第85話 風待ちの舟
島へ戻って数日後、リールは貝細工の店の奥で、花石鹸を収めた木箱に蓋をした。開けた窓から潮風が入り、作業台に残った薄い削り屑が、布の端へ吹き寄せられた。
「もう一つは、こっちだよ」
貝細工の女が差し出した小箱には、外側まで花びらを開いた一輪が収まっていた。リールは窓辺へ持ち上げ、薄く削られた縁まで眺めた。緑がかった花びらの重なる奥に、淡い影ができていた。
「ありがとうございます。こちらも、今日渡せます」
表からテオの呼ぶ声がして、リールは小箱を閉じた。女に商人へ渡す木箱を預け、店の前へ出ると、テオが軒先に立っていた。
「できたって?」
「ええ。待たせたわね」
小箱を受け取ったテオは、蓋を開けたまま、花びらへ指を近づけかけて引っ込めた。
「……欠けねえよな、これ」
「箱に入れて持っていけば大丈夫よ」
代金を受け取ったリールが鞄の口を閉じても、テオは小箱を持ったまま、店先を離れようとしなかった。
「シェイムには、今日渡すの?」
「そのつもりなんだけどよ……。こういうのって、どう渡せばいいんだ」
通りを行く人に聞かれたくないのか、テオはリールの方へ半歩寄り、声を落とした。
「いつも通り話してて、急にこれを出すんだろ。変じゃねえか」
「お礼だって言って渡せばいいじゃない」
「それくらい分かってる。けど、あいつと二人で話すと、だいたい魔法か、次に行く場所の話になるんだよ」
「だったら、そのあとで渡せば?」
「宿舎の連中の前じゃ、渡せねえだろ。あいつまでからかわれそうだしよ」
「家に帰ってくるところを待ったら? シェイムと、二人で話せるでしょう」
テオは小箱を鞄へしまい、海岸通りの先を見た。坂を下りてきた荷車を避けると、リールも隣へ寄った。
「……なぁ、少しだけ付き合ってくれねえか」
「はぁ? 私がいたら、二人で話せないでしょう」
「近くにいてくれりゃいいんだ。見てるだけで、頼む!」
テオは両手を合わせて下を向いたまま、それ以上、リールと目を合わせようとはしなかった。
「分かったわよ。でも、私の方ばかり見ないでよ」
「見ねえって」
「で? シェイムは、どこにいるの?」
「宿舎の前で魔法の練習してる。そろそろ帰ってくる頃だ」
リールは貝細工店の中へ声をかけ、テオと一緒に宿舎へ向かった。
港へ続く通りでは、魚を焼く匂いが漂い始めていた。家の手前まで来ると、テオは脇の路地を指し、リールへ声を落とした。
「この辺で、頼む」
リールが角の陰へ入ると、テオは一人で戸口へ向かった。壁際からは、家の入口と、坂から続く道が見えた。テオは戸口の脇に立ち、箱の角が浮いた上着の裾を引っ張っていた。
ほどなく、杖を持ったシェイムが角を曲がってきた。肩に掛けた鞄を揺らしながら歩いていたが、戸口のテオに気づくと、足を速めた。
「テオさん。先に帰っていらしたんですね」
「おう。ちょっと、いいか」
シェイムは戸口へ伸ばしかけた手を戻し、テオの前に立った。テオが鞄へ手を伸ばしたので、リールは壁の陰からそっと顔を出した。
「あのよ。さっきも、練習してたんだよな」
「はい。もう少し形を保てそうだったので、続けてみたんです」
「どうだった?」
「まだ、途中で崩れてしまいます。でも、前より長くできました」
「そっか」
声は路地までよく聞こえた。テオは鞄に触れていた手を離し、シェイムの杖を指した。
「最近精霊の形も、前より崩れなくなったよな」
「分かりますか?」
「見りゃ分かるって。最初は脚ができる前に消えてたけど、この前は、四本ともちゃんとあったじゃねえか」
「自分では、すぐ消えてしまったと思ってたんですけど」
「前は、そこまでいかなかっただろ。できたところは覚えとけよ。次はもうちょい長く保てばいいんだ」
シェイムは杖を胸元へ引き寄せ、テオへ笑いかけた。
「テオさんにそう言ってもらえるの、嬉しいです」
「お、おう」
テオが頭の後ろへ手を回すと、シェイムは鞄を身体の前へ引き寄せた。
「あ、そうだ」
シェイムは鞄から小包を取り出し、テオへ差し出した。
「これ、この間マトリカリアに行ったときに買ったんです。新作の調香茶なんですけど、よかったら飲んでみてください」
テオは差し出された小包とシェイムの顔を見比べ、片手で受け取った。
「オランの実と蜂蜜草が入ってて、甘い香りがしておいしいですよ」
「あ、ありがとよ……。あのよぉ、俺も……」
テオの空いた手が、鞄へ入った。
リールは壁に添えた手へ力を込めた。シェイムはテオの顔を見上げながら首を傾げ、次の言葉を待っていた。
今よ。そのまま出せばいいの。
テオは何も取り出さずに、鞄から手を抜いた。
「いや。特訓、頑張れよ」
「はい。また、見てもらえますか?」
「おう。見てやるよ」
「ありがとうございます」
シェイムは戸口へ戻り、扉を開けた。中へ入る前にもう一度テオへ笑いかけ、夕日の届く通りから家の中へ消えた。
扉が閉まると、テオは小包を持ったまま、路地へ戻ってきた。リールの前で立ち止まり、鞄から小箱を取り出した。片手には調香茶、もう片方には花石鹸を持っていた。
「……甲斐性なし」




