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きみが未来を知らないなら  作者: 鷹雄アキル


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第1話 ルーシー・リル・ルーシー


◇TIME: 21:44


 夏の終わり。

 六本木の夜は、夕立が洗い流しきれなかった熱気と、アスファルトから立ち上る湿った匂いに優しく包まれていた。

 まとわりつく空気は、まるでぬるい水の中を歩いているようで、肌にじっとりとへばりついてくる。


 遠くから聞こえる笑い声が、都会のざわめきと混じり合う。

 行き交う人々の熱に当てられながら、夜の雑踏が俺の背中を静かに押していた。


 俺、藤堂薫とうどう かおる、二十七歳。

 都内のテレビ局で、報道カメラマンのアシスタントをしている。

 何者かになれると信じて、根拠のない熱だけを頼りにこの街の改札を抜けたのは、もうずっと前のことみたいだ。


 かつては重い機材の向こうに、自分だけの「真実」を写し出す夢を見ていた。

 けれど、日々の過酷な業務に追われるうち、その情熱は少しずつすり減ってしまった。

 今ではただ、息継ぎをするように生活をなぞるだけの毎日を繰り返している。


 今日は日勤の最終日。

 明日からは、太陽を拝めない昼夜逆転の夜勤が始まる。


 終電の時間を気にしながらロビーでスマホを眺めていると、いつものように唐突に声がかかった。


「おい、藤堂。今夜ちょっと付き合えよ」


 富田先輩。三歳年上のカメラマンで、軽薄そうに見えてどこか憎めない人だ。

 女好きでナンパ癖が抜けず、何かにつけて言うのがこの台詞だった。


「田舎から東京に出てきて遊ばないなんて、人生損してんぞ?」

 

「……またそれですか」


 何度聞いたか分からない。でもまあ、当たらずも遠からずだ。

 気分が乗らないわけじゃなかったけど、さしていきたくもなかった。

 ただ、断るのも面倒で、俺は小さく息を吐いて無言でうなずいた。


 軽く居酒屋で飲んだあと、案の定それでは終わらず、連れて行かれたのは古びた雑居ビルの地下にあるクラブだった。


 ◇TIME: 22:16


「ちょっと面白い子がいるんだ。運が良ければ会えるかもな」


 先輩が意味ありげに笑いながら案内してくれたのは、路地裏のネオンがぼんやり滲む細い通りの奥。

 黒く分厚い鉄の扉だった。


 扉を押し開けた瞬間、身体をぶつけてくるような重低音が空気を揺らす。

 カウンターに無造作に並ぶスツール。奥のフロアでは、音に身を委ねる男と女。

 年齢層は少し高めで、外国人の姿もちらほら見える。


 どこか異国めいた、それでいて不思議と落ち着く空間だった。


 先輩は慣れた様子でバーテンダーに耳打ちし、俺の前に白濁したグラスをコトンと置いた。


「じゃ、ここからは別行動な。楽しめよ」

 

「え、ちょっと先輩――」


 止める間もなく、先輩はフロアの奥へ足早に消えていった。

 俺はひとり、空いていたスツールに腰を下ろし、ため息まじりにグラスを口に運ぶ。


 ──中身は、冷たいミルクだった。


 酔わせるでもなく、気取るわけでもない。けれど妙に落ち着く味。

 ただ静かに喉を通る、どこか懐かしく、ひどく純粋な甘さ。

 こんな喧騒の中でミルクを飲んでいる自分がおかしくて、俺は少しだけ笑ってしまった。


 ◇TIME: 22:41


「ここ、来るの初めて?」


 ふいに、隣から透き通るような声がした。

 振り向くと、そこに彼女はいた。


 淡くグレーがかった髪がふわりと揺れ、ビー玉のような青い瞳がこちらを覗き込んでいる。

 どこか冷静で、それでいてほんの少し柔らかい空気をまとった女の子。

 深い夜の底で、彼女だけがふっと浮かび上がるような、そんな感じ。


 年齢は俺より少し下だろうか。

 透き通るように白い肌は、夏の熱気の中にいるはずなのに、彼女の周りだけ透明な氷の幕が張っているかのように涼しげに見えた。


「……そんなに、浮いてるかな。俺」

 

「別に、そういう意味じゃないけど」


 視線を合わせたのは一瞬。

 すぐにふいっと逸らされるその仕草が、まるで気まぐれな猫を思わせた。


「その席、私に用がある人が座る場所なの。でも、君は違うみたいだから」


「……ごめん、知らなかった」


 慌てて立ち上がろうとした俺の袖を、彼女の指先がそっとつまんだ。

 まるで、通り過ぎようとする風を留めるような、ひどく自然な手つきで。


「冗談だよ。常連なら知ってる、ってだけの話」


 彼女は、俺の手にあるミルクのグラスを指差した。


「その飲み物も、ひとつの合図。ここでミルクを飲む人は、わたしに何かを求めてる人ってことになってるの」

 

