第78話 隣の席
チコを見送ってから三日ほど経った朝、リールは港の坂の上に建てた宿舎を訪れた。仕事の予定を伝え終えて戸口へ出ると、前の空き地でシェイムがテオに魔法を教わっていた。坂の下から荷下ろしの掛け声が届く中、リールは戸口の脇に足を止めた。
シェイムの杖の先から吹いた風が、リールの頬を撫でた。春の陽だまりのような温かい風だった。杖の前に、枝分かれした角を持つ獣のような姿が浮かび上がった。透き通った胴の向こうで景色が陽炎のように揺らいで見えたが、細い四本の脚が形を整えかけたところで輪郭がふっとほどけた。風が収まると、シェイムは膝から崩れ落ちた。
テオが手を差し伸べると、シェイムは顔を上げ、強張っていた口元を緩めた。その手を握りしめ、まだ震える脚で立ち上がった。リールが二人をほほえましく眺めていると、坂を上がってきたコレットが戸口へ近づいてきた。
「リールさん。お客さん、家で待ってるよ」
リールはコレットと一緒に坂を下りた。
* * *
家の食卓で待っていたのは、肩の張った中年の男だった。リールが向かいへ座ると、コレットも隣へ椅子を寄せ、帳簿を開いた。
「フェオリスで、釘や刃物を売っています。チコさんに、お二人がこちらにいると聞きまして。この島で、店を開けないかと思って来たんです」
男は膝に載せていた帽子を握った。
「商業ギルドの前に、木札を持った人が集まってるんです。兵が押し戻しても、また来る。通りを塞がれて、荷車も入れられない。店を閉めて様子を見ていましたが、いつまで続くか」
リールは、男の指の間で帽子の縁が折れ曲がっていくのを見ていた。
チコさんも、その人たちのところへ戻ったのね。
コレットは男の店で扱う品を帳簿に書き留めた。
「こちらへ移っても、品物の仕入れは続けられるんですかぁ?」
「港へ荷を出す商人とは、前から取引があります。こちらなら舟の修理にも道具を使うでしょう。家族も呼んで、商売を続けたいんです。ただ、店を借りようにも、港には空きがなくて」
「ほかの方も、場所を探してるんですかぁ?」
「布を売ってる知り合いと、食堂をやってる夫婦も、一緒に来ています。店が見つかるなら移りたいと言っています」
島へ来た若者たちの荷袋で、家の戸口が塞がれた日のことを思い出した。今度は、商人の店と家族の住まいが要る。リールはコレットから帳簿を受け取り、商会の残金を確かめた。
「うちで建物を用意して、毎月、家賃をいただく形ではどうでしょう。店の上で寝泊まりできれば、ご家族も一緒に暮らせます」
「建ててもらえるんですか」
「借りられる場所を、島主に相談します。夕方、もう一度来ていただけますか」
* * *
リールはコレットと一緒にメリオシーを訪ねた。イサリにも来てもらい、四人が揃ったところで、店を建てるための場所を借りたいと相談した。メリオシーとイサリに案内されて港から続く道を下りると、白い砂の先に浅い入り江が広がっていた。繋いである小舟の下まで砂底が透け、漁師が桟橋へ籠を上げている。イサリは入り江の奥を示した。
「西の洞窟にゃ魔物が出る。腰を落ち着けに来た連中を、荒波に放り込むこたぁねえだろ。こっちにしな」
桟橋から籠を運んでくる漁師のために、メリオシーは道を空け、リールたちを浜側へ招いた。
「ええ。新しい暮らしの船出ですもの。この先を使っていただきましょう。舟の出入りするところだけは、空けておいてくださいね」
メリオシーが示した浜沿いを歩き、リールは桟橋の手前で足を止めた。杭の間を小魚が抜け、板の隙間から差す光が砂底に細い線を落としていた。リールは桟橋を支える杭を指し、メリオシーの方を向いた。
「この桟橋のように、杭を打って床板を張れないでしょうか。その上に、店と住まいを建てたいんです」
コレットは目を丸くし、桟橋の先に広がる水面とリールの顔を見比べた。
