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境界線の商人  作者: カミツキ
四章 銀貨争奪船

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第89話 岸に残るもの

 王都へ向かった舟は、もう見えなかった。


 対岸の道には、横倒しになった舟が折り重なっている。薄れていく土煙の下で、土色の水が草地へ広がっている。リールは旗の列があった場所を見ていたが、海岸へ向かって進むものはなかった。


 隣では、イサリがまだ海へ手を向けていた。リールは口元を袖で拭い、コレットの手を離した。背後では、港の男たちが互いの肩を叩き合い、座り込んでいた若者が弾かれたように立ち上がって坂の下へ大きく手を振っている。やがて下から名前を呼ぶ声が返ってくると、辺りにようやく人のざわめきが戻り始めた。


「皆さん、足元に気をつけて下りてくださいね。港はまだ潮待ちですから、宿舎でお待ちください」


 上がってきたメリオシーが道を空けて人々を通すと、その後ろから杖を持ったシェイムが顔を出した。それに気づいたテオがリールの隣を離れ、彼女のところへ歩み寄る。


「シェイム。あのよ」


 テオは肩の鞄を前へ寄せ、口を広げた。花石鹸の小箱が縁まで上がってきたが、シェイムは彼の肩越しに対岸を見ていた。


「……あれ、テオさんたちが作っていた舟ですよね」


 テオの手が止まった。


「……ああ」


 シェイムは額へ手をかざした。波の砕ける白さの向こうで、折れた板が水に運ばれていた。倒れた舟の間にも、人影は見つからなかった。


「じゃあ、あそこにいた人たちは……」


 テオは対岸へ顔を戻した。しばらく兵の列があった道を見ていたが、シェイムに向き直ると、口元を歪めた。


「……分からねえ」


 シェイムが杖を身体へ引き寄せると、袖口から出た指が柄へ食い込んだ。


「私、また、調査に……」


 息を吸い直しても、その先が続かなかった。頬へ落ちた涙を袖で拭い、テオを見上げた。


「もっと、いろんなところへ行けると思って……」


 テオは鞄から手を抜きかけた。シェイムの顔がくしゃりと歪み、杖にすがるように俯いた。


「こんなの、私が目指していた冒険者じゃないです……」


 鞄から出てきたテオの手には、何もなかった。その手を彼女の肩に添え、うつむいた顔を覗き込むと、両腕で抱き寄せた。


「すまん」


 シェイムの杖が、彼の脚の脇へ傾いた。杖を持たない手がテオの上着をつかみ、肩が大きく震えた。テオはその背に手を置いたまま、それ以上は何も言わなかった。シェイムが身体を離しかけると、顔を上げる前にまた嗚咽が漏れた。彼女はテオの胸へ顔を伏せ、上着を握り直した。鞄の紐が肩からずれ、テオの腕に引っ掛かっても、彼はシェイムから手を離さなかった。


 リールは二人の方へ踏み出しかけ、そっと足を止めた。


 この先にも、調査に行ける海岸はある。魔法も、もう少しで形を保てるようになる。そう話せば、シェイムは明日も杖を持って、あの空き地へ出てこられるのかしら。答えは出ないまま、リールはただ立ち尽くすことしかできなかった。


 彼女の泣き声が小さくなると、テオはその背を撫でた。しかし、シェイムが顔を上げることはなく、彼も腕をほどかなかった。


 コレットがそばへ寄り、声を落とした。


「リールさん。先に下で待ってよう」


 リールは、シェイムを抱きとめるテオの横顔を見つめた。彼はこちらに気づくと、シェイムを抱いたまま、小さく顎を引いた。リールはコレットと坂を下りた。少し離れても、シェイムの泣き声は風の間から届いていた。


 宿舎の前では、若手たちが運び出してあった道具を中へ戻していた。入口のそばに鋸を置いた少年が、リールを見つけて立ち上がった。


「テオさんは、まだ上ですか」

「ええ。あとから下りてくるわ」

「明日の稽古、いつもどおりでいいんですか」


 柱の脇には、木剣(ぼっけん)が何本も立て掛けてあった。海藻の籠を運び始めた頃、剣を使う仕事がしたいと話していた少年だった。


「……テオに確かめてから、伝えるわ」

「分かりました。待ってます」


 少年は鋸を抱え直し、奥の道具置き場へ入っていった。リールは空いた戸口に立ち、寝台の並ぶ部屋まで続く廊下を静かに見渡した。窓の下には、誰かが洗って干した上着が揺れていた。


