第六章 出会い
エイドリアン・ケスラーが初めてクラリスの商会に現れたのは、リディアが移ってきて三ヶ月目のことだった。
財務省の監査官が来る、とクラリスが前日に告げた。「例年の定期監査よ、でも今年は担当者が変わったから少し念入りになるかもしれない。あなたの仕事が役に立つわ」と言って、準備を頼んだ。
リディアは二日かけて、商会の年度財務書類を整理した。誤差があれば訂正し、根拠となる書類を順番に揃えた。監査官が疑問に思いそうな点には、事前に補足説明を添えた。どういう目線で書類を読むかを予測して資料を組む作業は、リディアが得意とするものだった。相手の立場に立って考え、何を確認したいかを先読みする。それは交渉でも文書作成でも変わらない、彼女の基本姿勢だった。
当日、監査官が来た。
エイドリアン・ケスラーは、リディアが想像していたよりずっと静かな人だった。銀縁の眼鏡をかけた、三十歳前後の男性。挨拶は短く、表情に愛想はない。しかし目が、鋭かった。書類を手に取った瞬間から、その目が変わる。読んでいるというより、解析している、という感じだ。
財務省の中でも監査部門は特に厳格な人間が集まると聞いていた。感情に引きずられず、数字の事実だけを見る。エイドリアンはその典型のように見えた。着ているものは地味で実用的、持ち物も最低限。飾るものが何もなかった。
リディアは同席して、質問があれば答える役割を担っていた。
最初の質問が来たのは、十分後だった。
「この第三四半期の仕入れ計上と、翌月の支払い記録に差異がありますが」
リディアはすでに答えを用意していた。
「はい、それはこちらの補足資料をご覧ください。取引先との合意で支払いサイクルが変更された月で、その旨の覚書がこちらです」
エイドリアンは覚書を受け取り、素早く読んだ。一度だけうなずいた。
その後も質問はいくつか来た。リディアはすべてに対して、準備した資料を出すか、その場で計算して根拠を示した。エイドリアンは余計なことを言わなかった。確認が取れた項目には短い言葉で承認し、次へ移る。それだけだった。
昼をはさんで、監査は四時間続いた。途中、食事の休憩を挟んだが、その間もエイドリアンはほとんど無言だった。書類を整理し、メモを書き、また次の書類を手に取る。リディアは邪魔をしなかった。必要なときだけ補足して、後は静かにしていた。
時折、エイドリアンが書類のある箇所をじっと見つめて動かなくなる。その集中の様子を、リディアは横目で観察した。仕事をしているとき、彼の表情は完全に閉じている。外からの情報を遮断して、書類の中の情報だけを処理している、という感じだ。リディアは数字と向き合うとき、自分も似たような状態になると知っていた。珍しいと思った。人と向き合うより、数字と向き合う方が自然な人間が、こんな形で目の前にいる。
終わった後、エイドリアンはクラリスに向かって「問題はありません」と告げた。
それだけで帰りかけた彼が、ふと立ち止まった。クラリスではなく、リディアの方を向いた。
「書類の整理が、丁寧でした」
それだけ言って、出ていった。
クラリスが笑った。「ケスラー監査官がそんなことを言うのは珍しいわよ」
リディアはその言葉の意味をよく理解できなかったが、監査官の最後の目が、今まで自分に向けられた視線と違う種類のものだったことは、なんとなくわかった。ただ眺めるのでも、値踏みするのでもない。仕事を、見ていた目だ。
一ヶ月後、エイドリアンが再び商会を訪れた。今度は監査ではなく、財務省が主導する商業統計調査の依頼だった。王都内の主要商会に対して、過去五年の取引記録のまとめを提出するよう求めるもので、クラリスの商会にも協力を求めてきた。
担当者として現れたのが、またエイドリアンだった。
リディアが出てきたとき、エイドリアンはわずかに目を細めた。覚えていた、ということだけがわかる。
「先日の資料作成を担当された方ですね」
「はい、リディア・ハーウィンと申します」
「ケスラーです。今日は統計調査の書式についてご説明します」
書式の説明は簡潔で正確だった。リディアはメモを取りながら聞き、二点ほど質問した。いずれも書式の設計の意図に関わるものだったが、エイドリアンは少し間を置いてから丁寧に答えた。
「それは、歳入分析の際に商会ごとの業種を横断比較するためです」
「であれば、こちらの欄は大分類と小分類に分けた方が分析の精度が上がると思いますが」
また、少し間があった。
「……そうですね」とエイドリアンは言った。「その意見は、書式の改訂案として持ち帰ります」
クラリスが後で「あなた、財務省の監査官に意見したの」と言ったとき、リディアは「事実として正しいと思ったので」と答えた。
クラリスはまた笑った。