「海の上に?」
「ええ。浜から板の通路を延ばして、それぞれの店へ歩いて入れるようにするの。舟を寄せられる場所もあれば、品物を運び込めるでしょう」
軒先から、今見えている砂底を眺められる。食堂の席も海へ向けられたら、船を待つ間に食事をする人が来るかもしれない。
「漁の舟とぶつからねえようにしろよ。水際を塞ぐ店なら、アタシが止めるぜ」
「大工さんにも、ここを見てもらいます。まずは、借りる方が決まった店から建てたいんです」
「では、浜から通す道も、一緒に決めましょう。お店が増えても、今ある暮らしの流れは大切にしたいですもの」
浜と浅瀬を借りる話をメリオシーとまとめると、リールは隣のコレットの方を向いた。
「ここの商売、あなたに任せたいの」
「アタシに? 家賃と支払いを見るだけじゃなくて?」
「借りたい人と話して、いくらで、どんな店を貸すか決めるところからよ。建てるために出せる金額は、先に二人で決めましょう」
「……アタシが、決めていいんだ」
「帰り荷を紹介していた頃、自分で気づきたいって言っていたでしょう」
「覚えてたんだ、あの話」
「ええ。テオたちを雇うときも、何人までなら給金と食費を払えるか、あなたが計算してくれたわ。宿舎を建てるときには、材料代を出して給金が払えなくならないか、気にしてくれたでしょう」
コレットの目元が赤くなり、言いかけた言葉を一度呑み込んだ。
「あなたが決めた条件で、商会として引き受けるわ」
「……そんなとこまで、見ててくれたんだ」
声が揺れ、コレットは袖で目元を押さえた。リールは続きを急がずに待ち、袖を下ろしたコレットと視線を交わした。
「アタシ、やるよ。リール商会に泥塗らないように、ちゃんとやる」
「ハッ。殊勝なこと言うじゃねえかい。なら、任された舵はしっかり握ってな」
「分かってるよ、姐さん」
コレットは桟橋の方を向き、籠を抱えてすれ違う漁師たちの足元を、眉を寄せて見つめた。
「先に、大工さんを呼ぼう。店の前まで荷車を入れられるかも、聞かないとね」
* * *
宿舎を建てた大工に浜を見てもらい、夕方には、店の見取り図と見積もりが食卓に載った。リールはコレットと、商会から建築に回す金を決め、戻ってきた道具屋の男を迎えた。
男の向かいにはコレットが座り、リールは隣で大工の見積もりを開いた。コレットが見取り図を男へ向けた。
「下が店で、上がご家族の部屋です。家賃は合わせて、月に銀貨四十枚。最初の三か月分を先にいただければ、うちの商会から出す金と合わせて、建て始められます」
「その三か月は、今日から数えるんですか」
「三か月は、お店をお渡しした日から数えますよぉ。工事中の分まで、いただいたりしません」
「いつ、入れます?」
「ひと月後には入れますよ。大工さんとも、そう約束してますから」
男は引き渡しの日を書いた紙を脇へ寄せ、見取り図の一階部分を見直した。
「ここへ棚を置くと、大きな道具を奥まで運べないな。通り道を広くできませんか」
コレットが見取り図に筆を走らせると、リールは伸ばしかけた手を戻した。
「棚をこちらで用意するのはどうですかぁ? 壁に沿って棚を作れば、真ん中を広く空けられますよ」
「それなら、奥まで使えるか。棚の分は、こちらで払います」
男は腰の財布を外した。
「お願いします。家族にも、移る場所が決まったと知らせたい」
銀貨百二十枚を受け取ると、コレットは棚を頼むため、男が運び込む道具を書き留めた。リールが隣の椅子で大工へ渡す材木代を取り分ける間に、コレットはリール商会の名で受取書を男へ渡した。
「ほかの方にも、明日ここへ来てもらっていいですか」
「いいですよぉ。どんなお店にしたいか、聞かせてくださいね」
コレットの返事を聞きながら、リールは材木代を入れた袋の口を結んだ。




