第四章 準備と離脱
リディアが動き始めてから、四十二日が経った。
その間、彼女の表面上の生活は何も変わらなかった。毎朝早く起きて帳簿を整理し、マルクスの仕事の書類を仕上げ、父の書斎で領地の文書に目を通した。夕食の席では最低限の会話をして、部屋に戻った。誰の目にも、何も変わっていないように見えたはずだ。
けれどリディアの内側では、着々と準備が進んでいた。
最初に動いたのは、自分の資産の整理だ。手元の貯蓄を、別の金融機関に分散して預け直した。ハーウィン家の家名とは切り離した、純粋に個人名義の口座を三つ作った。使用人の伝手を借りて、家族に知られることなく手続きを済ませた。
次に、仕事の目処をつけた。商会のクラリスに連絡を取ったのは、三週間前のことだ。
クラリス・ヴォートは五十代の女性実業家で、王都の中でも最も目が利く商人のひとりとして知られていた。リディアとは父の紹介で知り合い、以来数年にわたって帳簿の整理や取引文書の作成で力を借りることがあった。クラリスはそのたびに「あなたはほんとうに仕事が丁寧ね」と言ってくれた。社交辞令だと思っていた言葉が、今は違う意味を持って聞こえる。
クラリスは若い頃、商家の娘として生まれ、親の反対を押し切って自分の商会を立ち上げたと聞いていた。今では王都で最も信頼される商会のひとつを率いている。自分で切り開いてきた人だ。リディアが独立を相談する相手として彼女を選んだのは、その経歴を知っていたからでもある。
クラリスの事務所を訪ねたのは、平日の午後、マルクスの書類仕事の合間を縫った時間だった。
「実は、独立を考えています」とリディアが切り出したとき、クラリスは眉一つ動かさなかった。
「そう。で、何ができるの」
「帳簿の整理、財務分析、取引文書の作成と交渉補助。それから、議会や行政府への陳情書の草稿作成も経験があります」
「給与の希望は」
「最初の三ヶ月は仕事の実績を見ていただいて、その後交渉させてください」
クラリスはしばらく黙っていた。リディアは静かに待った。相手の沈黙を埋めようとする癖を、リディアは持っていなかった。数字は待つ。事実は待つ。自分も待つことができる。
「うちで雇うわけじゃなくて、業務委託という形でいい?」
「はい、それで構いません」
「一ヶ月、試してみましょう。気に入らなければ、そこで終わり」
「ありがとうございます」
その日の帰り道、リディアは王都の地図を持って歩いた。屋敷を出た後の住まいの目処も、すでにつけてある。セリーナの元同級生が、小さな部屋の又貸しを探していると聞いていた。家具付きで、家賃は手持ちの資産から一年分は楽に出せる。
残る問題は、出ていくタイミングだ。
波風を立てたくなかった。怒鳴り合いも、懇願も、説明も必要ない。ただ静かに、いなくなりたかった。
出発の日を、リディアは月末に設定した。月初の帳簿締めが終わった後なら、ハーウィン家の財務に穴は開かない。次の担当者が困らない程度の引き継ぎ書も、すでに作り始めていた。自分がいなくなった後の混乱を最小限にする配慮は、職業的な矜持として最後まで手を抜けなかった。
マルクスへの手紙は、一度書いて破り捨てた。二度目は短くまとめた。婚約の解消を申し出ること、理由の詳細は述べないこと、決意は固いということ。封をして、出発の朝に机の上に置いていくつもりだった。
父への手紙は、もう少し長くなった。今後の財務管理について具体的な指示を書き、信頼できる代理の書記官の名前も入れた。心配しないでほしいとは書かなかった。心配されるとは、あまり思っていなかった。
前日の夜、リディアは自分の部屋をゆっくり見回した。七年間使ってきた机。帳簿が積み重なっていた棚。窓の外に見える屋敷の庭。何かに執着する気持ちはなかった。ここで培ったものは、すべて自分の中にある。それを持って出ていく。
帳面を最後にもう一度開いた。計画の全項目を確認する。資産の移転は完了。住まいの契約は済み。仕事の目処もある。引き継ぎ書も完成した。誰かに迷惑をかける要素は、できる限り排除した。自分が立つ場所を整えて、出ていく準備が整っている。
帳面を閉じて、引き出しにしまった。明日持っていく荷物の中には入れない。これはここに残す。七年間の記録の一部として、この部屋に置いていく。
翌朝、夜明け前に目が覚めた。
リディアはいつも通りに起き上がり、着替え、荷物をまとめた。机の上に二通の手紙を置いた。使用人が誰も起きていない時間に、玄関を出た。
振り返らなかった。




