幕間:回声記録 #01 優しい嘘とおとぎ話
いつからだったかなんて、覚えていない。
小さなころ。ただ、それだけだ。
人の肌に触れると、まるで映画館でスクリーンを見上げているように、見知らぬ映像が流れ込んでくる。
時にそれは短い一瞬の光景。時にそれは、長い長い物語だった。
意味のわからない景色に怯えて泣き出すと、決まって母が私を強く抱きしめた。
「大丈夫。すべては何とかなるものよ」
これが彼女の口癖だ。
記憶の底にある一番古い母親の姿も、「大丈夫よ。何とかなるって」と微笑んでいた。
今ならわかる。あれは、父親が彼女のもとを去った時の、自分自身への言い聞かせだった。
父親は、フランス系アメリカ人だったらしい。
「彼は、とっても優しくて、あなたの事を心から愛していたわ。だけどちょっと寂しがり屋で、どうしても一緒にいられなくなったの」
寂しがり屋が、なぜ最愛の娘を置いていけるのか。
言葉の響きは、ひどく矛盾していた。
直後に「大丈夫。何とかなるわ」とぎゅっと抱きしめてくれた彼女の体温に、私は安心してしまった。
ありていに言えば、ころりと騙されたのだ。幼子なんて、そんなものだと思う。
それからは、ずっと二人暮らしだった。
彼女は、そこそこ有名な占い師で、そこそこ人気があった。
占い師としての名前は「ルーシー・リル・ルーシー」。
本名じゃないのは明らかだった。彼女は「響きが好きなの」と笑い、少しも恥ずかしそうじゃなかった。
仕事場にはいつも一緒。物心ついたときには、アシスタントとして働いていた。やることは訪れた客におしぼりを出す程度のことだった。
彼女の占いは、客の手を握るスタイル。
占いが始まる前におしぼりを渡し、その後は客の後ろの椅子に座ってじっとしていた。
おしぼりを手渡す瞬間、指先が触れる。
未来が流れ込んでくる。
初めてそのことを打ち明けた日、彼女は私の目をじっと見つめ、ふわりと微笑んだ。
「それはね、その人の頭の中にある『おとぎ話』よ」
「おとぎ話?」
「そう。みんな、夢を見るみたいにいろんなことを空想するでしょ?」
「うん。私もあるよ! お母さんと一緒にネコちゃんの国に遊びに行くの。それでたくさん、ネコちゃんと友達になるんだよ」
彼女はそんな私の話を、ずっと笑いながら聞いてくれた。
私は客の背中越しに、笑顔を送ったり、首を傾げたりした。
彼女の占いが「本当の未来」から逸れないように。母の優しい嘘が、いつまでも続くように。
彼女の占いはよく当たると評判だった。私から見れば、とんでもない誤解だ。
私が「お母さん、嘘つきって言われちゃうよ」となじった時のことだ。
母は悪びれもせず、にっこりと微笑んで答えた。
「人は信じたいことを信じるのよ。それが本当か嘘かなんて関係ないの。答えなんて、どうせ最後の最後になっても分からないわ。だからね、大丈夫。きっと何とかなるの」
そう言って微笑む彼女は、自分の母親ながら、ひどく綺麗で魅力的だった。
他人の『おとぎ話』は、楽しいものばかりじゃない。
ある日のこと。常連の若い女性が「ついに恋人ができたの」と、頬を紅潮させてはしゃいでいた。
いつものように、おしぼりを渡す。
指先が触れた瞬間。
視えたのは、ひしゃげた車のボンネットと、アスファルトに広がる赤黒い血だった。
「あのね、車に気をつけて」
震える声でそう伝えた私に、彼女は不思議そうな顔をした後、ふわりと笑った。
「ありがとう。でも、私これからすごく幸せになるから、大丈夫よ」
数日後。彼女が交通事故で亡くなったと、母が電話口で青ざめながら話しているのを聞いた。
その時、私は理解した。未来は『おとぎ話』なんかじゃない。
どれだけ今が幸せでも、無慈悲にすべてを奪っていく残酷な現実だ。
私は、まだ心のどこかで無邪気に信じていた。「嫌な未来でも、お母さんだけは私と一緒にいてくれるはずだ」と。
幻想が音を立てて崩れたのは、十歳になった夜だった。
その日、お母さんはお気に入りの服に、お気に入りの靴を履いて、ひどく不自然に微笑んでいた。
「明日の朝には戻るから。先に寝てていいわよ」
頬を撫でたその手のひらから、映像が流れ込んでくる。
駅のホーム。見知らぬ男。遠い街へ向かう夜行列車。
胸の奥で、何かが静かに裂けた。
ああ、この人はもう二度と、このアパートのドアを開けない。すぐにわかった。
行かないで。
そう泣き叫べば、未来は少しだけ変わったのかもしれない。
私は、薄っぺらい嘘で自分を保とうとする大人の弱さを、どうしても責めることができなかった。
「うん。いってらっしゃい」
私は笑って、母の不器用な嘘を完璧に守り抜いてあげた。
彼女は、さよならとも、元気でね、とも言わなかった。
次の朝、ひまわりが迎えに来た。
時協連の宿舎に移ることになる。彼女は淡々と告げた。まるで最初からそう決まっていたように。
「ねえ、母親を恨んでる?」
空っぽになった部屋。小さな荷物を手にした私に、彼女はそう訊いてきた。
私は、ゆっくりと首を振った。
「……あなた、わかっていたんでしょ。あの人がもう帰ってこないって」
淡々と見透かすような彼女の言葉に、私は何も答えられなかった。
「それは、わかってなかったってこと? それとも、恨んでないってこと?」
もちろん、わかっていた。
私が今まで一番よく見てきた映像は、実の母の、擦り切れていく未来だったのだから。どうしようもなくて逃げ出した母を、恨む気になんてなれなかった。
じっと何も答えない私を見て、ひまわりは静かに私の冷たい手を取った。
「……そうね。どっちだとしても、同じ事ね」
クスリと笑った彼女の手のひらからは、何の映像も流れてこなかった。
それが、ひどく心地よかった。
ひまわりが母の事を口にしたのは、その時が最初で最後だ。
あの日以来、母とは会っていない。たぶん、これからも。
私が「ルーシー・リル・ルーシー」と名乗るようになったのは、それからしばらく経ってからだ。
理由なんて、自分でもよくわからない。
ただ、その名前を口にするたびに、あの不自然な笑顔と、お気に入りの靴が、少しだけ遠くなる気がした。
彼女は、今もきっと不幸じゃない。
そう信じていないと、私が「いってらっしゃい」と笑えたあの夜が、ただ惨めなだけになってしまうから。




