第82話 名前より先に
営業の許可が届いてから三日後、リールは馬車でフェオリスへ戻った。ルミナ聖堂へ向かう荷車とすれ違うと御者が道の端へ馬を寄せる。荷台では包帯を巻いた男が隣の者に支えられ、車輪が石畳の窪みを越えるたびに顔をしかめていた。
テオたち六人も、朝から搬送の仕事に出ていた。リールは馬車を降りると、石鹸の手掛かりを求めて、以前の仕入れ先だった解体屋へ向かった。
裏口の方からは水を流す音が聞こえ始めると、近づくにつれて獣脂の臭いが濃くなる。中を覗くと、イベリーが作業台で脂を取り分けていた。
「イベリー」
包丁を動かしていたイベリーはこちらを振り向き、前掛けで手を拭いながら戸口へ出てきた。
「リールさん? 帰っていらしたんですか」
「仕事でね。顔を見たくて寄ったの」
「どこにいらっしゃるか分からなくて……。コレットさんも、ご一緒なんですか?」
「コレットはブエスビタス島に残っているわ。今は、そこで商売をしているの」
イベリーの頬が緩むのを見て、リールも笑い返した。
「お二人とも、お元気なんですね。よかった」
「あなたもね。少し、話せる?」
「はい。これを片づけたら、お昼なので」
イベリーが洗った道具を壁へ掛ける間、リールは入口の脇に並ぶ桶の蓋に目を留めた。縁には白い脂がこびりついている。
「その脂、工房へ持っていく分?」
「そのつもりだったんですけど、今は受け取れないって。ヴェール大聖堂のことがあってから、工房も止まっているんです」
イベリーは桶を奥へ寄せ、リールの通る場所を空けた。
「私も、それでこっちを手伝っています。次にいつ作り始めるかは、まだ知らせがなくて……。これ以上残しても仕方ないので、父が、明日からは石鹸用に取り分けるのをやめようって」
「そう……」
「前は捨てていたものなんですけどね。売れるようになってからは、使えるところを残して、桶も増やしたので」
裏の作業場から、獣を下ろす男たちの声がした。イベリーはそちらへ返事をしてから、濡れた手を布で拭いた。
「リールさん、マトリカリアに行きませんか。あのお店、あれからすごく人気になったんですよ」
「ええ。今度こそ、甘いお茶を選びたいわ」
イベリーの口元が緩んだ。
「覚えてたんですね」
* * *
店の扉を開けると、薬草の香りと菓子の甘い匂いが鼻をくすぐった。店内は若い客の談笑で満ちていたが、店を一人で切り盛りする店員は、目を回さんばかりの慌ただしさで立ち働いている。リールは棚の茶葉を眺めて甘みのあるものを店員に頼むと、イベリーと空いていた窓際の席についた。
「島では、どんな商売をなさってるんですか?」
「冒険者を雇って、護衛や荷運びの仕事を受けているの。テオも一緒よ。王国内でも、その仕事だけは認められたわ」
「じゃあ、お仕事が終わったら、また島へ?」
「ええ。でも、石鹸を手配できないまま帰りたくないの」
店員が二人の前に杯を置いた。イベリーは礼を返し、リールの方へ身を寄せた。
「石鹸も、また作っていらっしゃるんですか?」
「島の海藻を混ぜて、花の形にして売っているの」
「花に? 石鹸を削るんですか?」
「ええ」
イベリーは両手で小さな丸みを作り、指先を開いてみせた。
「見てみたいです。洗うと、花びらから減っていくんでしょうか」
「そうでしょうね。使うのが惜しいって、テオも話していたわ」
杯を持ち上げると、湯気がリールの頬に触れた。口に含んだ茶には、以前選んだものより柔らかな甘みがあった。
「それも、今は注文を待ってもらっているの」
「こっちは、脂が余っているのに」
イベリーは杯を包んだまま、自分の指を見下ろしていた。水仕事で赤くなった指の節が、杯の白さに浮いて見えた。灰汁の濃さも、火を止めるときも、工房では彼女の判断を頼りにしていた。初めは人に教えることを怖がっていたけれど、鍋の前を離れずに働いてくれた。
リールは杯を皿へ戻し、窓の向こうに見える石鹸工房の屋根を見た。
炉も、水場も、鍋も、あそこにある。
仕事を選ぶために、国内の窓口と宿舎は諦めた。工房についても、商会の看板を戻すことまで一度に求めなくていい。名前が違っても、あそこで作った石鹸を島へ送ってもらえるなら、注文に応えられる。製造の再開を認めさせるために、出せる条件はまだあるはずだ。
石鹸に出した金が戻らないと、レヴィンも話していた。まだ回収したい金があるのなら、止まった工房をどうするか、話を持ちかける余地はあるかしら。
「イベリー。もし、工房を取り戻せたら、今度はあなたに預けたいの」
イベリーは杯から手を離し、椅子に座り直した。
「私が、工房を? 材料の具合や、石鹸の仕上がりなら見れます。でも、売り先を決めることまでとなると……」
「任せたいのは製造の方よ。工房の作業を取りまとめてもらいたいの。売り先と支払いは、私が見るわ」
「それなら、前の工房にいた人たちにも聞いてみたいです。今も連絡を取れる人がいますから」
「ええ。ただ、まずは工房の返還と、製造を再開する許可を取りたい。工房には別の名前を付けて、うちの商会の傘下に置く形で、交渉するつもりよ」
「また、あそこで作りたいです。今朝も、今日は工房へ脂を持っていく日だって思ってしまって。止まっているのは分かってるんですけど、そういうの、なかなか変わらないんですね」
「……そうね」
解体屋へ来る途中にも、商館へ続く通りに足が向きかけた。コレットと次の支払いを確かめるつもりで戻っていた頃の道順が、まだ身体に残っている。
「すぐに返事をもらえるかも分からないから、脂を残しておいてとは頼めないわ」
「父には、まだ決まった話ではないと伝えます。再開できることになったら、材料の用意は私から頼みますね」
「お願いするわ」
イベリーは、ようやく杯を持ち上げた。
「今度のお茶は、甘いですね」
「ええ。次も、これを頼みましょう」
リールも杯を取り、残っていた茶を口へ運んだ。
* * *
王都へ戻ったリールは、冒険者ギルド本部の受付で、工房の返還と製造再開について面会を願う手紙を差し出した。隣では、搬送先の返事を届けに来た使いが、別の職員を待っていた。
「面会の日程が決まりましたら、お知らせします。今は、いつ時間を取れるか、こちらでも分かりませんので」
「お願いします。しばらくは、引き受けた搬送の仕事で滞在しています」
リールは滞在先の宿を伝え、手紙を預けると拳を強く握った。
第二回戦を始めましょう、レヴィン。




