第88話 渡し舟
イサリは対岸から顔を戻し、浜へ続く坂を指した。
「船出だ。岸の綱を外してきな。済んだら全員、ここへ上がれ」
リールはテオと坂を駆け下りた。宿舎の前で木槌を抱えた若者とすれ違うと、テオが足を止めずに呼びかけた。
「道具を置いたら、浜の連中も呼んでこい。下に残るなよ」
坂の下では、メリオシーが港の男たちを呼び集めていた。リールがイサリの言葉を伝えると、彼女は桟橋へ向かう道を示した。
「港の出入りを止めてください。沖の舟にも、こちらへ寄せないようお伝えくださいね。今は、イサリさんに潮路を譲りましょう」
男たちが走り出すと、メリオシーは浜へ戻ろうとする人々にも声をかけ、坂の上へ向かわせた。
「テオ。向こう側をお願い」
「おう」
リールは波打ち際へ膝をつき、自分で締めた結び目を緩めた。杭から外した綱が指を滑り、先端が浅い海へ落ちていった。
舟は岸から少し離れたところで止まった。隣の舟も綱が外れ、波に押し戻されることなく、その横に浮かんでいた。
「リールさん。こっちは終わったよ」
コレットが浜の端から駆け寄ってきた。テオも若者たちを連れて戻り、舟の間に人がいないか確かめていた。
リールは立ち上がり、コレットと一緒に坂へ向かった。宿舎の前ではシェイムが戸を開け、上がってきた人たちを中へ通していた。食堂の夫婦も鍋を抱えてそこへ入り、道具屋の男が最後の若者を待って戸口を空けた。
その脇を抜けて高台へ戻ると、イサリは高台の端に立っていた。海を隔てた陸地では、旗の列がまだ海岸へ下っている。リールは息を整えながら隣へ進んだ。
「外しました。浜にも、誰も残っていません」
「おう。潮を返すぞ」
イサリが海へ片手を向けると、浜沿いに浮かんでいた舟の下を、白い筋が走った。
舳先が一斉に対岸へ向き、舟と舟の間が開いていく。海面の細い泡の筋が幅を広げ、木の舟が群れになって岸を離れた。リールは足元の草を踏みしめ、下の入り江を見た。
帆もなく、縁には誰の姿もない。舟が水面から押し上げられ、白く盛り上がった流れに乗って進んでいた。
「……あんな速さで」
あっという間に、舟が小さくなっていった。先頭が波を越えて跳ね、そのあとへ続く舟も、白い水を蹴立てて海面を駆けていく。引き波がぶつかるたび、別々だった白い筋が重なり、対岸へ長く伸びた。
リールの隣へ、コレットとテオも来ていた。背後では坂を上がってきた人たちの話し声が途切れ、下の海から響く音ばかりが大きくなっていた。
先頭の舟が岸へ近づいた。白い流れが砂浜へ乗り上げ、舳先を持ち上げる。
その先は、陸よ。
舟底が砂に触れても速さは落ちず、白い帯は草地まで這い上がっていった。先頭の舟がその上を滑り、丘の裾へ向かう。あとに続く舟も海岸を越え、兵の列へ扇のように広がった。
「なんだよあれ……バケモンじゃねぇか」
テオの声を聞きながら、リールは旗の列へ顔を向けた。前方の列が道の両側へ広がり始めていた。
兵の列へ近づいた先頭の舟の下で、水が崩れた。白い帯が地面へ落ち、その上を走っていた舟が、土の上へ投げ出された。
「術を消す堰まで築いてきたか」
イサリの声に、リールは振り返った。伸ばされた腕は下がっていない。それなのに、後ろから来る流れも、軍の手前に達すると崩れていた。
舟底が地面を擦り、土が跳ね上がった。リールは唇を噛み、先頭の舟を追った。
届いて。
舳先は地面を削りながら進み、旗の下へ突っ込んだ。
揃っていた列が道の両側へばらけ、巻き上がる土に隠れた。舳先が跳ね上がり、横倒しになった舟のあとから、板のようなものが幾つも飛んだ。次の舟がそこへ重なり、さらに別の舟が、道に残っていた旗を土煙の中へ押し込んだ。
