第八十四頁
翌日。
涼しい朝を迎えた。
太陽の光を浴びて起きられないのは少しおかしな感覚だったが、寒すぎずそれでいて暑くない気温は快適だった。
こんな海底で、一体どうやって気温を保っているのだろう。それとも、元からこのぐらいの気温なのだろうか。外の気温が低くとも、水の中の方が温かいということもあるらしいからな。
帰って来なかったルーシー父のベッドで寝ていた俺は体を起こした。
時計が無いために時間の程は分からないが、たぶん早起きだろう。
隣ではまだ、ママさんが寝ているのだから……。
「……んう~ん」
色っぽい声を出して寝返りを打っている。
一体、どうしてこんな事になったのか。
それは昨夜の食事が終わった後の事だった。
いざ寝る時間だという時、メグルはルーシーの部屋で寝ると知っていたが、俺はどうすればいいのか分からなかった。
するとママさんは、帰って来ないからパパさんのベッドで寝ればいいと言ってくれたのだ。それはとてもありがたかった。ありがたかったのだが……。
まさかママさんのベッドとくっついているとは思わなかった。
よく考えれば、パパさんのベッドで寝るとなった時、同じ部屋なのかもしれないということを考えておくべきだったのだ。というか、大体はそうなるだろう。
まあ、結果として何があったというわけではないが、普段からパパさんは仕事で家を開けることが多いらしい。そのせいでママさんはご無沙汰なのか、時折俺の体に触れてくることがあったのだ。
完全に寝てしまうまでも、「息子はいないから不思議な感じ」なんて言ってはいたが、明らかに女の目をしていた。とても息子を見るような目ではなかった。 強いて言えば、俺の息子を見ていたのだろう。触れてくる手も何だか火照っていたような気がしたし、すごく艶やかな雰囲気を醸し出していた。
大人の女の人のそういった積極的なエロスが苦手な俺は、いつかのように逃げることも叶わず心臓が張り裂けそうだった。
それに伴って息が荒くなる。
息が荒くなると、ママさんは俺にその気があるのかと勘違いし始める。
さりげなく腿のあたりに触れてきたりと、それはそれは官能的な夜だった。
「はあ……」
お蔭で、ママさんが眠ってくれた後も昨夜はあまり眠れなかったし、逆に俺の興奮の方が治まらなくて大変だった。
ベッドを抜けた俺は、まあるい窓の外を昨日と同じように覗いてみる。
薄暗い朝だ。
これは、ここが海の底だからなのか。それとも、まだ日が昇り切っていないからか。
とにかく、皆が起きるまでリビングでぼうっとでもしていよう。
寝不足でもあるし。
陸から運んできたのだろうか。木のテーブルに備えてある木の椅子に腰を掛け、しばらくそのままぼんやりとしていた。
やはり、まだ日が昇り切っていなかったのだ。次第に外が明るくなってくる。
もう一度窓の外を見ると、昨日はあまり気にならなかったものに目がいく。
球体の様な、しかしどこか違う水泡の様なもの。それが街中にたくさん浮いているのだ。
「あれ、スグルもう起きてたのね」
「ああ、おはよう」
「どうしたの。朝早くから外なんて眺めちゃって」
「いや、あれは何かな、と思ってさ」
俺は今見ていたものを指さした。
「あー、あれね。ウォータープリズムよ。あれも水を操る魔術で作られてるの。えっと……水を多角形にして、ここまで届く僅かな太陽光を反射させてるのよ。だから海の底でも明るいのよ」
「へえ、気になってたんだけど、その魔術ってのは誰が?」
「誰でもないわよ。昨日言ったでしょ。サンゴなんかに石を与えてるって。ここのサンゴやイソギンチャクなんかはほとんど魔物化してるのよ」
「そうなのか!?」
「当たり前でしょ。昨晩の発光も、ここにある空気を作りだしてるのも、ウォータープリズムを形成してるのも全部が魔物化けしたサンゴやイソギンチャクたちなの。私たちのためにやってくれてるってよりは、自分たちが生きるためにこの環境を作りだしてるってことらしいわ。そこに私たちがちゃっかり住みついちゃってるの。空気で囲んでシーワンドを作ったのは水竜様だけどね」
「魔物と共生してるってことか……」
