第8話 手から手へ
ガラン食堂に三つ葉の札を掛けて四日目。
昼の鐘が鳴る前、リールが店へ着くと、入口には十三人が並んでいた。工房の者だけではない。
お椀をよそうのはすぐなのに、名前を探すたびに列が止まる。似た綴りが並ぶところでは、ガランの手が紙の上からなかなか動かない。
これでは、人が増えるほど遅くなる。
列の最後に、見覚えのない少女が加わった。
「兄さんの分を受け取りに来ました」
差し出した小さな紙には、近くの荷運び場で働く兄の名と、今日は仕事を離れられないので妹へ渡してほしいという一文があった。
「これが本当に兄さんの字だとしても、あとから本人が来ないとは限らん」
「来ません。昼のあいだは荷車から離れられないので」
「俺はあんたの兄さんを知らない。二人に一食ずつ渡したあとで、間違いでしたじゃ戻せんぞ」
少女の後ろでは、仕事着の男たちがお椀を持ったまま待っている。兄の名ならある。代金も受け取っている。
問題は一つだけ。この少女へ渡していいのかが分からない。
そういえば、兄は昨日、妹が受け取りに来るかもしれないと言っていた。
「今日は私が確認します。この方へ一食渡してください」
今日はいい。けれど、次も本人の話を覚えているとは限らない。
ガランがお椀を渡すと、列が動き始めた。
昼食を終えたあと、リールは湊を商館へ呼び、少女が持ってきた小さな紙を見せた。
「あなたのいた場所では、名前を一人ずつ確かめていたの?」
「食堂なら、食券を使うところがありました」
「しょっけん?」
「先にお金を払うと、券を一枚もらえるんです。食べるときは、その券を渡して、店が回収します」
「本人でなくても?」
「券を持っていれば使えます。家族へ渡す人もいました」
ちょっと、待って。
先に銅貨を渡して、代わりに券を持つ。本人でなくても、持っている人が使える。
それってつまり、商会の中だけで使えるお金にもできるんじゃない?
……いいえ、違うわ。今は一食と交換する券の話よ。
それでも、そんな券を食堂で当たり前に使っていたというの? 湊の故郷は、いったいどうなっているの。
「食べられなくなった日は?」
「普通は、そのまま残ります」
「では、仕事が変わった人は、食べられない日の分まで払ったままになるのね」
「商館で名前を確かめて返せば――」
「本人が来られないから、妹へ渡す方法を探しているの」
湊は少女が持ってきた小さな紙と、食事を申し込んだ者の名前が並ぶ帳簿を見比べた。
「同じ券だと分かれば、紙でなくてもいいと思います」
リールは、石鹸に三つ葉を押す木印を取り出す。
「なら、一食を一枚にするわ」
* * *
翌朝、オルメイが切り揃えた木片が、商館の取引台へ積まれた。同じ大きさの木片には、三つ葉が刻まれていた。
少女の兄が銅貨一枚を置くと、リールは木札を一枚渡した。
「これを妹さんへ渡してください。食事を受け取るときは、名前ではなく、この札を渡します」
「俺が使わなくてもいいのか?」
「誰が持ってきても、一枚につき一食です。食事に使わないなら、商館へ戻せば銅貨一枚を返します」
「銅貨にも戻すんですか」
湊の声が一段高くなった。
「仕事が変わって、昼に食べられなくなる人もいるでしょう」
「でも、名前を確かめないなら、買った本人じゃなくても銅貨に戻せますよね」
「食べるときは誰でもいいのに、返すときだけ本人か確かめるの?」
湊は答えず、兄が受け取った木札を見た。
「妹が落としたらどうなる?」
「拾った方が使えます。札の持ち主までは確かめません」
兄は木札を、そばで待っていた妹へ渡した。
その日の昼、少女が木札を差し出すと、ガランは何も尋ねずお椀を渡した。後ろの者も札を箱へ落としていく。
昨日まで紙の上で止まっていたガランの手が、今日は止まらない。
昼の営業が終わると、ガランは箱に入った木札を商館へ持ち込んだ。リールは十三枚を数え、同じ数の銅貨を渡した。
「使った人の名前は、もう書かないんですか」
精算を見ていた湊が、空になった箱を覗いた。
「戻っていない札と同じ数だけ、銅貨を残しておけばいいわ」
「でも、妹さんに渡した札を、途中で別の人へ渡すこともできます」
「その人が食べても、一食は一食でしょう」
「食券も、そうですけど……」
翌日の午前、仕事先が変わって昼は食堂へ行けなくなったという男が、木札を商館へ戻した。
リールは名前を尋ねず、木札と引き換えに銅貨一枚を渡した。
その日の昼、リールがガラン食堂へ行くと、別の男が仕事仲間へ木札を渡した。
「昨日、荷を代わってもらった礼だ。俺は家から飯を持ってきた」
受け取った男は、その札をガランの箱へ入れた。別の女は、店先へ来た息子へ自分の木札を渡した。
名前を探すたび止まっていた列が、今日は止まらない。
* * *
木札を使い始めて五日目の朝、メルドとシェナが商館を訪れた。監察局の銀印を示すと、シェナが三つ葉の木札を取引台へ置いた。
「これを銅貨へ戻してください」
「昼食はご利用にならないのですか」
「その予定はありません」
リールは札と引き換えに、預かり金の袋から銅貨一枚を渡した。
「この札は、誰へ渡したものですか」
「分かりません。出した数は記録していますが、誰が持っているかは記録していません」
「シェナも、リール商会へ銅貨を預けていません」
「札を持ってきた方へ返す決まりです」
「では、シェナがどこで受け取ったかも、返金には関係しないのですね」
「ええ。正しい札なら」
シェナが隣から続けた。
「朝市の野菜売りから受け取りました。店主も、客が代金として置いていった札だと話しています」
メルドは帳簿の脇の木札を指す。
「この木札一枚につき、銅貨一枚を残していますか」
「はい」
「外に出ている札が、すべて同時に戻ってきても?」
「返せます。預かった銅貨は、食事か返金に使うまで分けてあります」
シェナは預かり金の袋と帳簿を照らし合わせた。
「帳簿の残数と、袋の銅貨は一致しています」
「では、問題はありませんか」
「金額には問題ありません」
横で聞いていた湊が、返された木札を取る。
「俺が話したのは、食事を受け取る券です」
「ええ。食事にも使えるわ」
「でも、これ、野菜を買うのに使われてるんですよね」
湊の声が少し強くなった。
「持っている人が、食事より青菜を選んだのでしょう。そのあと誰が持ってきても、約束した銅貨は返しているわ」
一食分と交換する札だったはずだ。
それが青菜に替わり、別の手へ渡って、最後にはまた銅貨へ戻ってきた。商会の中だけで使えるお金どころじゃない。もう、朝市まで出て、手から手へ回っている。
メルドは湊の手の木札を指す。
「なぜ、昼食の札が、市場の釣り銭になっているのですか」




