第2話 雨の午後、ミルクの残り香
◇TIME: 13:08
目を覚ますと、窓ガラスを叩く規則正しい雨音が聞こえた。
夏の終わりを惜しむような、けれど執拗なその音は、どこか遠い記憶を呼び覚ます合図のようにも思える。
昼過ぎなのに空は薄暗く、湿った空気が肌にまとわりつく。
カーテンの隙間からこぼれる光は鈍い灰色で、部屋の隅々までを曖昧なヴェールで覆い隠していた。
昨夜のことが、やけに鮮明に思い出される。
掴もうとした瞬間に、指の隙間からすり抜けていく砂のような夢。それなのに、あの瞬間の記憶だけは、まるで琥珀の中に閉じ込められた時間のように、静かに、けれど鮮烈に輝いていた。
ルーシー・リル・ルーシー。
あのクラブで隣に座った、淡いグレーの髪の女の子。
『ないね』
彼女がそう言ったときの声が、今でもはっきりと耳に残っている。
未来も、夢のある生活も。「ない」と、どこか楽しむように断言した、あの声。
体を起こしてスマホを手に取る。
画面に表示された時刻は十三時を少し回っていた。
遅刻だ、と焦る気持ちよりも先に、体の芯にどろりとした重さが残っているのが気になった。
気だるくて、昨日のミルクの甘ったるい香りが、まだ鼻の奥にこびりついているみたいだ。
二日酔いではない。ただ、夢と現実の境界線があいまいになっているような、奇妙な感覚。
もしかすると、彼女の存在そのものが、俺の世界を少しだけ歪ませてしまったのかもしれない。
雨音が、昨夜の記憶と重なって聞こえる。
静かで、でも何かが沁みこんでくるような音だった。
◇TIME: 13:51
熱いシャワーを浴びると、意識がゆっくりと戻ってくるのがわかった。
洗面台の鏡には、どこかぼやけた自分の顔が映っている。湯気が少しずつ鏡を曇らせ、その曇りが、昨夜の記憶と重なって見えた。
服を適当に引っかけ、インスタントコーヒーを淹れる。
ベランダに出ると、色とりどりの傘がせわしなく行き交っていた。
みんなバラバラな方向へ歩いているはずなのに、不思議と同じリズムで揺れているように見える。
まるで誰かに操られているようだ──なんて、そんなことを考えてしまう自分が少し怖くなった。
ドアノブに手をかけた瞬間、ポケットのスマホが震える。
画面に浮かぶ差出人は、昨夜の彼女──ルーシー・リル・ルーシー。
《70まで生きるつもりなら、今日は、会社を休んだ方がいいよ》
その一文を見た瞬間、不思議と雨音が遠のいた気がした。
昨夜の「七十歳くらい」という涼やかな声が、不意に脳裏に蘇る。
ただ、黙ってそのメッセージを見つめる。
信じようとは思わない。でも、完全に無視することもできない。
スマホをポケットに押し込み、玄関のドアを開ける。
傘を広げ、雨の中へと数歩踏み出したところで、再びスマホが震えた。
《信じられないかもだけど、今日、あなたは仕事で事故に遭います》
雨が傘を強く叩く音と一緒に、心臓が冷たく跳ねた。
その音が頭の奥にこだまして、やけに鮮明に響いている。
「……馬鹿げてる」
そう呟いて、スマホをポケットの底に沈める。
返信もしなければ、削除もせず、ただポケットの中でそっと手を離した。
◇TIME: 16:50
会社に着く頃には、空はさらに重く沈んでいた。
建物の中に入っても、じっとりとした湿気が肌に絡みついてくる。
エレベーターの鏡に映った自分の顔は、まだどこかぼんやりしていた。
報道フロアに上がり、席に着くと、富田先輩がちらりとこちらを見る。
「昨日は、どうだった?」
俺は無言のまま、彼女から届いたスマホの画面を先輩に差し出した。
「なんだ、これ?」
「お昼ごろに届いたんです」
「例の占いの娘か? ルーシー……ええと」
「ルーシー・リル・ルーシー、です」
声に出して言ってみると、その名はまるで呪文のように舌の上を転がった。
「新手の逆ナンか?」
「俺にですか?」
「ないな。金も才能もなさそうだし」
「容赦ないですね」
「でも、可愛かったろ?」
「……会ったことあるんですか」
「クラブで見かけただけだよ。ちょっと話題になってたから」
「どんな話題です?」
「予言少女、だってさ。けっこう当たるらしい」
その言葉で、昨夜の彼女の横顔が、ふわりと脳裏に浮かぶ。
「まあ、美人で……かわいい人でした」
「連絡、しといた方がいいんじゃねぇの?」
小さく唸り、もう一度、俺は彼女から送られた文に目を落とした。
「これって、予言ですかね」
「お前、そういうの信じるタイプだったか?」
「まさか。気にもしてませんよ」
「まさか、な」
先輩はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、いつものカメラセッティングの手つきが、少しだけ慎重に見えたのは気のせいだろうか。
◇TIME: 17:10
その日の取材先は、川崎にあるIT企業『インテグラサービス』の社長宅。
共同電新から、社長が自宅前で記者会見を開くという速報が入ったのだ。
自宅前での会見なんて、少し妙な気もするが、どこであろうと俺の仕事は変わらない。
重いカメラ機材を担ぎ、取材車へと乗り込む。
一瞬、彼女のメッセージが頭をかすめたが、それを振り払うように勢いよくドアを閉めた。
閉まる音が、やけに耳に残った。
雨は、まだ降り続けている。
夏の雨は、生ぬるくて嫌いだ。肌にまとわりついて、なかなか離れてくれない。
フロントガラスを叩く雨粒が視界を濁し、その向こう側の風景を水彩画のように溶かしていく。
車内は静かだった。ラジオも流れていない。
ただ、ワイパーが雨を掃く音だけが、単調に響いていた。
スマホは、あれから二度と鳴らなかった。
けれど、「鳴らないこと」が気になってしかたなかった。
あの子の予言なんて、偶然だ。
そう思っていたはずなのに、頭の片隅にこびりついて離れない。
雨と、ミルクの残り香。そして、ガラスのような青い瞳。
それらすべてが、日常という名の現実を少しずつ侵食していくのを感じていた。
◇TIME: 17:15
交差点を通過しようとした瞬間、白いワゴンが目の前を横切った。
胸の奥が、ざわりと波打つ。
──今日、仕事で事故に遭います。
フロントガラスの向こうで、白い車が不自然に躍った。
タイヤが悲鳴を上げ、縁石に激突した金属音が雨の中に響き渡る。
「前の車ッ!」
俺が叫ぶのと同時に、運転手が急ブレーキを踏み込んだ。
身体が激しく前方に揺さぶられ、シートベルトが肩に食い込む。
車は、衝突まであと数十センチというところで、かろうじて停止した。
激しい雨音だけが、不自然なほど静まり返った車内に響いている。
俺たちは、無傷だった。
けれど、事故は、確かに目の前で起きた。
それは俺たちを直撃せず、ただ指先をかすめていっただけだった。
「これ、予言……ですかね?」
「違うだろ。お前、事故に遭ってねぇし。ノーカンだ」
富田先輩が鼻で笑って、肩をすくめた。その顔は、少しだけ青ざめて見えた。
確かに、俺たちは無事だった。
だけど、予言は“外れた”わけじゃない。
つまり──まだ、予言は続いている。
気にしないと決めたはずなのに。
俺は、もう彼女の言葉に、縛られはじめていた。




