第五章 新生活
リディアが最初の朝を迎えたのは、王都の第三区にある細い路地沿いの建物だった。
部屋は四階建て建物の三階で、窓からは隣の建物の壁しか見えなかった。屋敷の自室と比べたら、五分の一もない広さだ。それでも、リディアはその小ささに安堵した。自分一人が使う空間の、正確な広さがわかるというのは、不思議と落ち着く感覚があった。
荷物を解いて、机を窓際に寄せた。棚に帳面と筆記用具を並べた。それだけで部屋が整った気がした。屋敷の部屋では、物が多すぎてどこに何があるかわからなくなることがあった。ここは全部が見渡せる。
翌日からクラリスの商会に通い始めた。
商会の事務所は王都の商業区にあった。クラリスの部下たちは最初、リディアを訝しげに見た。良家の令嬢が突然業務委託で現れたことへの、暗黙の疑問がある。リディアはその視線を気にしなかった。仕事で答えを出せばいい、と思っていた。
初日、リディアは事務所の机を一つ借りた。窓際の小さな机で、光の入り具合が良かった。自分の道具を並べると、それだけでそこが自分の場所に思えた。不思議なことだと思った。屋敷の立派な書斎より、この借り物の机の方が、よほど座り心地が良かった。
最初の一週間で任されたのは、半年分の未整理の帳簿だった。前任の担当者が体調を崩して以来、誰も手をつけられないでいたものだ。リディアは一日かけて全体を把握し、三日がかりで整理し、五日目に分析レポートを添えてクラリスの机に置いた。
「早すぎる」とクラリスは言った。
「ミスがあれば直します」
「ないわ。早すぎると言っているの」
二週目には、取引先との交渉補助を任された。リディアは事前に相手商会の財務状況を調べ、交渉で有利になる論点を三つ用意した。交渉の席では発言しなかったが、クラリスが想定外の条件を提示されたとき、素早く手書きのメモを渡した。クラリスはそれを一瞥して、的確に切り返した。
交渉が終わった後、クラリスが言った。
「三ヶ月待たなくていいわ。来月から正式な給与制にしましょう」
リディアはわずかに目を細めた。それだけが、感情の表れだった。胸の中に何かが広がったが、それを言葉にする必要はなかった。自分の仕事が、数字として正当に評価された。それが初めて起きた瞬間だった。
新しい生活は質素だった。食事は近所の市場で材料を買い、自分で作った。外食をするときは安い食堂を選んだ。衣装は最低限のものだけ残して、あとは折りたたんで押し入れに。屋敷にいたときのドレスは、そもそも持ち出していない。
けれど、以前の生活より豊かだと感じるものがあった。
夜、仕事を終えて部屋に戻ったとき、疲れはあっても、澱みはなかった。今日自分がやったことは、自分のためだ。誰かの功績のための踏み台でも、誰かの飾りでもない。その感覚が、夕食のわずかな料理を、屋敷の豪華な晩餐より満足のいくものにした。
市場で買った野菜と少しの肉で作ったスープを、部屋の小さなテーブルで一人で食べる。音のない夜だ。屋敷には常に誰かの気配があった。使用人の足音、父の書斎から聞こえる鴉の羽音のような書類のめくれる音、セリーナが廊下で誰かと笑う声。それがなくなったことを、最初は少し寂しいかもしれないと思っていた。しかし実際には、静けさは心地よかった。自分のペースで考え、自分のペースで動く。その自由の重みを、リディアは今初めて、体で理解していた。
ある夜、クラリスが仕事の後に「お茶でも」と誘った。事務所の隅のソファに並んで座り、クラリスが言った。
「あなた、前は伯爵家の方ね」
「はい。でも今は違います」
「婚約者がいたと聞いたけど」
「解消しました」
クラリスは少し間を置いた。
「聞かないわよ、理由は。でも一つだけ言わせて。あなた、ここに来て生き生きしてる」
リディアは答えなかった。けれど否定もしなかった。
クラリスはそれ以上何も言わず、お茶を飲んだ。リディアも飲んだ。二人の沈黙は、気まずいものではなかった。
窓の外、王都の夜が広がっていた。ここには彼女を知る人間が少ない。飾り物として見る目もない。数字と文書だけが語りかけてくる、静かで公平な世界があった。




