第7話 消さなかった看板
工房へ昼飯が届くようになって三日目の朝、ガランは店先の看板を外した。
廃業するつもりではない。昼の仕込みをやめ、夜だけ店を開ければ、豆も肉も薪も減らせる。
昨日の鍋には八人分近く残っており、今日も同じ量を作れば捨てるために煮込むことになる。
長く雨に晒されてきた看板には、ガラン食堂の文字だけが濃く残っていた。
壁へ立てかけたところで、通りの向かいからリールと湊が来る。
湊は閉じた扉と看板を交互に見た。
「すみません。工房の昼食を、商館で出すのをやめれば――」
「ついこの前まで昼を抜いてた連中を、また抜かせるのか」
湊が黙った。
「元へ戻す話ではありません。台所を見せてください」
「店じゃなくてか」
「今の商館では、これ以上の食事を作れません」
ガランは扉を開け、二人を中へ通した。
客のいないテーブルを抜けた先には、洗って伏せたお椀と、朝から火を入れていない炉がある。鍋の残りでも見るのかと思えば、リールが聞いてきたのは昨日売れた数だ。
「二食だ。前の日は三食。その前は七食。そのうち四食は、向かいの工房の連中だ」
「昨日の残りは?」
「八食分ほどだ。夜に少し出したが、まだ鍋に残ってる」
「一日に使う豆と肉、薪の量は分かりますか」
「毎日仕入れてきた。分からない店主に見えるか?」
ガランは帳面を出した。
「明日から、工房の八人分を作ってください」
「客を奪っておいて、今度はうちを雇うのか」
「あなたを雇うのではありません。八人分の食事を、毎日この店から買います」
この女は自分で何を言っているのかわかっているのか。
「商館で作った方が安いんだろ」
「場所が足りません。あなたには炉も鍋も、必要な分を作れる手もある。私には、明日食べる人数が分かります。来る人数が分かったうえで、必要な分だけ作る取引です」
リールは手のひらに収まる木の札をテーブルへ置いた。一つの茎から分かれた三つ葉が彫られている。
「毎朝、食事を頼んだ人の名前と数を届けます。工房の八食分は、商会が必ず買います」
「昨日みたいに残ることはないわけか」
「豆と肉は、商会でまとめて買ったものを仕入れ値のまま分けます。八食すべての代金が入るなら、銅貨一枚でも残るはずです」
八人分作れば、八人分売れる。昨日みたいに鍋を残すこともない。
「食べに来なくても払うんだな」
「ええ。八食分までは、食べに来なくても商会が払います。九食目からは、実際に出した分だけです」
「そこまで決めて、俺が変えられるものは何だ」
「工房以外の客へ出す料理と値段です。それから、この取引を続けるかどうか」
ガランはテーブルの三つ葉を指した。
「この札も条件か」
「工房の昼食を受け取れる店だと示す印です。入口へ掛けてください」
「三つ葉の店になるなら、ガラン食堂の看板は要らないだろ」
「消す必要はありません。三つ葉は店の名前ではなく、ここで食事を受け取れる印です」
店の中から持ち出されるものはなかった。
三つ葉を掛けても、ガラン食堂の文字は消えない。それでも契約を断れば、明日も空いたテーブルと残った鍋を見ることになる。
「断れば、明日も客が来ないだけか」
「その可能性は高いです」
「正直な商人だな」
「違う数を申し上げても、明日の客は増えません」
ガランは契約書に名前を書いた。
壁に立てかけていた看板を入口の上へ戻し、その下へ三つ葉の札を掛ける。
元の看板の方が何倍も大きいのに、通りから先に目に入るのは、彫ったばかりの木の白さだ。
「これで、店を続けられますね」
湊の声に、ガランは札の紐を結び直した。
何もわかっていない。続けられるのは、三つ葉が客を連れてくる間だけだ。
* * *
翌日の昼の鐘が鳴ると、工房から八人が通りを渡ってきた。
リールは入口に近いテーブルへ座った。食事より、紙と売上箱の方が気になるらしい。
ガランは届いた紙で名前を確かめながら、豆と肉の煮込みをよそう。
八人目の湊にお椀を渡すと、鍋の底には一人分にもならない豆が残っただけだった。
昨日は、ここに八食分近く残っていた。
八人が食べ始めたところで、濃い灰色の上着を着た男と若い女が入ってきた。見覚えのない二人だ。
男が銅貨四枚をテーブルへ置くと、ガランは三つ葉の昼食とは別に仕込んだ鍋から二人分をよそい、硬貨を自分の売上箱へ入れた。
食べ終えた二人が王国監察局の銀印を見せた。
「契約どおりですね」
隣の男がガランへ向き直った。
「メルドです。今のところ、この店をリール商会の所有物と扱う理由はありません」
なんだ、飯を食いに来たんじゃなかったのか。
「面倒な食い方をする客だな」
「次に来るときは、献立だけで選びます」
二人が出ていくのと入れ替わりに、近くの工房で働く男が三つ葉の札を指した。
「銅貨一枚で食える店って、ここか」
「いや。銅貨一枚の方は、紙に名前がある人だけだ。銅貨二枚なら今までの飯を出す」
「今日はいい。銅貨一枚にするには、どこで名前を書けばいいんだ?」
「商館です。前日に食事代を預けてください」
リールが答えると、男はそのまま商館へ向かった。その後ろから来た二人も、古い看板には目を上げず、三つ葉を見て同じことを尋ねた。
最初の男には、ここはガラン食堂だと言い直した。二人目には入口の上の看板を示した。
なのに、誰もその看板を見て入ってこない。
三人目が、ここが三つ葉の店かと尋ねたとき、もう店の名を言い直さなかった。




