平凡な幼馴染(2)
多分こんなことを言っても、きっと今の友達は誰も信じてくれないかもしれないけど。
小さいころ、私は弱く臆病な子供だった。
人見知りで、笑顔を作るのが苦手。
幼稚園ではいつもみんなの輪の中に入れず先生と遊んでいたし、公園ではみんなが鬼ごっこやかくれんぼで遊んでいる中、私は一人、ブランコや砂場で遊んでいることの方が多かった。
「いーれーて!」
その一言が言えなくて。人と目を合わせるのが苦手で。せっかく誰かが話しかけてくれても言葉に詰まってしまう。俯いて視線をさまよわせ、「あう」とか「ええと」を繰り返すだけの私に、また話しかけてくれるような子はそういなかった。
薫ちゃんに出会ったのは、私が小学生になる年の春だった。
卒園の日が近づくある日の幼稚園からの帰り道。その日はいつも送り迎えをしてくれるお母さんのいない、初めて幼稚園から一人で家に帰る日だった。
朝から不安で仕方がなくて、少し早めに家を出て、ここを右よあそこを左よと教えてくれる母の言葉も、全然耳に入ってこない。手を引かれるまま足を動かし、幼稚園に着いて気づいたときにはもう、母の姿は隣になかった。
不安な気持ちのまま一日を過ごし、心配そうに見送る先生にまた明日を言って園から出る。
幼稚園を出て、角を曲がって少し歩いたあたりから、見慣れたはずの町の景色がまったく知らない世界に見えた。
普段、母の手をとって、色のついたブロックから落ちない遊びをする歩道はいつもの何倍も硬く、気さくに話しかけてくれる商店街のおばさんの声も耳に入らない。
いつもどこで曲がっていただろう。この道は真っすぐだっただろうか。あんなに大きな犬を飼っている家なんてなかったはずだ。公園の前に高校生がたむろしているから迂回していこう。
そうやって思えば思うほど、考えれば考えるほど、自分の記憶が信用できなくなって、気がつけば、私はまったく知らない住宅街の隅に迷い込んでいた。
不安と恐怖で泣きだしそうになる私。日暮れが近く、だんだんと辺りは暗くなっていく。
「おかあさあん」
足が疲れて、怖くて仕方なくて、どうしていいか分からなくなってその場にうずくまってしまう。絞り出すような小さな声で母を呼ぶのが精いっぱいだった。
怖くて怖くて、もう何もできないと思った。
もう二度と家には帰れない。お母さんの顔も、お父さんの顔も、もう見られない。
二人を困らせてしまうとか、怒られてしまうとか、寂しいとか怖いとか、そんなどうしようもない感情で視界が真っ暗になって、泣いている自分の声すら聞こえない。そんな怖くて不安で仕方ない世界から自分を守るように目を塞いで、耳を塞いでうずくまった。
そんな私を、助けてくれる人はいない。誰も私を見ない。いないものとして、いつも通りの日常の景色として傍を通り過ぎていく。帰りを待つ家族の下へと気持ちを急かせる人々にとって、迷子になって泣き崩れている少女など面倒ごとでしかない。関わりたくないと目を逸らされるのが普通。
だから――
みんなが面倒ごとを避けるように見て見ぬふりをする中。そんな私に一人だけ、優しく手を差し伸べてくれた男の子が、私には王子様に見えたのだ。
「おいお前、そんなところでうずくまって、ダンゴムシの観察か? それともアリの巣に水でも流し込んでるのか? どっちにしても、もう暗くて観察どころじゃないぞ」
「っ!」
突然話しかけられ、ビクッと身体をこわばらせる私。恐る恐る顔を上げる。
涙に滲む視界の中で、心配するでもなく面白がるでもなく、不思議そうに首を傾げている目つきの悪い少年の顔が、今でも記憶に焼き付いている。
その後は近くに住んでいるという彼について行き、彼の家でしばらく待たせてもらった。しばらくして彼の母親が帰ってくると、緊張してうまく話せない私の代わりに彼が事情を説明し、私の事情を知った彼の母親は私の幼稚園カバンに入っていた住所と連絡先の書かれたカードから私の両親に連絡を取ってくれた。