「外には襲ってくる魔物がいるんでしょ?」
「ああ、俺たちも何度も戦った」
「怖いね。外は魅力的だけど、それがあるから私、あんまり地上で暮らしたいと思わないのよね~。旅商人の話を聞いてるだけで十分だわ」
「安全には越したことはないからな。それでも、メグルは村の外に出たんだぞ?」
「私とメグルは違うわよ。ほら、メグルって物好きだから」
「確かにな~。……って、なんで俺を見て言うんだよ」
「何にも気が付かない馬鹿だから」
「なんだとぅ!? 俺はこれでも、戦況で相手の弱点を推測してそれなりに修羅場を潜り抜けて――」
「言ってるそばから来たわよ」
ルーシーの部屋から、まだ寝惚け眼のメグルが起きてきた。
「……おはよごじゃましゅ」
「メグル、髪が乱れてるぞ。人のいるところではちゃんとしておこうな」
俺は、メグルの藍色で綺麗な髪を手で梳かしてやった。
「あんた保護者みたいね!」
「まあ、一緒に暮らしてるようなもんだからな」
「それじゃあ違うのよ!」
「ルーシーちゃん、どうしたんです?」
「さあ?」
「……あんたらはゆっくりとすればいいと思うわ」
そんなことを言った後、ルーシーは辺りを見回している。
「そういえば、ママは?」
「あー……。ママさんは昨日、夜更かししてたみたいだからなぁ……。そ、そろそろ起きてくると思うぞー……」
「そ、ご飯食べたらすぐに出かけようと思ってたのに」
「あの綺麗な所に行くんですね!」
「そうよ。帰りが遅くなるのなんて嫌だからね」
それからすぐにママさんが起きてきて、食事を頂くと俺たちはすぐに街中へと繰り出した。
ルーシーの言うとおり、ウォータープリズムは光を反射してシーワンドに明かりを届けていた。ウォータープリズムは至る所に浮かんでいて、それぞれ大きさも異なっている。多角形というだけあって完全な球体ではないが、やはり構成しているのは水だけということもあり、触れると柔らかく指がめり込む。
「あ、これちょっと光ってて綺麗です」
メグルも何か見つけたようだ。
話に聞いていたイソギンチャクだった。
「駄目!」
メグルが触れようとすると、ルーシーは慌てたように声を上げた。
「メグルには言ってなかったけど、所詮そいつは魔物なの。噛むから触っちゃ駄目よ」
「これ、魔物なんです?」
「そうよ。だから不用意に触らないでね」
水の球体に包まれているイソギンチャクには、やはり普通の種と違って歯が付いていたり、動きが機敏だったりした。メロルが木を杖としてストーンを埋め込んだように、こうして移動できない生物だからこそ魔力の源として使うことが出来るのだろう。いわゆる、間接型の魔力使用なのだろうが、生物の特性を上手く利用して、人間が触れずとも魔力を有効活用しているらしい。
シーワンドは海の中でもほんの一部だと言っていたが、それでもかなりの広さがあるようだった。空気と水の壁がある端まで行くにはかなりの時間がかかりそうだ。
もちろん、これから行くという遺跡にしてもすぐには辿り着かない。
街中を眺めながら、俺たちはゆっくりと歩く。
俺は、遺跡についてルーシーに聞いてみることにした。
「遺跡っていうのはどういうものなんだ?」
「えっとね、昔の建物」
「そりゃそうだろうに……」
「仕方ないじゃない。そんなに詳しいわけじゃないんだから」
「シーワンドに住んでるのにか?」
「遺跡について知ってる人なんて、シーワンドでも限られた人たちだけよ。神官様とか……」
「神官様なあ……。それ、ママさんも言ってたんだけど、遺跡に神官がいるのか」
「どういうこと?」
「だってさ、いまだに祀られてるなら遺跡だなんて言わないだろ?」
「うん、本当は遺跡じゃないから」
「は? そうなのか、じゃあどうして遺跡だなんて呼んでるんだよ」
「知らないわよ。あれ、神官様たちは神殿って呼んでるわよ? ラスロ神殿って」
「ラスロ……?」
その言葉に聞き覚えがあった。
いや、聞いたことはないか。本で見かけた言葉だからな。
ラスロ神殿。確か、『ハンスの異世界紀行』によると異世界から人間を召喚する召喚施設だったはず。
それがシーワンドに……?
