天ノ目紗月と一色桃華(3)
「いつの間にか、すっかり雨あがっていたんですね」
玄関を出て、随分と前に晴れ間が広がった空を見上げながら天ノ目が呟く。
「そうだな。まさかお前たちがこんなに仲良くなるとは思わなかった」
「バイバイ、またね、紗月ちゃん! 今日はすっごく楽しかった! また今度、遊びに来てね!」
あれからゆっくりとお互いに距離を縮めた天ノ目と桃華は、今ではお互い名前で呼び合うほど仲良くなった。それはいいのだが、何となく菜月が家を訪れた時と似た疎外感を感じる。
「はい、私も楽しかったです。また遊びましょうね」
言って二人は「イエーイ!」「イエーイです!」などと言いながら謎のハイタッチをする。
「それじゃあ、少し天ノ目を送ってくる」
言うと、二人は未だ名残惜しそうにしていたが、「またいつでも来ていいから」と言うと、納得してくれた。
「忘れ物はないか?」
水たまりを避けながら歩道を歩く天ノ目宅への道すがら、適当に話題を振ってみる。
「ええ、問題ありません」
言いながら、天ノ目は今日出会った時から持っていた手提げカバンを俺の前に差し出して、ぽんぽんと軽く叩いて見せる。
「そうか。今日はありがとうな」
何の意図も思惑もなく、ただただ口を突いて出た素直な感謝の言葉。声に出した後にその意味に気づき、自分でも変な感じがした。
「いえ、私も楽しかったです。桃華ちゃん、とっても可愛いですね!」
俺に礼を言われるなんて思ってもいなかったのか、一瞬目を見開いた天ノ目は、やがて柔らかな笑みを浮かべた。
「……すみません。聞いていいのか分かりませんが、その、桃華ちゃんは……」
言いにくそうな、何とも言えない表情。桃華のことについて俺は何一つ天ノ目に説明していないが、今日、桃華と関わって抱いた彼女の疑問は多いだろう。
どうしたらいいかと一瞬迷う。
この場で天ノ目に桃華の事情について打ち明けるのは、果たして正しい事だろうか。今さら天ノ目の善意や厚意を疑ったりはしない。桃華に伝えた通り、天ノ目紗月はいいやつだ。それは間違いない。だからきっと桃華の抱える問題を伝えれば、天ノ目は桃華と関わりを続けようとしてくれるだろう。
けれど、それは桃華にとってのメリットであり、天ノ目にとってメリットかと言われると、そうではない。俺の話を聞いて、おそらく天ノ目は桃華に対する憐れみや同情だけでなく、話を聞いたことに対しての責任感を抱くだろう。少なくとも俺が知っている天ノ目紗月とはそういう人間だ。
桃華と関わる機会が増えれば、俺との関わりも増える。俺は俺という存在が天ノ目の学校生活に与える悪影響を知っている。そして俺は天ノ目との関わりを完全に断つことが、その解決になると思っていた。
つまりこれは、桃華に成長の機会を与える代わりに、天ノ目にリスクを押し付けるということだ。それと同時に、天ノ目の人の好さにつけこむ外道的行為でもある。
『また今度、遊びに来てね』
ふいに、さっきの桃華の笑顔が脳裏をよぎった。
「一色さん?」
黙り込んだままの俺に、天ノ目が首を傾げている。
そんな天ノ目の目を見ながら、俺は自分の愚かさに唇を噛んだ。
――俺の一番は、どんなときも変わらない。
「……ごめんな、天ノ目」
「はい?」
とつぜん謝罪され、怪訝な表情を浮かべる天ノ目。しかし俺はそれに首を振ると、
「実は――」
天ノ目のマンションまでの短い距離をゆっくりと歩きながら、俺は桃華のことについて天ノ目に話した。
*
「……そうですか。そんなことが」
天ノ目のマンション前の小さな公園。ブランコに腰かける天ノ目と、手すりに寄りかかって立つ俺。俺の話を聞き終えた天ノ目は、息を吐くように声を漏らした。
「桃華ちゃんが最後までフードをかぶったままだったのは、それを私に知られたくなかったからなんですね」
今日、結局桃華は最後まで、天ノ目の前でパーカーのフードを脱ぐことはなかった。打ち解けあったように見えた二人だが、それでも無意識に桃華は隠そうとしていたのかもしれない。
「桃華は、……あの日から、人と目を合わせられなくなった。本人は無意識なんだろうが、心の底ではたぶん……人を、恐れている」
「っ」
苦々し気に漏れ出た俺の言葉に、天ノ目は声を詰まらせ、俯いたまま悔しそうに唇を噛んだ。
「……本当に、世の中は理不尽で残酷ですね」
驚くほど冷たく妙に実感のこもった声は、天ノ目から発せられたものだった。
俺はそれにただ「ああ」という意味のない声で返すことしかできなかった。
「一色さんは、ずっと戦ってきたんですね」
しばらくの沈黙の後、顔を上げた天ノ目は温かい声とともに微笑みを浮かべた。
「……いや、俺は何もしていない。戦ってきたのも、耐えて来たのも、ぜんぶ桃華だ。俺は何も、できなかった……っ」
天ノ目のその声に救われた気がして、でもそれを受け入れることができず、気付くと俺は取り繕うこともなく、ただ心のうちを曝して答えていた。
「それでも、桃華ちゃんが今日まで頑張ってこられたのは、あなたがずっと傍で支えてくれていたからです。どうしようもなく理不尽な現実を前にして、それでも生き続けることを止められない時、それがどれだけ心強いか。私は知っていますから」
「っ……」
天ノ目は言わなかった。頑張ったねとも、辛かったねとも。
だから否定できなかった。
その包み込むような微笑みは、ただ認めてくれた気がした。
俺が信じ続けている桃華の未来を、肯定してくれた気がした。
「一色さん、また遊びに行ってもいいですか?」
優しく笑う彼女を見ながら、俺はもう、天ノ目紗月を拒むことなどできないと思った。




