第70話 置いていくもの
商館を出ると、荷車が通りを塞いでいた。リールは鞄を抱え直し、車輪と壁の間を抜けた。背後で入口の鈴が鳴り、次の客を迎える声が聞こえたが、もうコレットの声ではなかった。
昨日まで自分が開けていた扉を、知らない男が開け閉めしている。こちらが出ていったあとも、石鹸は売れる。工房には材料が届き、鍋に火が入るのだろう。代金を払って揃えたものが、何一つ壊れず、あの連中の手元へ残っていた。
いっそ、使えなくなってしまえばいい。
足が止まり、鞄の革紐が肩からずれた。石鹸を粗末にする客には、扱い方を説明してきた。その石鹸も鍋も、今は一つもあいつらに使わせたくなかった。
「リールさん」
先を歩いていたコレットが戻ってきた。膨らんだ包みを抱えたまま、商館の入口を睨んでいる。
「まだ中に何かある?」
「……これだけじゃないのよ」
鞄の口から、畳んだ服の端が出ていた。それを押し込んで鞄を閉じた。
「これだけ持って出れば済むみたいに。私物は取りに来ていいって、あの人……」
昨日のレヴィンの声が、言いかけた言葉に重なった。
「全部、私が買ったものなのに」
最後の言葉が掠れた。鞄を抱えたまま壁に背をつけたが、立っていられず、その場に座り込んだ。
「私が何したって言うのよ!」
声を張り上げると息が詰まり、袖で拭っても涙が止まらなかった。
「返してよ……」
コレットが包みを足元へ置き、リールのそばにしゃがんだ。
「リールさん……」
答えようとしても、息を吸うたび喉が詰まった。背後で入口の鈴が鳴り、また客を迎える声が聞こえた。
イサリが荷車の脇を通り、壁際まで戻ってきた。リールは涙を拭って顔を上げたが、話そうとするとまた声が詰まった。
「イサリさん……この国の外に、行きたいんです」
「ルミナシアへ行けば渡れる。アタシの生まれた町へ出る船もある」
「……連れていってください」
王国の者に、もう一度こちらの物を指して命令されるのも嫌だった。
「なら、引き揚げるぞ」
イサリが差し出した手につかまり、リールはどうにか立ち上がった。コレットが包みを拾うと、イサリは荷車の脇を抜けた。リールは鞄を肩に掛け直し、コレットとそのあとを歩いた。背後の鈴が鳴っても、足を止めなかった。
* * *
ルミナシアへ向かう荷車に乗ったのは、その日の午後だった。空いた荷台へ荷物を載せ、リールはコレットと並んで腰を下ろした。イサリは御者のそばに座り、荷車が門を通り抜けても、誰からも呼び止められなかった。
車輪が石の継ぎ目を越えるたび、鞄が膝から滑りかけた。荷台の縁へ身体を寄せ、革紐を腕に掛け直した。昨日は今日の注文を受け、今日も同じ場所で働くつもりでいた。
鍋を増やした日の代金も、工房を使えるようにするため払った金も、もう返ってこない。それでも、あのとき買わなければよかったとは思えなかった。
どこをやり直せば、持っていかれずに済んだの。
病名の付いた書面を、もう一度思い出した。
ふざけないで。
口に出しかけた言葉を呑むと、喉が痛んだ。膝の鞄を押さえたまま、荷車が揺れるたび、コレットに手を離させた自分まで腹立たしくなった。
* * *
港で船が出るまで待つ間も、リールは宿と船着き場を往復するだけだった。コレットが買ってきた食事を食べ、船の積み込みが始まったと聞けば、鞄を持って部屋を出た。
船着き場では、荷運び人が木箱を肩へ担ぎ、渡り板を上がっていた。リールが荷物を持ったまま渡り板の手前で待っていると、船員と話していたイサリが戻ってきた。
「乗れるぜ。次の荷が上がったら渡れ」
リールは、荷車代と宿代を払って薄くなった財布から、運賃を取り出した。差し出した金が船員の掌へ移ると、男は荷物を置く場所を教え、次の荷運び人へ声をかけた。
これから稼ぐための金まで、出ていくために減っている。商館にはまだ、客が持ってきた銅貨を収める箱があるのに。
船へ乗って鞄を下ろしたところで、コレットが隣へ荷物を置いた。続いて渡ってきたイサリが渡り板を引き上げるのを手伝い、綱を外すよう呼びかける船員の声が聞こえた。
岸に王国の旗が立っていた。風を受けて広がった布が、荷を待つ人々の頭上ではためいている。
リールは船縁まで歩き、離れ始めた岸を見続けた。
あのまま稼ぎ続けるのだろうか。私の物を使って。私を追い出した場所で。
コレットが隣に来た。
「リールさん。座れるとこ、あったよ」
「……あとで行くわ」
船が大きく揺れ、縁へ置いた手に力が入った。岸の旗は、まだ見えていた。
このまま遠ざかれば、あの連中はそれで終わったと思うのかもしれない。
終わってなんかいない。
岸の人影が見分けられなくなっても、リールは船縁から離れなかった。
この国を、許さない。必ず奪い返すわ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第70話をもって、第三章は完結です。
リールがこの先どう動くのか。次章もお付き合いいただけたら嬉しいです。
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引き続き、よろしくお願いいたします。