 食卓の端では、コレットが道具屋の男へ紙を渡していた。


「こっちは無事だと、それだけでも知らせたくてね」

「船が出せるようになったら、アタシも港で聞いてくるよ」


 男は礼を言い、家族へ宛てた手紙を書き始めた。コレットは邪魔にならないところへ椀を置き、リールのところへ戻ってきた。


「お茶、もらってくる。シェイムにも飲んでもらおう」

「お願い」


 坂の上から足音が近づいてきた。


 やがて姿を見せたテオは、シェイムの肩を支えながら下りてきた。彼女の目元は赤い。リールがそばへ寄ると、シェイムは頬を袖で拭いながら頭を下げた。


「すみません……」

「謝らなくていいのよ。中で少し座りましょう」


 コレットが椅子を引くと、シェイムは杖を壁へ立て掛け、腰を下ろした。テオも隣に座り、彼女が両手で茶碗を持つまで、その背から手を離さなかった。


 リールが戸口へ戻ると、テオもあとから外へ出てきた。中からは、道具を片づける若者たちの声が聞こえていた。


「明日の稽古は、いつもどおりかって聞かれたわ」

「……そっか」


 テオは力なく視線を落とし、柱の脇にある木剣を見つめた。


「もっと大きな仕事を受けられるようにしたかったんだよ。あいつらが覚えて、俺たちも一緒に行ける場所が増えてさ」


 リールも目を伏せがちに、少年が入っていった廊下へ視線を向けた。舟を作る間、この子たちへ渡す給金を用意し、働いた日の夕方に手渡していた。板を運び、釘を打ってもらった舟が、王国の兵の列へ突っ込んでいった。


「また人を呼んで、仕事を任せて……その人たちも、こんな戦いに関わることになるのかしら」

「けど、あいつらにはここがあるんだぞ。荷物も、寝床も。仕事へ出たら、ここへ帰ってくるつもりでいる」

「私も、一緒に続けたいのよ」


 テオはすぐには返さなかった。二人の間を潮風が抜け、戸口に残っていた木屑を廊下へ吹き込んだ。奥から戻ってきた少年が、柱の脇の木剣を抱えた。テオに気づくと、その前で足を止めた。


 テオは戸の向こうのシェイムに目をやってから、小さく息を吐いて少年を見た。


「明日の稽古な。休みにする。……俺も、ちょっと休む」

「分かりました。みんなにも伝えてきます」


 少年が奥の部屋へ戻り、仲間に明日の休みを伝える声が響く。それを聞き届けてから、テオは長く息を吐いた。食卓から彼の名を呼ぶ声がした。シェイムが茶碗を置き、戸口に立つ彼を見ていた。


「もう少しだけ、そばにいてもらえますか」

「おう」


 テオは部屋の中へ歩みを進め、彼女の隣の椅子を引いた。鞄を足元へ置いて腰を下ろすと、静かにシェイムの方へ身体を向ける。リールも戸口を離れて食卓へ近づき、向かいへ椅子を寄せた。気配を感じて、シェイムが顔を上げる。


「明日は、休んでいていいのよ」

 シェイムは唇を結び、頷いた。テオが隣で椅子を寄せると、その袖へと手を伸ばす。リールは椅子に腰を下ろし、コレットが置いてくれた茶碗を両手で包んだ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

第89話「岸に残るもの」をもって、第四章は完結です。


第四章と同じ頃、この世界の別の場所で起きていた出来事を、魔法学校の教師視点から描いた作品もあります。

『人でなし魔法教師エレア 〜国家公認の研究者は、今日も生徒で人体実験をする〜』

こちらもあわせてお楽しみいただけたら嬉しいです。


『境界線の商人』の続きを読みたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価が今後の執筆の励みになります。

次章も、リールたちの物語にお付き合いください。

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