かがみのはなし
そうだな。今日は、自分をすっかり忘れてしまった生徒の話をしようか。
その生徒は、校則違反をしない程度の髪型と制服の着こなしをしていた。
制服には縫い付けられたフェルトの名札があり、「賀上」と刺繍されている。
賀上あおか。
それがその生徒の名前だった。
賀上は真面目で、誰とでも仲が良くて。誰にも頼る事ができない子だった。
いつも笑顔で、良くも悪くも普通の良い子。
そんな自分に疲れてしまったのかもしれない。
平坦な日常に、ちょっとしたスパイスが欲しかったのかもしれない。
たまたま耳に入ったおまじないに手を出したんだ。
やり方は簡単。
鏡の四隅に紫の絵の具を塗って、「あなたは誰?」と問いかける。
名前を答えたら、絵の具をハンカチで拭き取る。
それを、一日二回。一週間繰り返す。
気をつけるのは四つだけ。
・誰にも知られちゃいけない。
・使う鏡は校内に限る。
・ハンカチは同じ物を使い続ける。
・自分の名前を忘れちゃいけない。
□ ■ □
賀上は絵の具とハンカチを持って鏡に向かい合っていた。
手順を確認するように呟いて、絵の具のチューブを鏡の四隅に押しつける。
映っている自分はいつも通りの冴えない顔をしていた。
「あなたは誰?」
「……賀上、あおか」
そんな簡単な受け答えをして、絵の具を拭い取る。
一日二回。簡単なかんたんな繰り返し。
二日目も問いかける。
三日目も問いかけた。
四日目も問いかけて。
変化が現れたのは、五日目だった。
鏡に映った自分の表情に違和感を覚えた。
なんで鏡の中の自分は笑ってるんだろう。口元に手を当てると、少しだけ上がっていた。
――うん。笑ってた。
そう気付くと、確かに自分は笑っていた。そんな気がする。でも、じっと向かい合っていると、その違和感はどんどんと広がっていく。
目は。髪型は。口元は。本当に、こうだったっけ?
本当に。こんな顔だったっけ?
ホントにこうだっけ?
正しいようで、なんだか違う気がする。
でも、鏡だから正しいはず、と考えるのを止めて、声を出す。
「あなたは、だれ?」
ああ。こんな声だったんだ。そう思いながら答えた。
「かがみ、あおか」
正解、と鏡の中の自分が頷いた気がした。
□ ■ □
「あおか? 顔色悪いけど大丈夫?」
目の下すごいクマだよ、とクラスメイトに言われた。
「え? そう?」
ちゃんと寝てるんだけどなあ、と目の下を指で押してみる。鞄に入っている小さな手鏡は、なんだか見る気になれなかった。
「……うん、大丈夫だよ」
自分の言葉なのに、そうなのかなと思った瞬間、昨日感じた違和感を思い出す。
もしかして、あのおまじないが原因?
「最近何かあった?」
クラスメイトは心配そうにこっちを見ている。
いや、ただのおまじないだ。そんなはずない。
「……ううん、なにも。夜更かししたからかも」
そう。変なことは何もない。たくさん寝ればなんとかなる。
きっと。
□ ■ □
六日目。
鏡を覗いた瞬間、映ってる自分が自分だと思えなかった。
身に纏う制服を間違えたような気がした。
髪型が違う気がした?
私は。あれ? 俺は?
僕? わたし……あれ?
急に「自分」が曖昧になる。輪郭がベタベタに塗りつぶされていく。
「あなたは……だれ?」
声に出すと、自分が少しだけ戻ってきた。
言葉の意味はちょっと分からなくなってたけど、多分、今まで通りを繰り返せばいい。いつもの言葉を。それできっと大丈夫。
「かがみ……あお、か」
鏡の中の口がそう動いて、笑ったように見えた。
うん。合ってる。
――あってる、はず。
そして七日目。
鏡に向かい合う、最後の一日。
絵の具を乗せた鏡の中に居た自分……だと思う人影は、誰か分からなかった。
瞬きをする毎にくるくるとその姿を変える。
男子生徒。女子生徒。
セーラー服。カッターシャツ。体操服。夏服、冬服。分からない。
髪は長くて。短くて。黒くて、白くて、紫で。分からない。
にっこり笑って、悲しげで。怒っているような、泣いてるような。分からない。
そもそも全てが影のようで、何かに塗りつぶされてるようで。分からない。
その姿にくらくらしていると、突然声がした。
「あなたは、誰?」
ベタベタした の声。
鏡の口が勝手に動いていた。
そこに疑問はなかった。ただ、「ああ、こんな声だったんだ」と思った。
でも、答えなきゃいけなかったはず。
なにを? ええと。
誰。あなたは。だれ?
