第七章 距離
エイドリアン・ケスラーとの接触は、その後も続いた。
商業統計調査の書式が実際に改訂され、リディアの提案が部分的に反映されたと知ったのは、改訂版の書式が届いたときだ。添付の説明文に「関係各位からのご意見を参考に」とあった。それだけで十分だと、リディアは思った。名前は載っていない。しかし採用された。それは確かなことだ。
翌月、エイドリアンが訪れた。書類の受け取りのためだったが、その後で少し時間をとってほしいとクラリスに申し入れた。財務省が進めている商業区の取引透明性向上施策について、実務担当者の意見を聞きたいということだった。
クラリスは「リディアに聞いて」と言って奥の部屋へ引っ込んだ。
エイドリアンとリディアは、商会の小会議室に向き合って座った。
エイドリアンの質問は具体的だった。実際の取引でどういった書類の齟齬が起きやすいか、商会側の実務負担が重いのはどの工程か、改善するならどこが優先か。リディアは一つひとつ、整理して答えた。
「記録の標準化が先決だと思います。今は商会ごとに書式が異なっていて、財務省側でまとめる際に変換コストがかかっているはずです」
「具体的には」
「たとえば通貨単位の表記揺れだけで、先月の統計調査では三通りの書き方が混在していました。標準書式を義務付けるだけで、照合作業が三割は削減できると思います」
エイドリアンはメモを取っていた。彼がメモを取る姿を見たのは初めてだった。いつもはほぼ記録しない。頭の中に入れているのだろう。今日は、書き留める必要があると判断したということだ。
会議は一時間を超えた。話が進むにつれて、エイドリアンの質問はより深い部分に入ってきた。リディアも、単に答えるだけでなく、逆に問い返すことが増えた。財務省の内部でこの施策の優先順位はどの程度か、実施までのタイムラインはどう考えているか。エイドリアンはそれにも真摯に答えた。
彼が答えるとき、言葉を選ぶための間がある。その間の長さが、考えている深さに比例していると、リディアは途中で気がついた。早口で流暢に答える人間の方が信用ならないことを、交渉の場で何度も経験してきた。エイドリアンの間は、誠実さの間だ。
こういう人と話したことがあるだろうか、とリディアは思った。仕事の場で、対等に、互いの考えを突き合わせるように話す相手。マルクスとの三年間で、そういう瞬間は一度もなかった。父も、そういう話し方はしなかった。エイドリアンとの会議室での一時間が、リディアには新しい種類の体験だった。
帰り際、エイドリアンは少し珍しい素振りで言った。
「また意見を聞かせてもらえますか。正式な協議という形でなくても」
「構いません」
「では、来月また来ます」
それが始まりだった。
エイドリアンは月に一度か二度、商会を訪れるようになった。最初は施策への意見聴取という名目だったが、次第にその名目が薄れ、ただ仕事の話をするための時間になっていった。
リディアはその時間が嫌いではなかった。いや、正直に言えば、その時間が一ヶ月の中でもっとも頭がよく働く時間だと感じていた。エイドリアンは相槌を打ちながら話半分に聞くタイプではない。こちらの言葉の端まで真剣に受け取り、考えてから応じる。そういう相手と話すのは、思っていたより心地よかった。
ある日の帰りに、エイドリアンが「食事でもどうですか」と言った。
唐突だったが、リディアは一拍置いて「はい」と答えた。断る理由がなかった。
二人で入った食堂は、商業区の路地裏にある静かな店だった。エイドリアンが選んだ。特別に高いわけでも安いわけでもない、ただ料理がよく素材の味がわかる店だった。
食事の間、仕事の話と、それ以外の話が半々だった。エイドリアンは昔、地方の小さな町の出身だと言った。財務省に入ったのは数字に向き合うのが性に合っていたから、と、それだけ言った。それ以上のことは話さず、しかしその二文だけで、彼がどういう人間かがわかる気がした。
リディアは、伯爵家の話はしなかった。今いる場所の話をした。
「仕事が自分のものだという感覚が、初めてわかった気がします」
エイドリアンは少し間を置いた。
「最初からそう思っているものだと、思っていました」
「そうではなかった人間もいます」
それきり、その話は終わった。でも、エイドリアンはその後も何も聞かなかった。聞かなかったことで、何かを察していることだけが伝わった。
食事を終えて店を出たとき、夜の商業区は灯りで明るかった。エイドリアンが「また来月」と言った。
リディアはうなずいた。いつもより少し、返事が早かった。