あの本の記述が正しいとすれば、ラスロ神殿はハンスがこの世界の人々と協力して建造した施設であり、異世界から何度でも人間を召喚できたはず。そして、それを造ったハンスは、この世界に人間を召喚する何らかの意図を知っていたからそれに着手した。自分では為せないそれを誰かに任せるために。
だとするならば、七護が俺に言えないこと、ハンスが本に記述できなかったことがあの神殿で分かるかもしれない。
戻るつもりなんてないが、これは行くしかないな。
「ていうか、限られた人しか知らないって言う割には結構知ってるじゃないか」
「だって、私のパパがあそこで神官様の弟子やってるから」
「そうなのか!」
なぜそれを早く言わない、なんてことが次々に出てくる。
それまではゆっくりだった俺の足は自然と早くなった。
◇◇◇
シーワンドはしっかりと区画整理がされているようで、非常に歩き易かった。曲がりくねった道はないし、途中で行き止まりになったりすることも無かった。 ラスロ神殿に来るまで、神殿を見ながらただまっすぐ歩いていればいいのだ。
確かに、ルーシーの言った通り遠いようではあったが、体感ではそう感じなかったし、これまでの旅の道中の長さと比較すればなんてことはないのだった。
神殿の前にたどり着くと、その大きさに俺もメグルも圧倒された。
遠くから見たらかなりの大きさを誇っているとは思っていたが、想像以上だったのだ。柱の一本一本はそこらの木を何本束ねても敵わない太さだし、幅も奥行きもバステリト城の倍はあるかもしれない。
何よりも、建物全体の輝きだ。
遺跡というからには、というよりも『ハンスの異世界紀行』を参考にするならば建造されてから五百年近く時が経っているはずなのに、どこにも歴史を感じさせない。
俺は輝く神殿の柱に触れてみた。
「これ、ストーンで出来てるのか……?」
どうやら、神殿の素材は殆どがルーンストーンのようだった。
見上げると、天井にはびっしりと何かの文字が刻まれている。
「ルーン文字ですね」
メグルが腕のアクセと見比べながら言う。
ちなみに、目の良し悪しで俺にはルーンかどうかは判別できなかった。メグルは目が良いのだ。
「待ってて。神官様呼んでくるから」
「ああ、頼んだ」
ルーシーは神殿内へと入って行く。
その間、俺はメグルに話しかけてみる。
「どうだ、メグル。ここに来たかったんだろ?」
「綺麗ですねー。でも、どうしてストーンで出来てるんでしょう?」
「どうしてだろうなぁ……」
俺にも真相はまだ分からない以上、メグルに中途半端な事は伝えたくなかった。
「呼んできたよー!」
ルーシーが走り戻ってくる。
その後ろでは、一人の男性が歩いて来ていた。
神官かな?
「あなた方は?」
「スグルと言います」
「私はメグルです」
「実は聞きたいことがあって来たんですけど……」
「ほえ? 私はただこの建物が見たかっただけ――」
「いや、俺もここに用があったんだ」
「そーなの? あんたそんなこと言ってなかったじゃない」
「どうせ行くなら言う必要もなかったと思ってさ」
聞きたいことがあると言ったからだろうか。
目の前の男性は訝しげな視線を俺に向けていた。
「ルーシーのお友達と聞いてきたが、君のその髪は……」
「あ、これですか?」
しまったな。
久しぶりに髪の事について触れられた。
ルーシーは子供だから誤魔化しようがあったものの、大人となると……。
「えっとですね、これはなんといいますか……」
「いや、隠さなくてもいい。神官様をお呼びする」
「え、あの……」
男性はまた神殿内へと戻ってしまった。
「え、パパ? どこ行くのー?」
あの人はルーシーのパパさんだったのか。
隠さなくてもいい、とはどういう意味なのだろうか。
「スグルさん、何かしたんです?」
「そんな人聞きの悪い……」
「変態だから仕方ないわね」
「お、おい、まさかパパさんにそのこと言ったんじゃないだろうな?」
「言わないわよ。言ったらあんたただじゃ済まないし、私だってそんな変態を友達として紹介しないわよ」
「だ、だよな……」
神官を呼んでくる。
その言葉がこの世界での警察を呼んでくる、なのかと思ってびくびくしてしまった。
ルーシーのパパさんはすぐに戻ってきた。今度は長い白髭のお爺さんを連れて。
この人が神官なのだろうか。
「この方が?」
「ええ、たった今見えました」
パパさんと神官は何やら会話をしている。
「あ、あの……」
「ほう、あなた様が異世界から来た守護神じゃな」
そんなことを言って、俺より目線の低いお爺さんは握手を求めてくる。
「しゅ、守護神!?」
握手に応じようとした手で、思わず自分の顔を叩きたくなった。
俺にも大層な役割がやって来た、なんて思っていたら、俺はいつの間に守護神
なんて神の名の付く存在になったのだろう。
「まあ、驚かれるのも無理はない。異世界からくる人は皆、己の役割を知らされずに来るのじゃからな」
「その役割とは何なんですか」
「ほっほっ。恐れ多い事を簡単に聞きなさる……。聞けば儂が話すとでも御思いかな? 七護様たちですら口に出来ぬことを」
「い、いえ……」
話の流れでさりげなく聞けば、老人なら口を滑らせると思ったのに。
「え、スグルって何なの? エセ怪人?」
「異世界人な」
「意味わかんない」
「ルーシーにはまだ早いじゃろうて。ワルフッドよ、しばらく娘と空けてくれんかの」
「はい、もちろんです」
「ま、待ってください!」
「どうしたメグル?」
「い、今、ワルフッドって言いました……」
「言ったな。それがどうかした――」
ワルフッド?