そう。それを答えなきゃいけない。
でも。
だけど。
やっぱり。
分からなかった。
この一週間、何度も口にしたはずのその問いが。答えが。当たり前に持っているはずのものが。この鏡に映る影が何なのか。自分自身? そもそも、その言葉は何だっけ?
ええと、と言葉に詰まり――胸元に当てた指先が硬いフェルトに触れた。
そうだ。名前。名前を聞かれてた。それを答えるんだ。胸ポケットに手を当てる。一部だけ感触が違うそれは、きっと刺繍された名前だ。
なんと書いてあったっけ。視線をそろっと下ろす。
JT~0『K$"#=(
読めなかった。
何文字かも分からない。
何色かも分からない。分からない。
分からない。分からない。分からない。
分からない。怖い。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からなくて。分からない。怖くない。分からない。分からない。分からない。知らない。分からない。分からない。分からない。分からない……
なーんにも、分からなくて。
ちょっと笑えた気がした。
一体、 は――■?
もう一度聞かれた気がして鏡を見ると、影がこっちに手を伸ばしていた。
自然と、自分も手を伸ばしていた。
もう真っ黒にしか見えない顔の中で、やけに赤い口がにやりと吊り上がった。
ぴたりとガラス越しに指が触れる――と、鏡面が泥のように揺れ 、
足元が ような
無くなっ 、
かんじ が
――。
□ ■ □
生徒がひとり、居なくなった。
生徒達は皆、口を揃えて原因は分からないという。
ただ、全員が口を噤んで――密やかに語る、最期の場所は。
誰も使わないほど古く、遠いところにあるトイレ。
誰かは、そこで叫び声を聞いたという。
誰かは、笑い声が響いてたという。
洗面台の鏡が、絵の具で塗りたくられていたらしい、という。
それは紫だったという。
そこには誰も居なかったという。
それがどの鏡かはもう分からない。
その生徒の行方も分からない。
それらは全て「用務員さん」が片付けてしまったのだ。と話は終わる。
□ ■ □
目を覚ました。
暗い。古い天井が見える。階段、踊り場みたい。
身体を起こすと隣に誰かが居た。
見たことあるような、ないような……。相手もそう思ってるのだろう。お互い不思議な顔で見つめ合う。
そのうち、自分達を映す大きな鏡に気付いて、同時にそっちを向いた。
映っていたのは双子のようにそっくりな二人。
紫のショートヘアに同じ色の瞳。違うのは、身につける制服。髪型。それから性別。
あとは全て――顔も背丈も同じに見えた。
「「ねえ」」
二人の声が重なる。声も重なってしまえば聞き分けられない。
きょとんとしたまま、二人は似た仕草で首を傾げる。
「「あなたは、だれ?」」
声が重なった。
「とても、見たことある気がしない?」
「すごく、会ったことある気がするね」
「でも、知らない」
「うん。分からない」
「不思議だね」
「そうだね」
「……ここ、学校かな?」
「でも、こんな場所知らない」
「うん……」
ここはどこだろう。自分と、隣に居るのは誰だろう。どうすればいいんだろう。
何も分からない二人が踊り場で途方に暮れていると――足音が聞こえた。
音の方を見る。階段の上から現れたのは、影のような少年だった。
小さな背に、ぴしりと伸ばした背筋。赤い飾りの学生帽に学ラン。横に大きく跳ねた髪。鋭い金色の目は、二人を睨みつけるように光った気がした。
「二人……」
ぽつり。と少年が呟いた。眉を寄せると、視線が一層鋭くなる。
「鏡に喰われたのはお前達か?」
確認するような問いも冷たく響く。
「えっと……」
「あの……」
答えられない二人は、その射抜くような視線に怯え、ぎゅっ、とお互いの手を握る。
今この場所で信じられるのは、隣のそっくりさんだけだ。
「あーあ。ダメだよヤミちゃん。それでは怯えてしまうだろう?」
彼の後ろから、女子生徒がひょこりと現れた。
少年より背が高くて、セーラー服に紺色のカーディガンを羽織っている。身軽な動作で階段を飛び降り、二人の前に立った。こりと笑うと、目を覆う前髪がさらりと揺れた。
二人の様子を眺め、階段を降りてくる少年へ振り返る。
「見たまえよこの様子を。ハナブサさんも怖がらせないようにと言ってただろう?」
軽くたしなめるような言葉に、隣に立った少年は口を曲げる。
「俺何もしてないんだけど?」
「そうだな」
