その成長に、一色薫は兄離れを予感した
「お兄ちゃん。わたし、学校に行きたい!」
夏休みもあと一週間に差し掛かったある日。
菜月と天ノ目が来てくれて、いつも通り昼食を取った後。前に負けたゲームのリベンジを挑もうとする菜月に首を振って、珍しく真剣な表情で桃華は言った。
「ちょっ、大丈夫⁉ 薫ちゃん!」
声音と表情こそ真剣ではあったものの、まるで日常の談笑の一部の様に、何の前触れもなく、脈絡もなく切り出された桃華の言葉に、俺の思考はショートした。目の前が真っ白になったような、車酔いしたときに意識が遠のいていく感覚を一瞬にして味わったような、そんな気分だ。
口に運んでいたアイスコーヒーが入った魔法瓶のコップを途中で取り落としてしまい、慌てた様子で菜月が駆け寄ってくる。
ちらと見えた桃華の手には拳が握られていて、今の彼女の告白は、相当に勇気を振り絞った結果なのだと分かる。
「ええと、桃華ちゃん。その、学校というのは、今、桃華ちゃんが通うことになっている中学校に、ということですか?」
突然のことに思考が付いて行かず、情けないが、何と言っていいか分からずただぼーっと桃華の瞳を見つめ返すことしか出来ない俺に代わって、天ノ目が戸惑いつつも尋ねてくれた。
「うん。実は少し前からちょっとずつ外に出る練習はしてたんだ。お兄ちゃんや菜月ちゃんたちがいないときにこっそりとだけど」
夏休みに入る前から、天ノ目に出会う前から少しずつ心を整理していた桃華は、天ノ目との出会いをきっかけに決心がついたのだと語った。
始めのうちは玄関の前に立つだけでも辛かったけれど、今では扉を開けて、一歩外に出られるようになったと笑う桃華。流石にまだ外の人と顔を合わせるのは怖いから、マンションの住人達と鉢合わせしないようにびくびくしながら練習していたと、冗談交じりに語る。
その笑顔は引き攣っていて、握られた拳は小さくプルプルと震えている。強がって冗談めかしているが、本当はすごく勇気を出して、恐怖に耐えていたことは明らかだ。
「すごいですね、桃華ちゃん。よく頑張りました!」
無条件に、素直に、裏表なく。天ノ目は優しく微笑んで桃華の頭を撫でた。
きっと彼女も気づいている。弱くて可愛い桃華の強がりに。
それでも天ノ目はそれを無視して、気付いていても気づかないふりをして、ただ桃華の望む優しさでもって彼女の頑張りを認めた。
「へえ、全然気づかなかったなあ。子供の成長は早いって言うけど、私もいよいよ年ですかねえ~」
正面から桃華の覚悟を受け止めた天ノ目とは対照的に、菜月はいつも通り軽い調子で、まるでそれが日常の風景だとでも言うように、冗談交じりに言って、ぎゅうっと桃華と天ノ目を抱きしめる。突然抱き着かれ、桃華も、そして桃華の頭を優しくなでていた天ノ目も体勢を崩して、「わっ」とお互いに声を漏らす。しかしそんな二人も気にせずに、能天気な俺の幼馴染は、
「うりうり~、美少女のサンドイッチだあ~」
などとバカげたことを口走りながら、二人の肩に手をまわして、胸元に顔をうずめようとする。そこには仲の良い友人がじゃれあうような、普通の光景があった。
菜月はいつもそういう奴だ。重たい空気も、怖い記憶も、すべてを日常のぬるま湯で癒してくれる。幼馴染の優しい気遣いくらい、抱き着いた拍子、こっそり拭った彼女の涙を見るまでもなく分かった。
じゃれあう三人の様子を眺めながら、桃華の頑張りを心から労う二人を眺めながら、俺は一人、取り残されたような感覚に陥っていた。
俺の知らない間、見ていないところで、桃華は少しずつ自力で立とうとしていた。
喜ばしいことだ。嬉しいことだ。
本来であれば今、菜月や天ノ目がするように、全力で桃華の成長を喜び、そして「学校に通いたい」という桃華の願いを全力で叶えようとするのが正しいはずだ。……なのに、
「薫ちゃんもくる~?」
冗談めかして言う菜月に、俺はいつもの軽口すら返せずに、ただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。
『桃華の姉を名乗るくらいは許してやってもいい』
いつか菜月に言った言葉。
俺は桃華のお兄ちゃんなのに、今この場で、妹が勇気を出して伝えてくれた言葉に向き合う覚悟を持っていなくて。借り物の言葉で押し付けた『姉』という役割を、他人の天ノ目と菜月に任せて、近い未来訪れるかもしれないと突きつけられた現実を、ただ無様に拒もうとしている。
誰かの成長を怖いと感じた時、俺は成長していない自分に気づいた。
*
「――やった! やったよ、お兄ちゃん!」
恐る恐るという足取りで、何度も引き返しそうになりながら、ゆっくりとゆっくりと、けれど最後には、桃華は玄関から一歩外に出た。
桃華の告白を聞いた翌日から、桃華が学校に行くための練習が始まった。
まずは一人で練習していた時にできたという、玄関から一歩外に出ること。
長いこと時間はかかったが、玄関の扉すら触れられなかったことを考えると、確かな成長を感じる。
しかし、そんな桃華の成長を素直に喜べたのは束の間だった。
「っ」
ゴミ出しに出たお隣さんがこちらに視線を向けた瞬間、桃華は隠れるように、いや、自分の白い髪を隠すように俺を人柱として前に出す。
相変わらず俺を不良だと思っているらしい岡田さんは、賑やかしい俺達に眉をひそめたが、関わり合いになりたくないのか、何も言うことなく大きなゴミ袋を抱えてエレベーターへと向かった。
「と、桃華ちゃん。よく頑張りました。いったん中で休憩しましょう」
怯えた様子の桃華を見て、天ノ目がそう提案する。
「凄いよモモちゃん‼ さあ、お祝い! お祝いしよ!」
殊更大袈裟に言いながら、そっと桃華の背中を押す菜月。そんな天ノ目と菜月の気遣いに、桃華は俯いたまま静かに頷いた。
天ノ目がお土産に買ってきてくれたタイ焼きを頬張る俺たちの間には、何となく居心地の悪い空気が流れている。
「モ、モモちゃん、今日はすっごい頑張ったねえ。この調子なら、学校に行ける日も近そうだね!」
先ほどのことを励まそうと、菜月はオーバーアクションで言う。
「うん……」
しかし桃華の声は沈んでいて、「え、ええと。こっ、このタイ焼き、すっごい美味しいね!」と間を埋めるように言う菜月の声が、より冷え冷えと感じてしまう。
今までは外の世界を完全に拒絶し、決して内側から出ようとしなかった桃華が、外に出ようと決心し、そして実際、僅か一歩ではあるが外に踏み出した。
外の世界へと目を向け、未来のことを考え始めた。
「ゆっくりでいいんです。一緒に頑張りましょう、桃華ちゃん」
「そうだよ、モモちゃん。怖くても私たちがついてるよ!」
桃華の勇気が折れないように、ずっと励まし続けてくれている二人を眺めながら。
俺はこの二年間の生活に終わりが近いことを予感した。