どこかで聞き覚えがある。
確かメグルの――。
「どうして、ルーシーちゃんが私と同じ姓なんです……?」
メグルは不可解さにとらわれている様子だ。
しかし、姓が同じことがこの世界ではそんなに珍しい事なのだろうか。
「ワルフッドはメグル以外にもいるんじゃないのか?」
「そ、そんなことは……」
やっぱりなくはないのか。
「でも……。ワルフッドの姓はプレイン村に古くから伝わるものなんです。ピスカ遺跡を守る民としての……」
「ふむ、その御嬢さんの言うことは嘘ではないぞ。しかしじゃ、ワルフッドの姓の発祥はこのシーワンドじゃ。本来は守護神にしかお見せすることはないのじゃが、これも何かの縁じゃな。青髪の御嬢さんも一緒に来なさい」
神官のお爺さんは神殿内へと入って行く。
「パパ、私は駄目なの!?」
「ああ、駄目だ」
「なんで! つまんない!」
「そんな事言うな。久しぶりにパパと遊んでよう」
「え、いいの!? やったあ!」
ルーシーとパパさんが行ってしまうのを見届けると、俺とメグルも神殿内へと向かった。
神殿の中は外観同様に輝きに満ちていた。青を主とした輝きだ。
壁の至る所にはルーンの文字が刻まれている。
「こんなにたくさんのルーンを見たのは初めてです」
メグルの声が響いた。
「おや、プレインの方ではすでにルーンが忘れ去られているのですか?」
「いえ、成人の儀と共に遺跡に刻んでいました。でも、もう村には若者もいなくて……」
「そうですか……。同じ血を分け合った種が衰退していくのは悲しい事ですな……」
「同じ血を分け合う……。あの! 私とルーシーちゃんは一体どういう関係なんでしょう!」
いつになく、メグルの気持ちは前に出ていた。
「まあまあ、そんなに慌てなさるな。儂らシーワンドとプレインの民の関係は異世界から来た守護と密接的な関係があるのじゃ」
「俺が、メグルたちと?」
「どこから話せばいいのかのう。そうじゃ、こんな昔話を知っていますかな?」
神官のお爺さんが話しはじめたのは、以前にメグルが話してくれた昔話と全く同様のものだった。メグルも驚いていた。
無理もない。
その共通点からしても、メグルたちプレイン村の人たちとシーワンドとの関係性の近さが証明されているのだから。
「……そのお話し」
「そうじゃ、シーワンドに古くから伝わる、マジンの始まりじゃな。この世界が異世界と繋がった事の始まりでもある」
「ただの昔話だと思っていたけど……」
「もう何百年も前の話じゃ。シーワンドにもこれを信じている者など殆ど存在しない」
「けど、それがメグルや俺たちとどんな関係が?」
「この昔話には続きがあるのじゃよ」
「続きです?」
続きはないと言っていたメグルは、それが気になるようだった。
「昔話自体はある程度内容が変わっておるがの、そこから先は創作でもなんでもない。この世界の歴史そのものなのじゃよ」
神官のお爺さんは語り始めた。
世界の歴史を、俺たちの繋がりを――。