「へえ……ふざけたルールだな」


 思わず本音がこぼれる。

 でも、彼女の瞳には、この不条理さも当たり前のことに映っているようだった。


「もしかして……占い師か何か?」

 

「手相でも見る? それとも生年月日?」

 

「占えるの?」

 

「さあ、どうだろう。話のネタくらいには、ね」


 彼女は小さく肩をすくめ、自分のグラスを掲げて乾杯するように笑った。

 その笑顔が、少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。


 ◇TIME: 23:03


「富田っていう会社の先輩が、ルーシーさんは有名だって言ってたけど」

 

「……知らない」

 

「このクラブで働いてるんじゃないの?」

 

「お金はもらってない。でも、肩書きは必要だから」


 淡々とした口調の中に、なにか重いものが沈んでいるように感じた。

 空虚じゃない。けれど、輪郭の曖昧な影のようなものが、彼女の言葉の奥で揺れていた。


「じゃあ、占ってみてよ」

 

「いいよ。手、出して」


 差し出した俺の手のひらに、彼女の指先が触れる。

 氷のように冷たいと思っていた彼女の指は、意外なほど熱を帯びていて、心臓が小さく跳ねた。


 彼女は俺の掌紋を、そっとなぞる。

 まるで、そこに記された小さな秘密を丁寧に読み解くように。


「……ずいぶん、さえない生活を送ってるのね」

 

「まぁ、当たってるかも」

 

「たぶん、このままずっと続くよ」

 

「夢のある生活には、憧れるけど……」

 

「ないね」


 きっぱりと、彼女は言った。

 その声は夏の夜風のように一瞬吹いて消え、それでいて残酷なほど確信に満ちていた。


「俺、結婚できる?」

 

「そこそこ稼げるようになったら、するかも」

 

「何歳まで生きる?」

 

「七十歳くらい。──どう?」

 

「それって、占い?」

 

「ううん。一般論」

 

「……なんか、残酷だな」

 

「残酷じゃない人生なんて、ある?」


 その言葉は、冷めたミルクよりもずっと静かに、俺の心に染み込んだ。

 彼女の瞳には、諦めも希望もなかった。

 すべてを諦観し、受け入れた者だけが持つ、孤独な強さが宿っていた。


「でも、たまに思うの」

 

「何を?」

 

「残酷って、綺麗だなって」


 彼女はそう言って、俺の手を離した。

 その瞬間、指先に残った彼女の温もりが、急に愛おしく感じられた。


 ◇TIME: 23:31


 それからも、気がつけば、いくつも言葉を交わしていた。

 断片的で、実体のない、でも記憶の隅にひっかかって取れないような言葉たち。

 たとえば、夏について。


「肌にまとわりつく、この湿気が嫌い」

 

「俺は好きだけど」

 

「褒めたって、夏は何もしてくれないわよ」


 彼女は時々、遠くを見つめるような表情を浮かべる。

 まるで、俺には見えない何かを探しているような。そんな時の彼女の横顔は、触れれば壊れてしまいそうだった。


「私、人の未来がなんとなく分かるの」


 やがて彼女は、そっと身体を寄せて囁いた。

 甘い香りが、鼻先をくすぐる。


「私、もう帰るね」

 

「……そっか」

 

「一緒に出る?」


 一瞬、迷った。

 彼女はそれを見て、ふわりと微笑んだ。


「じゃあ、名刺か連絡先、ちょうだい」


 渡されたのは、消せるインクのボールペンだった。

 あいにく名刺は切らしていたから、俺は財布の隅にあった割引チケットの裏に、殴り書きで名前と番号を書き込む。


「君みたいな占い師には、似合わないペンだね」


 紙と一緒にペンを手渡すと、彼女は小さく首をかしげた。


「私、占い師だって言ったっけ?」


 ペンをくるりと指先で回し、彼女は薄く微笑む。


「書いたことを、消せるって便利でしょ?」


 その言葉を残して。

 彼女は軽やかに、クラブの黒い扉を抜けていった。


 ◇TIME: 23:42


 ひとり取り残されたカウンターで、俺は完全にぬるくなったミルクを飲み干した。

 結局、先輩は戻ってこなかった。


 グラスの底に残った白い膜を眺めていると、さっきまでの時間が、質の悪い白昼夢だったのではないかという錯覚に襲われる。

 彼女と一緒にいた時間が、ひどく曖昧で、ちょっと気を抜くと消えてなくなりそうだった。


 俺は重い腰を上げて、クラブを後にした。

 外に出ると、生ぬるい夜風が頬を撫でていった。


 その風の中に、かすかに彼女の甘い香りが混じっているような気がした。


 

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