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きみが未来を知らないなら  作者: 鷹雄アキル


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第7話 断片逃避行


◇TIME: 04:00


 俺とルーは、ベッドの端に肩を並べて座っていた。


 カーテンの隙間から漏れる蜂蜜色の街灯が、部屋の空気の粒子を静かに染めている。

 まだ夜明けには早い時間。それでも、窓の外の闇の色は、インクを水に落としたように、どこか柔らかく滲み始めていた。


 互いの出身地や、家族のこと。

 どうでもいいようで、今この瞬間だけはひどく大切に感じられる話を、ぽつり、ぽつりと交わしていた。


「アパートの横に一本だけ木があって、夏になるとセミがずっと鳴いてるんだよ。夜になっても止まらないんだ」

 そう言うと、ルーはふっと目を細めた。


「日本の夏って、音がたくさんするよね。まるで、そうしないとダメみたいに。蝉も、夜の虫も、風鈴も……。空気まで騒がしくて、でも不思議と落ち着く」


 その声は、夏の夜風みたいに静かで、肌に優しく触れるようだった。


 気がつけば俺は、その横顔をただ見つめていた。

 何がそんなに愛しいのか、自分でもわからないくらいに。この無意味で穏やかな時間が、永遠に続けばいいと本気で思った。


 そのとき、ルーのスマートフォンが小さく震えた。

 画面には「ひまわり」の文字。彼女は無言で通話を取り、短く言葉を交わす。


「……わかった。すぐ離れる」


 言葉の余韻が消える前に、ルーは真剣な目でこちらを見た。


「ここはもう危ない。記録の網が張られる前に動かないと」

「記録の網って?」

「断片をつなげて未来を構築する連鎖者たちが使う、予測の螺旋構造。未来の並びにない存在がいると、網に引っかかって“排除”されるの」


「排除って……どうなるんだ」


「記憶を消されるのか、存在そのものが消えるのか……。どっちにしても、もう二度と、一緒にはいられなくなる」


 ルーは、真っ直ぐに俺を見つめた。

 まるで俺を試すような言い方。案外この子は、不器用で、どうしようもなく正直なんだと思う。


 そう言われたら、俺にためらいなど、ひとかけらも残っていなかった。

 俺たちは同時に立ち上がり、わずかな荷物をまとめ、再び夜の道へと駆け出した。



◇TIME: 04:44


 舗装されたアスファルトの上に、雨上がりの白い霧がゆらりと立ち上っていた。


 幹線道路から有料道路へ。その途中、世界から忘れ去られたように、ぽつんと灯る小さなサービスエリア。ルーが言うには、そこは「記録の隙間」だった。


「地図にはあっても、未来にはほとんど反映されない場所。だから安全……っていうか、見落とされやすいの」


 夜霧の向こうで自販機だけが、まるで世界の灯台のようにぽつりと光り、その白い光が俺たちの影を静かに地面へ落としている。

 ベンチの木の板は湿っていて、腰を下ろすと小さくきしむ音がした。


 夏の湿気が肺にしみ込んでいく。

 まるで空気までもが、次の展開を待っているようだった。



◇TIME: 04:48


「ねえ」


 ルーが、膝に置いた手を見つめたまま、ぽつりと口を開く。


「君に触れているとね、私の中でいろんな“君”が混ざっていく気がするの。

 今ここにいる君だけじゃなくて、未来にいた君、過去にいた君。断片の向こうにある記憶や感情まで、全部……境目が曖昧になって、自分が少しずつ変わってしまう気がする」


 その声には、不安と、どこか切なさがあった。

 

「変わるのは怖い?」

 

 彼女の指先が微かに震え、言葉の裏にある迷いがにじむ。


「それなら、いっそ全部、一緒にして混ぜてしまえばいい。ひとりじゃないってのは……そんなに悪くないだろ」


 俺が言うと、ルーはほんの少しだけ顔を上げて、小さく笑った。


「……ほんと、バカみたい」


 でも、その言葉はどこか嬉しそうだった。


 彼女は俺のジャケットの裾を、そっと指でつまむ。

 それは拒否でも、同意でもなく――静かな水面に落ちた雫が描く、柔らかな波紋のような肯定だった。


 

