第77話 戻らない硬貨
船から下ろされた木箱で港の通りが狭くなり、リールは荷車が抜けるのを待っていた。貝細工の店へ戻ろうとしたところで名を呼ばれ、振り返ると、花石鹸を仕入れた商人が通りを渡ってきた。その後ろから、猫耳を持つ褐色肌の女がついてくる。
「チコさん?」
「ほんとにいたじゃん。探したんだよ、リールさん」
商業ギルドで何度も聞いた声だった。リールが近づくと、チコは肩からずり落ちかけていた鞄を抱え直した。
「どうして、ここが分かったの?」
「この人がギルドで花の石鹸を見せてくれたんだよ。底に三つ葉があったから仕入れ先を聞いたら、リール商会だって言うじゃん。それで、連れてきてもらったの」
隣にいた商人が港の倉庫を示した。
「こちらの方がお探しでしたので。私は先に、預けてある荷を受け取ってきます」
「ありがとうございます。私たちは家に戻ります」
リールは商人を見送り、チコを家へと案内した。木箱を積んだ荷車が二人を追い越し、チコの上着の裾を通りの埃が撫でていった。
「船、慣れなくてさ。着いてからも、足元が揺れてる感じ」
「家で休んでいって。お茶を淹れるわ」
家の戸を開けると、食卓で給金を受け取った若者が立ち上がり、二人に道を空けた。その向こうから、コレットの声がした。
「チコさん? フェオリスから来たの?」
「うん。二人とも、無事でよかった」
若者が礼を言って出ていくと、コレットは食卓の帳簿を閉じ、チコへ椅子を勧めた。チコは鞄を椅子の脇へ置き、腰を下ろした。
「ここが、今の商館?」
「借りている家よ。石鹸は、港の貝細工の店の奥を借りて作ってるの」
リールが湯を注ぐと、チコは椀を両手で包んだ。すぐには口をつけず、湯気の向こうから食卓の端の給金袋を見ていた。
「また商売してるって聞いてさ。少し安心したよ」
「こんなところまで、どうしたの?」
チコは椀を置き、鞄から小さな布袋を取り出した。食卓に出した木札には三つ葉があり、縁は指を切る心配もないほど丸く磨り減っていた。
「今、木札を持ってきた人に銅貨を返せなくてさ。リールさんが王都に追い出されたって話が広まってから、札を受け取らない店が増えたんだよね。使えないから銅貨に換えてほしいって、毎日窓口に来るんだよ」
リールは木札を手に取った。三つ葉の溝には黒い汚れが詰まり、表も裏も、切り揃えたばかりの頃の白さは残っていない。
換金用の銅貨も商会の資金として没収され、今は島で得た稼ぎで商売を続けていることを、リールはチコに話した。
「……そっか。ギルドからも、持っていった金を返してって言ったんだよ。そしたら、もう別の事業に使ったってさ」
コレットの声が尖った。
「人の金を使っておいて、それで終わり?」
「それが、返せって言っても出さないんだよね。ガランさんも、もう木札を受け取るのをやめたよ。肉屋には銅貨を払わなきゃいけないから、これ以上は受け取れないって」
古い看板を掛け直し、その下に三つ葉を掲げたガランの姿が浮かんだ。リールが毎日の昼食を頼みに行った日のことだった。
「窓口じゃ埒が明かないって、王都まで行った人もいるんだよ。アタシもついていったんだけどさ」
リールは手にしていた木札を食卓へ戻した。
「それで、何て言われたの?」
「前のお触れがあるでしょ。木札は認めてないし、価値も保証してないから、払い戻しはしないってさ」
商館で換金を受け付けていた頃は、袋から銅貨を出して渡せば済んだ。今、商業ギルドの窓口には、どれだけの人が札を握ったまま待っているのだろう。
「保証してくれなんて、頼んでないでしょう。持っていった銅貨を返せばいいのに」
「ほんと、それだよ。窓口には同じ人が何度も来るんだよね。明日なら返せるかって聞かれても、分かんないじゃん。返せないって言うと札を持ったまま動かないし、次の人を呼んでもどいてくれないの。……リールさんの方で、換金に使うお金を何とか用意できないかな」
食卓の端には、ほかの若者へ渡す給金の袋が残っていた。コレットが朝から用意していたもので、その向こうには、次の護衛先へ送る返事が置いてある。
次の狩りも頼まれている。その金が入る頃には、また給金を払う日が来る。
「換金に使うお金を、こちらで用意することはできません。今の稼ぎは、雇っている人たちの給金や、引き受けた仕事の支払いに必要なんです」
「分かるよ。でもさ、帰ったらアタシら、また窓口で返せませんって言うんだよね」
私が何とかすると言えば、あの人たちはまた待つのだろう。全員に返せるだけの銅貨はないのに。
「返せる日も、約束できません。向こうで待っている人にも、そう伝えてください」
「……うん」
チコは食卓の木札を布袋へ戻し、紐を結んだ。
「帰ったら、そのまま話すよ。ノノちゃんたちにも」
来たばかりのときより小さくなった声が、食卓を挟んで届いていた。
「今日は、何か食べた?」
「船でパンを少し……」
「コレット、食事を頼んでもらえる? 帰りの船は、私が港で聞いてくるわ」
「帰りの船はもう聞いてあるよ。ノノちゃんに留守を頼んでるから、あんまり長居できないしさ」
チコは木札の袋を鞄へしまった。食事が届くと、リールはチコの椀へ煮込みをよそって渡した。椀を受け取ったチコは、湯気の立つ汁を匙ですくい、吹き冷ましながら口へ運んだ。
「あったかいの、いいね。船じゃ、汁物は食べられなくてさ」
リールは鍋を食卓に残し、向かいに座ってパンを割った。
* * *
帰りの船が出る朝、リールはチコと桟橋まで歩いた。コレットが包んだパンを渡すと、チコは鞄の口を開け、木札の袋の脇へ収めた。
「これからは、手紙を出せるね。場所、分かったし」
「ええ。届くようにしておくわ」
船員に呼ばれると、チコは肩の鞄を持ち直した。
「じゃあ、戻るね。ノノちゃん、待ってるからさ」
渡し板を上がったチコが船べりまで来て、リールへ一度手を上げた。船が岸を離れると、鞄を抱えて甲板の奥へ入っていった。
船が沖へ出るまで、リールは桟橋で見送った。




