愛しい日々は戻らない(1)
「お久しぶりです、先生。でも何だか久しぶりという感じがしませんね?」
久しぶりに定時に学校を出た後、待ち合わせの駅で古谷と合流した。
待ち合わせは六時。少し早く着いてしまったが、待たせてしまうよりはずっといいかと思いつつコーヒーでも買おうと寄ったコンビニから出て来た私に、同じくコーヒーを、けれどブラックではなく、風味程度しかコーヒー味を感じることはないだろうほとんど真っ白なカフェラテを持っていた古谷が気づき、パッと表情をほころばせた彼女はそのままテテテと飼い主に駆け寄るワン子のように駆けて来て、ハッとして冷静を装うように二~三度ゴホゴホと咳ばらいを……いや、咳ばらいをしようとして咽てしまい、その恥ずかしさを誤魔化すように頬の朱色が落ち着くのを待った後、気を取り直すように、言った。……待ち合わせをしただけなのだが、本当に見ているだけで面白……失礼、可愛らしい子だ。もはやそんなところが愛らしい。ペットにデレデレになってしまう人々の気持ちがよく分かった。……いや、彼女は友人なのだがね? ……杉原の気持ちがよく分かる。
「ああ、久しぶりだな。確かに、毎朝のように君が連絡をくれるから、久しぶりという感じもしないな。変わりはないかい?」
言いながら、ふと彼女の手にあるカフェラテを見ると、もう半分ほど減っていた。……少し待たせてしまったかもしれない。
「はい、おかげさまで。先生もあれからお変わりはないですか?」
古谷の目の奥が一瞬、何かを探るように真剣なものに変わった。私の抱える痛みや苦しみを決して見過ごさないようにとする、彼にそっくりな目だ。
「ああ、君のおかげで毎日がハッピーだよ。ありがとう」
「っ! ……さすが先生。相変わらずイケメンですね。生だとより輝いています」
素直に感謝を伝えると、やれやれとでも言いたげな様子でジトリとした目を向けてくる古谷。
おそらく、先週彼女に会った時の私なら、これまでの私なら、「そんなことはないさ」と返していたかもしれない。でも、
「まあな。私もまた誰かの灯で在るために、全力で理想を目指すと誓ったからな。暗い夜道でも決して私を見失わないように、私は輝き続けなければならん」
――君たちのようにね?
「っ!」
自分でもちょっとキザすぎたかなと思うほどカッコつけて言った私に、大きく目を見開いた古谷は、
「っっ……ふふ、安桜先生、復活ですね。後ろに後光が見えます」
瞳を潤ませて、喜びを噛み締めて、それでも決して人前では泣かない彼女は、相変わらずのひねくれた軽口を返す。
そんな彼女に嬉しくなって、ありがたくなって、それからやはり申し訳なくもあって。でもそれを言うとまた彼女を傷つけてしまうことも、そんな言葉を彼女たちが望まないことも分かっていて。
だから私は気恥ずかしさを堪えつつ、それでもいつかの誓いに勇気をもらって、
――私はもう、大丈夫。
その一言を伝えるために、精一杯、笑って見せた。
「いつか、神様にだってなって見せるさ」
*
「ただいま」
「おっかえり~、トモちゃん! ご飯にする~? お風呂にする~? そ、れ、と、も~~~――……わ、たっあイテ!」
「お、おじゃまします」
夕飯というのは今朝の文面通り杉原たちとともに、古谷や杉原のシェアハウスでということらしく、電車で十分程ゆられた私たちは降りた駅から五分ほど歩き、なかなか間取りのいい、比較的新しい印象を受ける小綺麗なマンションへと帰宅した。いや、帰宅したのは古谷だ。私はお邪魔したという方が正しいだろう。……まあ、どちらでも構わないと言えば構わないが。
そして、慣れた様子で鍵を開け玄関に入った古谷にこれまた懐かしい元教え子の変わらない元気なお出迎えが炸裂し、そんな彼女のおでこに古谷の相変わらず容赦のないデコピンが炸裂した。
「イテテ……あっ、安桜先生! こんにちは……じゃなくてこんばんは? まいいや、とにかくお久しぶりです! トモちゃんから話は聞いてるので、どうぞどうぞ上がって上がって」
「あ、ああ。こんばんは、杉原。お邪魔します」
二年ぶりに会っても彼女の天真爛漫な微笑みは相変わらずで、いつまでも見ていたいと思うほどに愛らしい。けれど『男子三日会わざれば刮目して見よ』とはよく言ったもので、またそれは同様に女子にも当てはまるらしく、どこか幼さを残したあの頃の面影は薄れ、その内面の成熟した大人の装いがじんわりと外見に表れて来たような、今の杉原の微笑みにはそんな大人の女性の余裕を感じさせる。