「流れを断っても、木の舟まで消せるかよ」
イサリは海へ手を向けたままだった。後ろから来る舟を押し上げていた波も、同じところで崩れた。それでも舟は地面を滑り、兵の列へ次々と突入した。進んでいた後続の列も止まり、道に沿って続いていた旗が、いくつもの場所で見えなくなった。
海の向こうから、低い響きが届いた。人の声は聞こえなかった。
リールは額へ手をかざした。倒れた舟の間へ土色の水が広がり、砕けた板が流れていった。
対岸へ向かう白い筋は、まだ何本も残っていた。舟が岸を越すたび、列の残っているところへ土煙が上がる。海岸へ下りてきていた旗は、もう前へ進んでいなかった。
「止まった……」
背後で、若者の声がした。
「こっちへ来られねえぞ」
その声に重なって、誰かが大きく息を吐いた。リールも肩の力を抜き、坂の下へ振り返った。港の倉庫も、新しい店の屋根も、そのまま陽を受けていた。宿舎の戸口にはメリオシーの白い衣が見え、その隣でシェイムがこちらを見上げていた。
リールは吸い込んだ息を、今度はゆっくり吐き出した。
「これなら、手紙も出せるかな」
コレットの声に振り返ると、彼女は宿舎の戸口を見ていた。道具屋の男が外へ出てきて、対岸を指す人々の輪へ加わっていった。
隣のテオが、土煙の中へ消える舟を指した。
「……あれ、俺たちが作った舟だぞ」
リールは対岸へ顔を戻した。土煙から離れた黒い影が、水に追われるように草地を横切っていた。
「分かってる。でも、こっちへ来ないって思ったら……」
「……俺もだよ。来ねえって、喜んじまった」
テオは舟を指していた手を下ろした。リールも、草地を横切る影を見失うまで、対岸を見ていた。
指を握り込むと、綱に擦れた掌が痛んだ。あの商館の扉に触れたときにも、指先に木のささくれが引っ掛かった。机に明日の注文票を残し、朝になればまたコレットと仕事を始める。あの椅子へ戻って、そんな日を取り返すつもりだった。
対岸では、自分たちの作った舟の下に、王国の旗が消えていた。自分で綱を解き、そこへ届いてほしいと願った。
もう、あの店には帰れない。
「……また、あそこで仕事をしたかったのよ」
声の終わりが震えた。コレットがリールの袖をつかむと、堪えていた涙が頬へ落ちた。
空いた手で拭い、坂の下へ顔を戻した。新しい店の屋根が滲んでいた。あの兵を止めなければ、今度はここで、店から人が追い出されていた。コレットも、シェイムも、また逃げなければならなかった。
もう一度あの浜へ戻れても、舟を繋いだままにしておくことはできない。
預かった金を奪って、兵まで寄越したのは、そちらでしょう。どうして私が、あの店を諦めなきゃいけないの。
頬を拭っても涙が止まらず、リールは顔を上げられなかった。袖をつかむコレットの手が、離れずにいた。
海の向こうで、また土煙が上がった。
兵の列があった道を抜け、まだ形を残した舟が、その向こうの草地へ滑り出ていた。そこまで来ると、後ろから白い流れが追いつき、ふたたび舟底を押し上げた。あの道の手前では崩れていた波が、今は舟を乗せたまま、丘の裾へ伸びていた。
砕けた板も水に巻かれ、そのあとを追った。丘を回っても、舟は速度を落とさず、内陸へと進んでいく。
リールはイサリの方へ身体を向けた。海へ突き出された手は、まだ下がっていない。
「まだ、進ませるんですか」
「ここで終いじゃねえ。王都まで遡るぞ」
汗で張りついていた服が、背中で冷たくなった。リールは袖をつかんでいたコレットの手を握ったが、何も言えなかった。
最後に岸を越えた舟の影が、丘の向こうへ消えていった。海から伸びた白い帯だけが、陸の奥へと続いていた。