迎えに来た両親には随分と心配をかけてしまったけれど、その日一日の出来事は当時の私にはとても大きなことばかりで、不安でいっぱいだった朝の自分がなんであんなに怖がっていたのだろうと不思議にすら思えていた。
「それじゃあ、またな」
両親が到着し、彼の母親にお礼を言った後、わざわざ駐車場まで見送りに来てくれた彼は、助けてくれたときと変わらない不愛想な表情で軽く手を挙げて言う。
「なつきちゃん、またね! あそんでくれてありがとっ!」
その隣では白髪の可愛らしい少女が、人付きのするニコニコ笑顔で手を振っている。彼の妹だというその少女は髪の毛や瞳の色が少し他人とは違ったけれど、そんな些細なことなど気にしていないように常に堂々と笑っていた。
私とは全然違う。
二人を振り返って、そんなことを思う。
他人のために、迷うことなく手を差し伸べられる少年。
人と違うことを恐れず、笑顔と優しさを返せる少女。
そんな兄妹の姿が、幼い私にはとても眩しく見えた。
「っええと、あの……」
私も楽しかったと。またねと笑って言いたいのに、そんな簡単なことですらうまくできない幼い頃の私。そんな自分が嫌で、恥ずかしくて、また私は泣き出してしまう。
「ほら菜月。寂しいのは分かるけど、またいつか会えるわよ。またねって、挨拶しましょう?」
母がそっと私の背中を押して、優しい声音で言う。しかしそれでも私は泣き止まない。
違う。寂しいわけじゃない。ただ悔しかった。目の前の兄妹と自分があまりにも違っていたから。
恥ずかしくて悔しくて、でも幼い私はそれを言葉にすることもできず、また大人たちを困らせてしまう。
「まったく、お前は泣いてばかりだな」
「っ!」
ポンと、あやすように私の頭に置かれた手は、父のものとも母のものとも違う、私の手と同じくらいの大きさの、小さくて幼い、頼りないものだった。
驚いて、顔を上げると、すぐ目の前に彼の顔があった。目が合う私たち。
「……なんだ、こういうときはこうするものだと思ったが、お前の方がでかいとは思わなかったな。これじゃカッコつかないぞ」
彼の言葉を聞いて、初めて気づいた。彼の目線は私よりも少し低いところにある。
同年代の子供達より少しだけ小柄な少年。いずれ大きくなるだろうその身体は、今はまだ小さくて頼りない。遠い存在に思えていた彼が、自分と同じ、まだ幼い子供なのだと今更になって気づいた。
「女の涙ってのはとっておきの秘密兵器だ。そんなに簡単に使っていると、いつか悪女って呼ばれるぞ?」
その言葉に、大人たちがぎょっとしていた。お父さんが思わず吹き出し、お母さんが脇をつねっている。
どこで覚えたのか知らないけれど、今思うと、彼は随分とませたことを言う子供だった。
意味が分からずきょとんとしている私に、彼は今日出会ってから初めて、その不愛想な顔に柔らかい笑みを浮かべると、
「俺は泣き顔が似合う女より、笑顔が似合う女の方が好みだ」
今度はお母さんも一緒に吹き出し、彼の母親は恥ずかしそうに頭を抱えていた。
「安心しろ、俺が保証する。お前はいつか、いい女になる」
それからは彼のことを心底気に入ったうちの両親がまるで我が子の様に彼を可愛がったり。そんな彼の言動に真っ赤になって頭を下げる彼の母親に、いえいえむしろ将来の縁を感じたと話し込んだりといろいろあったけれど、そんななか、私は彼の言葉を何度も反芻していた。
彼は笑顔の女の子が好き。笑顔の女の子が好き…………
それから小学校に入学して、途中で転校してきた彼とまた再開を果たした。
彼はあの時のことをすっかり忘れていて、彼の中では私はその時からの幼馴染だ。
彼と一緒にいるなかで、いろいろな彼を知った。