……つくづく、彼に見せてやりたかったな。
「あっ、ごめんね先生。ちょっとだけ、ちょっとだけここで待ってて」
「えっ?」
快く迎え入れてくれたあと、何かを思い出したように……というか、始めからそう言うことを予定していたように、慌ただしく言った杉原。
相変わらず本音の読めない彼女の言葉に私が戸惑っていると、
「ほらトモちゃん、あれだよ」
「! ……そうね。ごめんなさい先生。少しだけここで待っていてもらえますか?」
「え? ちょっ――」
コソコソと視線と指示語だけでやり取りを交わした二人はそう言うなり、私の返事も聞かずに廊下を急ぎ足でリビングの方に向かって行った。
……まったく。
どうやら、卒業しても生徒に振り回されるのが先生の宿命というものらしい。
それから、しばらくリビングから小さく聞こえてくる話声に聞き耳を立てようとして、ギリギリ聞こえないそれにもどかしさを覚えながら待っていた私は、帰って来た古谷に「お待たせしました」と呼ばれ、リビングに向かった。
そして、
『お誕生日、おめでとうございま~す!』
「!」
リビングのドアを開けた瞬間、パン、パンというクラッカーの爆発音とともに、部屋のあちこちからリボンや紙吹雪が飛んで来る。ツンと香る火薬の匂いが、驚いて固まる私にこれが現実だと教えてくれた。
「こ、これは」
「トモちゃんから先生の話を聞いて、そういえば先生の誕生日って今日だったなって思い出して。どうせ会うならみんなでサプライズしようよってことになったんだ!」
いろいろな意味で驚きを隠せず固まっている私に、百均のコーンハットや面白サングラスを勝手にかけながら杉原が説明してくれる。
「この子、今週毎日百均に通って、飾りつけとかしてて。みんな先生に会えるのを凄く楽しみにしていたんです。っだ、だからっぷっ…ふふふっ……せ、先生、似合ってます」
呆れたように微笑ましく言っていた古谷は、どんどんと追加されていく私の浮かれた装いに、ついに耐えきれなくなって、吹き出した。……こういうのは初めてなので反応に困るな。
二人の楽し気な表情を見ていると何も言う気が起きず、茫然として杉原と古谷のおもちゃになっていると、これまた懐かしい声に祝いの言葉をかけられた。
「おめでとうございます、安桜先生」
「ッ……天ノ目」
来る途中聞いていた通り、一緒に暮らしているのは二人だけではなく。
声の方に目を向けて、あの頃と変わらず美しい微笑みと、月日の経過とそれが意味する病の残酷さに驚いた。肘掛け付きの椅子に腰かけた彼女は、その儚げな印象とは不釣り合いなサングラス越しに、こちらに顔を向けていた。
「それから、お久しぶりです」
「ああ、久しぶりだな」
いけない。
決して、その変化を痛ましいなどと、思ってはいけない。可哀想などと、無責任な憐れみなんて、一瞬だって抱いてはいけない。そんなこと、彼は決して許さない。
内心の動揺を必死に押さえつけながら、出来る限り自然に答えた。
そんな私に、彼女の隣に座る面影の似た女性、彼女の姉の美華さんが「どうも~。おめでとうございます」とにこやかに微笑を向けてくれた。三者面談で天ノ目の将来について話をしたときとは印象の違う、柔らかい声だった。
「みんな、本当にありがとう。天ノ目、……その、とても嬉しいよ」
とても嬉しかった。心から感謝を伝えたかった。けれど、コミュニケーションとは言葉だけでは交わせない。仕草や表情、声音や言葉、空気感や温度感、それらすべてで人はコミュニケーションをとっている。
だから、この胸が浮き上がりそうなほどの喜びをどうやって彼女に伝えればいいのか、分からなかった。みんなと同じように伝えたいのに、どうやって――
「ふふっ、カッコいいでしょ、このサングラス。お揃いだね、先生!」
『っ』
一瞬の間、空気が止まった瞬間、杉原が何でもないことのように言った。
その彼女の一言に、私も古谷も、それから天ノ目も、みんな言葉を詰まらせた。唯一この場で美華さんだけはすぐにその言葉の意味を察したらしく「さっすが菜月ちゃん♪」と、安心したように、微笑まし気に、その様子を見守っていた。
「お揃い……――っ! あ、ああ、お揃いだな! 君のかけてくれたパーティー用のサングラスでは価格的にもルックス的にも不釣り合いだが、ペアルックというやつだな」
