最近あった楽しかったことや嬉しかったことを報告するのが、私たち姉妹の恒例だった。
「いっぱいお世話になってるんだよねえ。大丈夫っ! 安心してね、二人とも。私がちゃんと親御さん挨拶、代わりに済ませといたから。結婚式には一緒にバージンロード歩こうね!」
「ね、ねえさんっ」
勝手な報告をする姉さんに声を荒げそうになって、けれど両親の前だと思いなおしてぐっと恥ずかしさを堪える。
「ふふ、それでね、初めてうちに来た薫くんに、あざといことに紗月ちゃん、――」
…………。
勝手に人のことを報告しないでほしいとか恥ずかしいとかやめてほしいとか、言いたいことはいっぱいあったけれど、楽しそうに話す姉さんを見ていると、なんだかそんなことを言ってせっかくの両親との時間を邪魔してしまうのは申し訳ないと思った。
だから私は何も言わず、いつもよりどこか幼く見える姉さんから両親の墓石に視線を移して、気を取り直して二人に報告を続けた。
「不思議です。出会った頃はとても気難しく思えていたのに、今ではなんだかすごく分かりやすい人だな、なんて思えてしまうんです。……いつだって優しくて、それなのにいつも不器用で。的外れな気遣いで損ばかりして、結局自分が傷ついて。だけど何にも気にしていなくて。……そういうところを見ていると、全然怖くないんです。みんなが怖いと言う彼の方が、私には別人のように思えるんです」
自分で話しているうちに、話の内容が一色さんたちのことばかりだという、すごく恥ずかしいことに気づいてしまった。それでも話し続けたのは、お母さんやお父さんの前だったから。二人の前では、自分の心に素直でいたかった。
本当に不思議だ。少し前まで、今の学校に転校して彼と出会うまでは、お墓参りに来てもこんなに長く話すことなんてなかった。報告したい楽しかったことや嬉しかったことが少なくて、あんまり長居すると不安だとか不満だとか、二人が聞きたくないだろうことまで話してしまいそうだったから。
「いつか菜月さんが言っていたのですが、一度彼の心に気づいてしまうと、たしかに彼がどんなに酷い態度をとっても、ついその奥にある優しさを考えてしまいます」
彼は優しい人だと知ってしまったから、もうどんなに酷いことをされても、きっとそれが誰かのためなんだろうなと思えてしまう。
「桃華ちゃんや菜月さんもすごく優しい人たちで。優しい人の周りには、優しい人が集まるんだなって、彼らを見ていると思うんです」
そしてその輪の中にいられることが、どうしようもなく嬉しくて。この時間を壊したくないと心から思えて。
「一緒にいると、私も優しくなりたいと思えるんです」
転校したばかりの頃はできるだけ一人でいようなんて考えて、クラスメイト達と深く繋がりを持たないように、頑張って壁を作ろうとしていた。
いつか失くすと分かっているのなら、始めから孤独でいたいと思っていた。
「……けれど結局、私はその寂しさには耐えられませんでした。つくづく思います。私は弱い人間なんだなと」
つい、弱気なことを語ってしまった。けれど、やっぱりそれも本心だった。
「想像していた何倍も、一色さんたちといる時間は楽しくて。温かかったんです」
きっとあの部屋で、私たちはお互いに寂しさや弱さを持ち合って、温めあっている。
それを言葉にしてしまうと、すごく悲しい言葉になってしまうから。だから私たちは何も言わず、けれど一緒にいることをやめられない。
だから……。だからきっと、失くす時の痛みも、想像しているよりも何倍も痛いのだと分かってしまう。
先日の遊園地での菜月さんとの会話が脳裏をよぎる。
あの時、彼女の言葉を聞きたくなかったのは。耳を塞いで、目をつぶっていたかったのは。
――いつか終わってしまうのだと、気付きたくなかったから。
そんな言葉は飲み込んで、私はまた笑顔を作った。
「だから、安心してください二人とも。私は今、幸せです」
「……ねえ紗月ちゃん、気づいてる? さっきからお母さんたちに話してること、傍から聞いてるとどう見ても惚気話かなって思うよ? ていうか、自分の娘がお墓参りで彼氏の話ばっかりしてたら、二人ともどういう顔していいかわからないんじゃない?」
「っ…ち、ちがいますっ!」
お墓の前で大声を出してすみませんと、お母さんたちに後からちゃんと謝った。
*
すっかり笑顔を作るのが上手くなったなと、今日の病院やお墓でのことを振り返りながらふと思った。
いつからだろう。楽しいことがなくても、笑顔を繕えるようになったのは。
昔はそうではなかった。
ああ、そうだ。きっと――
――きっと両親のお葬式で、優しく微笑む二人の遺影に、さよならを言った時からだ。
「さて、紗月ちゃん。今夜はごちそうにしよっか!」
お墓近くのスーパーマーケット。今晩のおかずの買い出しへと向かう道すがら、殊更明るい調子で言った姉さんはそのまま、人目も気にせず私をぎゅっと胸に抱き寄せた。
「っ……はいっ」
じわりと胸の奥からあふれ出る感情の正体を私は知っていた。強がって、強張っていた体から力が抜けて、ぎゅっと姉さんの胸に顔をうずめていなければ、そのまま何かがあふれ出てしまいそうだった。
いつもなら人前だからとすぐに離れるはずなのに、抱き寄せる姉さんの身体も僅かに震えていて、その優しさを拒むことなどできなかった。
涙は出なかった。
道行く人々にも姉さんにも、私の涙は見られずに済んだ。