「大体、こうなるの分かってただろ。なんで俺を連れてきた」
少年の疑問に、少女はあはははと明るい声で笑う。
「ヤミちゃんは怖くないと分かってもらうのは必須だからな。誤解は早めに解くべきさ」
「誤解されるの前提かよ」
「うむ。ヤミちゃんは外見で損をするタイプだからな」
「知ってるか? そういうの余計な世話って言うんだぞ」
「もちろん。ボクの勝手なお節介だよ。しかしこの事態だ。万が一があったら大変だろう?」
「……そうだけど」
呆れて溜息をつく少年の姿に少女はからからと笑い、二人へ向けて手を差し出した。
カーディガンから覗く手は、握手を求めているようにも、こちらへの招きにも見えた。
「初めまして。ボクはハナ。こっちの黒いのはヤミちゃんだ。目つきは怖いが無闇矢鱈な事をしなければ害はないよ」
「害て」
ハナはヤミの言葉を軽く無視し、口の端をにっこりと上げて高らかに言う。
「まずは状況の確認をしたいんだが……。そうだな。何か覚えていることはあるかい?」
二人はうーん。と考える。
さっきもそうだったけれど、何も分からない。
だからふるふると首を横に振る。
「なるほどなるほど。ならばこちらから情報を提供しよう。君達の状況を判断する材料は三つだ」
まず、と人差し指が立てられる。
「ひとつ、ここは大鏡と呼ばれていた鏡の前」
次いで、中指。
「ふたつ、表で流行っていた紫鏡のおまじない」
それから、薬指。
「みっつ、すべて忘れてしまった君達」
三本の指を揺らし、ぱっと手を開いて見せる。
「これらから導かれるのは――君達は、鏡に喰われた」
「鏡に……」
「喰われた?」
さっきもそう言われた。どういうことだろう?
「そう。大方、鏡に絵の具を塗る例のおまじないをしたのだろう。あれは良くない。ただでさえ自己認識の分散と低下……ゲシュタルト崩壊、と言うんだっけ?」
そうだっけ、と彼女は一瞬考える素振りを見せて「まあいいや」と言葉を続けた。
「それを引き起こすような行為なのに、本家の紫鏡と混ざって実に厄介だ。君達はそんな厄介極まりないモノに喰われて死んだんだ」
彼女の話もよく分からなかった。
「喰われた?」
「死んだ?」
聞き取れた単語だけを繰り返し、首を傾げる。
そう、とハナは頷いた。
「利用されたと言い換えても良いよ。大鏡は身体を手に入れようとした。しかし残念ながら、この世界の境界は生身で越えることができない」
ハナはやれやれと言いたげに肩を竦め、大仰に溜息をついてみせる。
「勝手で申し訳ない話だがね。こちら側に来てしまった以上、君達は元の生活には戻れない。あちら側には帰れない」
ね、とヤミに話題を投げると、彼は「そうだな」と頷いた。
「でも、全部忘れてるならある意味幸せかもな」
そうつぶやいた彼の声は、哀れみと羨望を含んでいるように思えた。
「――で、だ!」
ハナが一瞬しんみりした空気を戻すように、明るい口調で二人に向き合う。
「性別。性格。記憶。存在。これまで持っていた何もかも――。全て分からなくなって、全部の可能性を抱き込んで。結果、君達は二人に別れてしまった。ふたりでひとり。鏡写しの同一存在。それが今ある君達の全てだ」
わかるかい? とハナは問う。
「「よく、分からない……」」
揃った声に、彼女は「そうだろうな」と頷く。
「分からないのが普通さ。いや、普通とか常識とか必要ない。ボクだって分からない事だらけの毎日さ」
「お前にはそろそろ分かってほしいんだけど?」
「ふふ」
「分かってやってんのかもしかして」
「さてね。と、まあ。些細なことはどうでも良いじゃないか。――さあ」
と、彼女は再度。今度は両手を差し出した。
「君達二人。いや、ひとり――どっちでも良いや。君はこれから変わってもいいし、変わらなくてもいい。折角まっさらになったんだ。己を好きな色に塗るも塗らないも、君達の自由だ」
「……」
二人は顔を見合わせて頷き、そっとハナの手を取った。
ハナは満足そうに握り返し、引っ張って立たせる。
「ようこそ。ボク達は君を歓迎するよ――」
一瞬彼女は言葉を止めたが、すぐに朗らかな笑顔で二人を抱きしめた。
「二人でひとりの――カガミ」
「二人で」
「ひとりの」
「「カガミ……」」
同時に呟いたその名前は、なんだか二人の奥底にじんわりと染み込んできた。
なんだか暖かくて。懐かしくて。泣きそうで。
全部分からなくなってしまったけど、それだけは大事にしなくちゃいけない気がした。