その言葉の真意に気づいて、必死に取り繕うように言ったため、つい説明口調の、饒舌な返しになってしまった。
驚いた……。本当に、底が知れない子だ。まさかあの悪ふざけがすべて見据えてのものだったとは。本当に、流石としか言いようがない。
「というか、先生がイケメン過ぎて、こんなふざけたサングラスでもオシャレに見えるのが不思議ですね。それからペアルックという言い方はちょっと古いらしいですよ?」
私と同じく、杉原の意図に気づいた古谷はそう言って、冗談交じりの軽口を叩いて見せる。……そうか。ちょっと古くなっていたのか。
「ふふっ」
そんな私たちに、部屋に響く笑い声があった。
「変わりませんね、先生」
相変わらず杉原の強さとその彼譲りの深い優しさに翻弄される私や古谷の姿に、どこか緊張の抜けた様子の天ノ目が、涙を拭う仕草をしながら言う。
「そうかい? これでも、少し変わったつもりなんだがね」
「いえいえ、先生はまだまだお若いですよ」
先日までのことを思い出しながら言った私に、古谷が気を遣うように言って来た。
「いつ私が年齢の話をした。……まったく」
そんな彼女の多重の気遣いに感謝しつつ、呆れたように言って見せる。
すると、
「ふふ、やっぱり変わりませんよ。初めて会った時からずっと、先生は憧れの大人の女性でした」
微笑ましく私たちのやり取りを聞いていた天ノ目が、言った。
「っ! そ、そうか……」
思わず、照れくささを隠すように素っ気なく言ってしまう。誕生日パーティーだから気を遣っているのかもしれない。などと嘯いてみなければ、とてもその身に余る言葉を素直に受け入れられなかった。
……ひねくれ者なので、そう素直に称賛されるのが苦手なんだ。
「当時は病気のことでたくさん心配をおかけして、でも先生はいつだって誠実に向き合ってくれて、凄く嬉しかったんです」
学校の卒業式の様な形式的な感謝の言葉ではなく、誕生日だからという理由でわざと泣かせに来ているわけでもなく、これが彼女の本心なのだと、サングラス越しにその瞳を見ることが叶わずとも分かった。
「……いいや、私は何もできなくて。すまなかった……っ。本当に、君に何もしてあげられなくて……っ」
思わず零れた本音に、すぐに後悔した。せっかく私の誕生日を祝ってくれていたのに、こんな話をしてしまって。また私は――
「ふふ、やっぱり先生は優しいですね。……何もできなかったなんて、全然そんなことありません。とても助けてもらいました。八つ当たりみたいにこの運命を嘆いてしまった時も、先生は受け止めてくれました」
温かい声だった。
私の抱える罪悪感のすべてを肯定してくれるような。
『先生にだって、返せていない恩は――』
あの時の彼と重なる、懐かしい声だった。大好きな、声だった。
それから、杉原が見守る中で。古谷や美華さんが静かに見守る中で。
天ノ目は言った。
「何より、一色さんの隣の席にしてくれました」
「っっ――」
ずっと、心の奥に引っかかっていた。
天ノ目紗月と一色薫を引き合わせたことは、本当に正しかったのかと。
痛みを抱える彼女と、誰かの痛みを背負う生き方しか出来ない彼。
杉原菜月の気持ちを知ったうえで、天ノ目紗月の病気を知っていたから、それでも彼しか救えないと思ってしまった。
あの時の選択は、果たして――……
「彼に出会わせてくれたことに、私は心から感謝しています」
「っああ…っ……ああ……っ」
その言葉を聞いて、一杯になった胸から零れた涙とともに嗚咽交じりに「ありがとう」を繰り返しながら、何故そんな言葉が出て来るのか自分でも分からなかった。
でも、その代わりに彼女も私と同じ気持ちだったのだと今分かった。
タラレバを挙げればきりがなく、過去の選択は後悔や迷いばかりだ。
けれど、……こんな言い方は変かもしれないけれど、私は彼女と同意見だった。
彼のおかげで本物を知り、彼のおかげで世界を疑り、彼のおかげで痛みを知った。世界の理不尽を嫌って程に思い知り、生きる希望を見失いかけた。
それでも、不思議なことに一度だって思わなかった。
だからきっと、……きっとだ。
きっと――
出会わなければ良かったなんて後悔は間違っている。
恥ずかしながら今更になって、私はこの出会いの連鎖に感謝した。