◇TIME: 05:02


 沈黙が降りる。

 遠くで大型トラックが路面を渡る低い音が絶えず響いていた。


「もう一度……ちょっとだけ視てもいい?」

 ルーの声は、まるで囁きだった。


 俺が頷くと、彼女は俺の手にそっと指先を重ね、目を閉じる。

 張り詰めていた表情が、ふっと和らいだ。


「……視える。高速道路の夜。誰もいない。あなたとバイクで走ってる。その後ろに私がいて、あなたの背中にしがみついてる」


「バイク? それって……いつの未来?」


「わからない。時間も場所も曖昧。でも、“まだ選ばれてない未来”。誰にも視られてない。だけど……とても、居心地がいいの」


 彼女の瞳が、夜の明かりを映して微かに揺れた。


「居心地がいいってのは、たぶん、一番大切なことだと思うよ」


「……もう、怖くなくなった」

 ルーは、うつむきながら呟いた。

 

「視えるから、ずっと怖かったんだよ。でも……視えなければ、今一緒にいられることが嬉しい」


 俺は彼女の指をぎゅっと握り返した。


「俺と行こう。“視えなくてもいい”場所へ。誰にも知られていない未来を、一緒に選びに行こう。たとえ世界から取り残されたって、構わない。一緒にいられるなら、それでいい」


 ルーの手が、まるで何かを確かめるように強く俺の手を包んだ。


 言葉なんて、思いつかない。

 風の音より深い場所で、彼女の掌の温度が繋がっている気がした。


 まつげがわずかに震え、目を閉じたまま、唇が小さく動いた。


「……今はね、きっとね、視えなくても大丈夫って思えることが、視えることより強い気がする」


 そして笑った。


「ふたりだけで選んじゃいけない世界なら……壊してもいいかもね」


 その笑顔は、たまらなく愛おしかった。


 “予知の外”でようやく芽吹いた感情のかたち。


 まるで、世界に2人しかいないみたいに。


 朝が始まろうとしていた。


 東の空がぼんやりと白み始め、薄紫とオレンジのグラデーションに、雲が影絵のような模様を描いている。


「……ひまわりが言ってたの」

 ルーは、自販機の光を見つめながら続けた。

「断片の外に踏み出した人は、過去にもいたって。でも、視えない時間を歩くのは孤独で……誰にも肯定されないまま消えた人もいるんだって」


「それでも、ひまわりは記録を続けてるんだろ?」

「うん」

「だったら、俺たちも残せる。誰にも予知されない“選択の痕跡”を。誰にも肯定なんてされなくても」


 ルーは、小さく、でもはっきりと頷いた。


「視えないことが怖くなくなったのは、たぶん……一緒にいるから」


 その声が、夜明けの風よりも静かに、俺の心へと染み込んでくる。

 そうだ。俺たちは、もう一人じゃない。



◇TIME: 05:49


 白いセダンが、サービスエリアの隅で冷えたまま佇んでいる。


 世界はいつも通りに回っている。

 夜が終わり、新しい一日が始まろうとしている。俺たちがどこにも属していない、まっさらな一日が。


 ルーが顔を上げ、息が触れるほどの距離で、言葉を失ったように俺を見つめる。


 終わりかけた夜の風の中で、迷子になった子供が互いを見つけたみたいに。

 俺たちはただ引き寄せられ――そっと唇を重ねた。



◇TIME: 06:02


 車のシートで、富田はモニターの赤い点をじっと見つめていた。


 わずかに開いたサイドガラスの隙間から、湿ったアスファルトの匂いが、エアコンの風に混じって流れ込んでくる。


 追跡車両の中。夜明け前の街灯が、車内の計器類にまだらな光を落としていた。

 富田の前には、複数のタブレット。交通情報、監視カメラ、そして“断片座標”の独自マップ。


 彼は無言でそれらを指先でなぞり、未来の断片を一つずつ、構造に沿って並べていく。


「この流れなら……三時間二十分後、彼らは補給に立ち寄る。山間部手前、国道沿いのコンビニ。速度が落ちる地点だ」


 その声は感情を持たず、冷たい霧のようだった。


「雨上がりの路面。ルーの体調。燃料残量。監視回避ルートの残り幅。断片の連鎖は収束している。この予知は、構図として成立する」


 助手席の男が、息を呑んだ。

「……本当に、そこまで視えるのか?」


 富田は目を閉じたまま、淡々と答えた。


「予知に感情は要らない。精度と構造だけが全てだ。感情というノイズは、予測不能な絶望を生む。だから、俺たちは“縫われた未来”を、定められた手順で回収すればいい」


 モニターには、まだ起きていない映像が流れていた。

 薫とルーが白のセダンを降り、薄明かりのコンビニへ向かう断片。


「そうすれば、未来は確実に、そして整然と、退屈に、何の驚きもなく流れていく。……だが、それが“もっとも壊れにくい希望”だ」


 そう言って、静かにノートパソコンを閉じた。

 それは現実ではなかったが、富田の中では、すでに“通過点”として確定していた。


 

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