あの時、王子様みたいに見えた彼は思っていたよりもずっと不愛想で不器用だった。
勉強は中学までは私が教えてあげないと赤点ギリギリだったし、運動も凄くできるわけではない。何もかもが平凡で、思っていたようなヒーローとは全然違う。
言葉遣いはぶっきらぼうで、コミュニケーションが苦手。相変わらず目つきは悪いし、愛嬌もない。優しいくせにその伝え方が不器用なせいで、友達もいない。みんなからも怖がられている。
本当に、彼は思っていたよりもずっと普通の人で、けれど思っていた通りとても優しい人だった。
誰かのためなら自分が損をしても気にしない。見返りなんて求めない。
たとえその優しさに相手が気づかなくても、彼は迷わず助けようとする。
そんな彼に、私はずっと憧れていた。だから――
いつかあの兄妹のように強くて優しい人になれたら、ありったけの笑顔で、この気持ちを伝えたいと思う。
*
隣を歩く彼の横顔を覗き見る。
初めて出会った頃少年だった彼は、あの頃よりずっと大きくたくましくなった。
小さな手と大人びた言動で私を慰めてくれたあの頃の思い出を、彼はもう覚えていない。
けれど、彼が時折見せる不器用な優しさや、優しい瞳はそのすべてが私にとってはあの時の彼のままだ。
変わっていく彼を、誰よりも近くで見てきた。
身体が大きくなっていく過程も、心が育っていく様子も。傷ついて、泣いて、諦めて。どうしようもない現実に振り回されて、いろいろなものを手放していく姿も。そのすべてを誰よりも近い距離で、誰よりも深く、見守って来た。
平凡な彼の、平凡でない日常。それに振り回されて、いつしか何も望まなくなった瞳。
だれも気づけないその瞳の奥の優しさを、私だけは知っている。
月日が経つにつれて周囲はその優しさに気づきにくくなっていくけれど、それでもその不器用な優しさが、幼いころからちっとも変わっていないことを、私だけは知っている。
変わってしまった彼と、変わらないままの彼。
そのすべてを私は愛おしく思う。
そして彼の瞳が、いつしか妹の桃華ちゃんしか映さなくなってしまったことも、私は知っている。その理由も、彼の現状も、彼の家族が抱えている問題も、私はすべて知っている。
……だから、今はまだこの気持ちにはフタをして、何でもない当たり前の日常を、彼の安心して過ごせる場所を、私なりに守り続けたいと思う。
あの時、彼が私にしてくれたように私も、優しく笑って、おちゃらけた幼馴染のままで、彼の日常を見守っていよう。
そしていつか彼の抱える問題が解決して、彼自身の心が自分自身の幸せを望んだとき、その隣で笑っていられるように――……
「どうしたんだ、ニヤニヤして? 何かいいことでもあったのか?」
何にも分かっていない薫ちゃんが、不思議そうに尋ねて来る。
そんな顔がなんだか面白くて。
「人の顔を見て笑うとはなかなか失礼な奴だな」
――ああ、なんでこの人はいつも私を笑顔にしてくれるんだろう。
いつか、その瞳が私だけを映してはくれないかな。
……なんて、そんなことをつい考えてしまった自分を自重させる。
まだ、我慢しないといけない。この日常を、守らないといけない。
私は杉原菜月。彼の平凡な日常の、ただの幼馴染なのだから。
……でも、あんまり我慢させられるのもそれはそれで悔しいから、少しくらいは困らせてしまうことも許してほしい。
だって私は出会った時から今も、そして多分これからもずっとずっと、こんなにも君が大好きで、愛おしくて仕方がないのだから。
私は勇気を出したことを悟られないように大胆に彼の前に踏み出すと、ありったけの笑顔で笑いかける。出会った頃には見せられなかった、君の大好きな笑顔の女の子に、なれていることを願って――
「薫ちゃん、また遊びに行ってもいい?」




