第11話 疾走と痛み
◇TIME OUT
視えた未来が剥がれ落ちるとき、境界は皮膚より薄くなる。
それでも走り続ければ、“今”は風として感じられる。
◇TIME: 14:12
港湾の立体駐車場を出てすぐ、ひまわりが送ってきた遮断帯ルートへ入った。
コンテナ群の裏手。
関係者用ゲートを抜け、通信が不安定になる地下連絡路へ滑り込む。
『ここから先、構造ログはほぼ飛ぶ。感情トリガで位置補正はできないから気をつけて』
イヤカフ越しに、ひまわりの声が届く。
いつもの軽い調子。
けれど、その奥にはわずかな緊張が滲んでいた。
「遮断域、推定十二分。抜けたら連絡して」
ルーが短く返事をして通信を切る。
その直後、俺の背中に回された腕が微かに震えた。
予知が遮断される空間。
それは彼女にとって、初めて目隠しをされたまま歩くようなものなのかもしれない。
「大丈夫か?」
「……うん。ちょっと怖いけど、一緒だから」
言葉の代わりに、抱きしめる腕へ少しだけ力がこもった。
◇TIME: 14:28
地下の空気は鉄と潮の匂いがした。
GPSは死に、時計は遅れ、通知は沈黙する。
ここは文字通りの“情報の墓場”。
電波も届かない。
データも残らない。
誰にも見つからない場所。
ヘッドライトが照らす壁面が歪んで流れるたび、ルーの腕が強張る。
「断片が、拾えない……空っぽ……でも昔の残像が重なる。保育園の廊下を駆けたときのひやりとした床、窓の外にせり上がる入道雲、塩素の匂い。濡れた遊具に触れたときの、冷たい金属の感触──」
ルーが呪文のように情景を吐き出す。
途切れない。
止まらない。
予知の入力が断たれた脳が、代わりに過去の記憶を無秩序に再生している。
まるで壊れたテレビが、古い映像だけを流し続けているようだった。
「ルー! ここは地下道路だ。今は俺とバイクで走ってる」
ヘルメット越しに、彼女が頭を擦り寄せてくる。
不安そうなその仕草に、胸が締めつけられた。
「声……を聞かせて。今どこ? 何をしてる?」
「地下だ。海の下を走ってる。俺が前で、君が後ろ。俺の背中を掴んでる。速度は七十」
「……了解……あなたの背中だけを感じる」
その言葉と共に、震えていた腕の力が少しだけ緩んだ。
俺は無意識に速度を落とす。
彼女の混乱が、少しでも風の中へ溶けていくように。
◇TIME: 14:48
遮断帯出口。
前方に光が見えた次の瞬間、通信が一斉に復帰した。
スマホが狂ったように鳴り始める。
メッセージ。
通知。
着信。
情報の洪水が押し寄せてくる。
「っ……!」
ルーが短く呻いた。
「視界が戻った……断片が溢れてくる! 一気に!」
俺は減速し、側道へ寄せる。
停車すると同時に、手袋越しに彼女の手首を掴んだ。
「落ち着け。ゆっくり息をするんだ。俺に焦点を合わせろ」
肩を震わせながら、ルーが深く息を吸う。
一回。
二回。
荒れていた呼吸が少しずつ落ち着いていった。
「……うん。だいじょうぶ、まだ乗れる」
「無理しなくていいからな」
「ありがとう。でも、止まってると追いつかれるから」
◇TIME: 15:03
港湾を離れ、郊外バイパスへ入る。
路面から立ち上る熱が、下から身体を焼いてくるようだった。
小さなインター下へ滑り込み、防音壁の陰でエンジンを落とす。
アスファルトの照り返し。
まとわりつく熱気。
蝉の声だけが、夏の奥から絶え間なく響いていた。
ルーがジャケットの裾を握りしめる。
「この暑さ、懐かしい……」
空を見上げるように呟いた。
「子どもの頃、お母さんと海へ行った夏休みを思い出すの」
少しだけ目を細める。
「でも、その横にあなたが笑ってる未来も見える」
息を吐く。
「どっちが今なのか、分からなくなる」
俺は彼女の手を両手で包んだ。
「混ざっても濁っても、君がそこにいるなら、それが今だ」
ルーはしばらく黙り込み、小さく首を振る。
「……もし“ここ”が消えたらどうする?」
迷わず答えた。
「また作る。何度でも」
防音壁の向こうで、蝉の声が薄い膜みたいに揺れている。
「……あなたがそう言うなら、今を信じてみる」
ルーがフードを被り直す。
