もしも救いがあるのなら
「古谷……」
先生の揺れる瞳と震える声が、悲しみに染まるその心と重なった。
「お久しぶりです、先生。……こんなところで会うなんて、驚きました」
「っ……あ、ああ。私も驚いた」
お互いにさっと視線を逸らして、言葉を選びながら間を埋めた。
私が何故この場所にいるのか、先生は聞かなかった。
先生が何故この場所にいるのか、私は聞かなかった。
ついさっき、私が声をかけなければ。
そんな最悪な想像と極めて現実的なifの世界なんて、考えたくもなかった。
「お元気そうで何よりです。少し……やつれましたね」
久しぶりに会う恩師との会話。数分前までの記憶を遠ざけて、冗談交じりにそれを装った。
「……問題児が多くてな。まあ、君たちの時ほどではないよ」
一瞬の間の後、先生も私の意図を察して、柔らかく冗談を返してくれた。
「年は取りたくないものですね」
微笑とともに皮肉交じりに言うと、今度はふっと微笑んで、
「言うようになったじゃないか。重ねた年の数だけ、人は深みが増すのさ。分かるかい、小娘?」
「っ…んん……さすが先生。相変わらずキレキレですね」
先生が担任だった時から、少しだけこの人は私に似ていると思っていた。
先生は大人で、カッコ良くて、私なんかとは比べようもなく立派な人だけど。
ちょっとひねくれてるところとか、皮肉を交えて話すところとか、そういうところが私と似ていて。だから昔から、勝手にだけれど、親近感みたいなものを抱いていた。
それでもやっぱり先生には敵わない。そんな称賛と少し悔しさをにじませた私の言葉に、先生は穏やかに首を振った。
「いいや、……薄っぺらい人間だよ、私は」
「――ッ!」
穏やかな声で告げた先生の言葉に、それが先生の純粋な、本心なのだと思った。この人はもうすべてを手放そうとしているのだと、手放さなければ壊れてしまうほどに、絶望の淵に立たされているのだと。言葉の端々から伝わってくる。
やっぱり、この人は私に似ている。
この人が否定しているのはすべてなのだ。
先生自身だけでなく。理不尽で、残酷で、悲しみばかりの、何も救われないこの世界を。
彼を失ったこの世界を。
彼を失っても当たり前のように続いていく、耐えがたい痛みを。
彼のいない、この世界を。
この人はずっと否定している。否定したくて、否定できなくて、そしてついに耐えられなくなって、否定してしまった。
先生の気持ちが、痛いほど分かった。
私も彼を失ったあの日から、ずっとそれと戦ってきたから。菜月や天ノ目さんも、みんな戦い続けていることを、知っているから。
「こんな大人に、なりたくなかった」
「っ、先生……」
「! ……いや、すまない。……すまないっ」
「ッ……」
何と声をかければ、私はこの人を救えるのだろう?
あなたは立派な人だと、尊敬できる大人だと、本心を伝えたところで、きっと意味なんてないのだと分かっていた。
私たちが否定したいのは自分なんかじゃなくて。自分なんて本当はもう、どうでもよくて。
私たちが本当に否定したいのは、彼を失った現実そのものなのだから。この世界、そのものなのだから。
この世界は悲しみばかりで、本当に優しい人ほど、正しい人ほど傷つき続ける。正直者ほど馬鹿を見る。
私たちが生きる世界はそんな理不尽に溢れていて、残酷で、本物なんてないのだと。その救いを失ったのだと。
そんなこと、認めたくなくて。
認めてしまったら、もう生きる理由がなくなってしまうから。
だから先生は、私は、必死に罰を探したのだ。
彼の死が自分のせいなのだと罪を背負うことで、世界に希望はあるのだと思いたかった。
自分を責め続けなければ、もう――
私は誰よりも、先生の気持ちが分かった。
同じく罪を背負うことで生きる意味を見出そうとした私たちは、けれど一つだけ違う部分があって。
先生は大人で、誰にもその心の内をさらけ出せず、寄りかかる術を持たなかった。
私は子供で、何も持たない半人前だけど、私には菜月がいた。天ノ目さんや桃華さんがいた。寄り添える、相手がいた。
『――だったら、責任を取ってよ』
そう思った時、ふいに菜月の言葉を思い出した。私を苦しみから救ってくれた、ヒーローの言葉だった。
ああ、そうか。
私に誰かを救えるなんて、そう思うことそのものが間違いだった。だって彼は一度だって、そんな傲慢な思考を認めたりしなかったから。
似た者同士の私では、先生をその悲しみから救うことはできない。同じ悲しみを背負う私には、それを取り払うことも、代わりに引き受けることも、何もできない。
だから、
私がどうするかではなく、彼なら、菜月なら、あの二人に憧れた私なら、どうするのかを考えるべきだった。
私と同じくらい不器用で、それなのにどこまでも優しい彼なら。
ずっと一緒にいてくれた親友で、ずっと助けてくれた、強くて優しい彼女なら。
そんな二人に憧れて、いつか並べる人になりたいと願い続けた私なら――……
私ならきっと、
「実は私、菜月や天ノ目さんの他に友達いなくて。強がっているけど、本当はちょっと寂しく思っていたんです」
「……え?」
脈絡もなく言った私に、驚いて先生は目を見開いていた。何だか、そういう困った時の反応がどこか彼に似ていて。思わず頬が緩んでしまう。
首を傾げる先生に、歩道橋の上。
ゆっくりと目を覚まし始めた朝日の下で、私は抱きしめるように言った。
「よければ未熟者同士、友人候補から始めてみませんか?」
餅は餅屋に。
一人じゃ何にも出来ない私は、人一倍、助けてもらい方を知っている。
彼には言えなかった一言を、今度は勇気を出して、言葉にすることができた。




