第86話 待っていた波
翌日の昼前、リールが家の食卓で茶を飲んでいると、テオが小箱を持って向かいに座った。
「なあ。昨日のことなんだけどよ」
「お茶の感想を伝えたら? そのあとで、あなたからも渡せばいいでしょう」
「その、あとでってのが……。また言えなくなりそうなんだよ」
「だったら、先に箱を出せばいいのよ」
「それで、今日も少しだけ付き合ってくれねえか」
「私がいたら、渡せるの?」
「……いねえよりは」
戸が続けざまに叩かれ、チコの声がした。リールが玄関へ向かうと、頬に髪を貼り付けたチコは肩で息をしていた。リールの顔を見るなり、声を詰まらせた。
「王国が、この島に兵を出すって」
リールは戸を押さえていた手を離し、チコを中へ入れた。テオが箱を鞄へしまい、食卓の椅子を引いたが、チコは立ったまま鞄から折り畳んだ紙を出した。
「これ、役所に出た布告。ノノちゃんと写したんだよ。リールさんを捕らえるために、軍を集めるって」
「捕らえる……?」
「木札を持った人たちが、ギルドに押し寄せて、扉まで壊されちゃって。兵が入ってきたら、外でも石を投げる人が出てさ。通りの店も荒らされて、大変なんだよ」
差し出された紙には、木札によって民を惑わせ、騒乱を招いた者として、リールの名が記されていた。潜伏先とされたブエスビタス島の名もある。その下には、動員する兵の数が記されていた。
「五万……」
「もう兵を集め始めてるって。港でも、軍の船へ積む荷を揃えてた」
背後から紙を覗き込んでいたテオが、リールの肩越しに声を上げた。
「五万って、こっちに何人いると思ってんだよ」
預かった金を取り上げておいて、返せなくなったら私を捕らえる?
紙を押さえた指の下で、自分の名前が半分隠れた。
「メリオシーに伝えないと」
リールは紙を握り、テオの方へ向き直った。
「コレットを呼んで、一緒に来て。イサリさんにも、すぐに会いたいと伝えてもらえる?」
「ああ」
戸口へ向かったテオの鞄が、腰で小さく跳ねた。箱の入った鞄を押さえながら出ていく背中を見送り、リールはチコを連れて家を出た。
* * *
メリオシーが布告の写しを読み終えるまで、リールは卓の向こうで待っていた。追いついてきたコレットとテオが隣に立っても、紙に書かれていた数が頭から離れなかった。
若手たちが荷を運ぶ港も、コレットが案内してくれた店も、その兵を迎えることになる。窓を開けたばかりの家へ、家族を呼ぼうとしている人がいる。
「私が王国へ戻ります」
コレットが、リールの腕を掴んだ。
「戻るって……捕まえに来るんでしょ?」
「ここへ来られる前に、私が出ていけばいい。私一人のために、島の人たちまで」
「リールさん」
メリオシーは布告をそっと卓へ置いた。
「ようやく寄る瀬を見つけたのですもの。追手に押されて、また荒波へ出ていくことはありませんよ」
「でも、五万ですよ。ここにいる人たちで、どうやって」
「アンタ一人を沈めりゃ、あとは凪か」
卓の脇にいたイサリが、布告に載っていた島の名を指した。
「アンタを口実に、島ごと押さえる気なんだろ。アンタを渡したあとで、素直に引き揚げると思うか」
リールは紙の上へ視線を落とした。潜伏先とされた島の名が、自分の名前と並んでいた。
「それに、ブーケのお嬢から請けた護衛だ。守る相手を水底へ送って、仕事を済ませた顔ができるかよ」
腕を掴んでいたコレットの指に力が入る。
あの椅子へ戻りたかった。こんなふうに、兵に連れていかれるためではなかったのに。
「王国には、上陸を認めないと返事を出します」
メリオシーは布告を引き寄せた。
「噂ばかりが溢れる前に、島の皆さんにも私からお話ししましょう。リールさんも、お一人で渦中へ戻ろうとなさらないでくださいね」
イサリは卓から離れ、窓を押し開けた。港へ入ってくる船の帆が見え、その手前の水面を、小舟が横切っていた。
「この時を待ってたんだよ。アタシから逆巻けば、島を潰す口実をくれてやるだけだからな」
「……待っていたんですか」
「おう。向こうから兵を寄越すってんなら、もう遠慮は要らねえ」
窓の外から、人を呼ぶ船員の声が届いた。港では、まだいつもどおりに荷が運ばれている。リールは自分の腕に重なったコレットの手を見てから、イサリへ尋ねた。
「勝てる策があるんですね」
「ある。向こうはまだ、こっちの底を知らねえ」
リールは腕を掴んでいた手を包み、コレットへ告げた。
「……今は、ここにいるわ」
コレットは握っていた手を緩めたが、指先はまだリールの袖に触れていた。
「イサリさん。力を貸してください」
窓際まで進むと、イサリが振り返った。
「そのために、舟が要る。何隻もな」
「舟を、今からですか」
「帆も舵も要らねえ。水に浮く舟を、並べられるだけ作ってくれ。大工どもと話をしてきてほしい」
リールは窓の下に続く道を見た。店の普請へ向かう荷車が、材木を積んで通っていく。
「大工さんと相談してきます。うちの人たちにも、手伝ってもらえるか聞いてみます」
「材木と、舟を作る場所はこちらで用意しましょう」
メリオシーも席を立ち、リールたちと一緒に部屋を出た。
* * *
午後、リールが港の倉庫から浜へ戻ると、道具屋の男が、店に使うはずだった材木を下ろしていた。
「店はあとで構いません。家族を呼ぶ場所を、先に守ってください」
「ありがとうございます」
男は材木を下ろす若者のところへ戻った。砂へ描かれた舟の形に沿って、先に届いた板が並べられていた。
大工が底板へ印を入れるそばで、コレットの合図に合わせて、空の荷車が次の一台に場所を譲った。店の柱を立てていた若者たちが、今は舟の底板を抱え、浜へ下りてくる。
リールは給金を約束した若者たちの名を帳簿へ書き入れた。帳簿を閉じると、脇にいたイサリが浜の先へ歩き出した。
波が退いたばかりの砂へ、イサリの足跡が刻まれた。リールが隣へ並ぶと、イサリは沖の帆を眺めた。
「青濤会の力を、見せてやろうじゃねえか」