再びバイクへ跨った。
「次、空白域に入る。誰にも触れられない領域」
「予知の網から外れるってことか?」
「うん。たとえ外れても、今を守れたらいい。視えるものも視えないものも、未来じゃなくて、あたしのものにする」
エンジンを再始動する。
振動が掌から胸骨まで沁み込んだ。
この鼓動だけが、揺るぎない今を証明してくれていた。
◇TIME: 15:26
スマホが震えた。
ひまわりからのメッセージが通知画面に浮かぶ。
《逃げて。“凍結者”が動きだした。断片を固定される前に選択を》
俺は画面を見たまま、ルーの耳元で声を落とす。
「何が起こってる?」
「凍結者が来る。視えたものを、そのまま現実に貼ってくるの」
ルーの声が震えている。
これまで聞いたことのない、純粋な恐怖の色が混じっていた。
「……音が変。断片が脈打つみたい。誰かが“今”に滑り込んでくる」
バックミラーの陽炎の奥で、影が揺れていた。
一つ。
二つ。
三つ。
数が増えている。
錯覚じゃない。
本当に何かが追ってきている。
「予知されてないはずなのに、誰かが私たちを見てる……歪みだ。構造の外から無理やり追いつこうとしてる」
俺は標識を無視して側道へ飛び込んだ。
地図にもほとんど載らない農業用サービス路。
草いきれが一気に押し寄せる。
◇TIME: 15:31
再加速。
舗装が粗く、タイヤが跳ねる。
ヘルメットの内側でざらつくノイズが響いた。
凍結者の干渉が近いのか、空気が薄い膜になって張りついてくるような異常な感覚。
ハンドルを握る手が重い。
見えない粘着質の何かが、空間そのものを縫い留めようとしている。
「干渉されてる……?」
「かもな。俺は俺のしたいようにする。誰の未来にも入る気はない」
返事はない。
代わりに背中への腕が強く締まった。
迷いはない。
背中越しに伝わるその力だけで十分だった。
それは間違いなく、信頼の温度だった。
◇TIME: 15:34
路肩の温度表示板が、一瞬だけ二重に見えた。
ひとつは三十六度。
もうひとつは二十九度。
――いや、それだけじゃない。
交差点に差しかかった瞬間、景色そのものがバグを起こした。
横断歩道を舞うビニール袋が空中で静止している。
タイヤが跳ね上げた泥水も、ガラス細工のように宙へ縫い付けられたままだ。
「凍結が来てる! 景色が“固定”されるの。絶対に触れないで走り抜けて!」
「了解」
俺は車体を深く寝かせた。
静止した泥水のオブジェをギリギリでかわす。
速度を上げる。
固定された空間の膜が裂け、後方へ流れ去った。
もしあれに触れていたら。
俺たちの時間も、あの瞬間へ縫い付けられていたはずだ。
◇TIME: 15:38
橋の下。
日差しが急に切れ、蝉が一斉に鳴き始める。
前方のトンネル入口が、不自然なモザイク状に歪んでいた。
空間が塗り固められようとしている。
「……入り口が塞がれる!」
「突破する。しっかり掴まってろ!」
俺はアクセルを底まで捻った。
固定化が完了する寸前。
ほんのわずかに残った隙間へ、バイクをねじ込む。
見えないガラスを叩き割るような衝撃がヘルメットを打った。
それでも俺たちは止まらない。
強引に歪みを突き抜ける。
◇TIME: 15:42
谷筋の工場群。
古い建物が並び、煙突から白い煙が細く立ち上っている。
まるで時が止まったような風景だった。
ここが空白域の入口だ。
ひまわりが示した座標を、今まさに越える。
断片のフィードが沈黙した。
「静かね」
ルーがぽつりと呟く。
「静けさが、もう痛くない」
「よかった」
彼女の身体から、張り詰めていた緊張がゆっくり抜けていくのが分かった。
◇TIME: 15:45
短いトンネルを抜けた瞬間、視界がひらけた。
ビルの谷間越しに見える夏空。
濃い青。
雲は薄く伸びるだけ。
「この景色、断片にないわ」
背中で微笑む気配がした。
「そうだな。誰にも見られていない場所だ」
俺はアクセルを少し戻した。
目の奥に、その青を焼き付ける。
「ここから先は、俺たちで作るんだ」
ルーが小さく笑う。
「初めて……未来じゃなくて、今を生きてる気がする」




