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境界線の商人  作者: カミツキ
三章 銀貨開戦

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第70話 置いていくもの

 商館を出ると、荷車が通りを塞いでいた。リールは鞄を抱え直し、車輪と壁の間を抜けた。背後で入口の鈴が鳴り、次の客を迎える声が聞こえたが、もうコレットの声ではなかった。


 昨日まで自分が開けていた扉を、知らない男が開け閉めしている。こちらが出ていったあとも、石鹸は売れる。工房には材料が届き、鍋に火が入るのだろう。代金を払って揃えたものが、何一つ壊れず、あの連中の手元へ残っていた。


 いっそ、使えなくなってしまえばいい。


 足が止まり、鞄の革紐が肩からずれた。石鹸を粗末にする客には、扱い方を説明してきた。その石鹸も鍋も、今は一つもあいつらに使わせたくなかった。


「リールさん」


 先を歩いていたコレットが戻ってきた。膨らんだ包みを抱えたまま、商館の入口を睨んでいる。


「まだ中に何かある?」

「……これだけじゃないのよ」


 鞄の口から、畳んだ服の端が出ていた。それを押し込んで鞄を閉じた。


「これだけ持って出れば済むみたいに。私物は取りに来ていいって、あの人……」


 昨日のレヴィンの声が、言いかけた言葉に重なった。


「全部、私が買ったものなのに」


 最後の言葉が掠れた。鞄を抱えたまま壁に背をつけたが、立っていられず、その場に座り込んだ。


「私が何したって言うのよ!」


 声を張り上げると息が詰まり、袖で拭っても涙が止まらなかった。


「返してよ……」


 コレットが包みを足元へ置き、リールのそばにしゃがんだ。


「リールさん……」


 答えようとしても、息を吸うたび喉が詰まった。背後で入口の鈴が鳴り、また客を迎える声が聞こえた。


 イサリが荷車の脇を通り、壁際まで戻ってきた。リールは涙を拭って顔を上げたが、話そうとするとまた声が詰まった。


「イサリさん……この国の外に、行きたいんです」

「ルミナシアへ行けば渡れる。アタシの生まれた町へ出る船もある」

「……連れていってください」


 王国の者に、もう一度こちらの物を指して命令されるのも嫌だった。


「なら、引き揚げるぞ」


 イサリが差し出した手につかまり、リールはどうにか立ち上がった。コレットが包みを拾うと、イサリは荷車の脇を抜けた。リールは鞄を肩に掛け直し、コレットとそのあとを歩いた。背後の鈴が鳴っても、足を止めなかった。


 * * *


 ルミナシアへ向かう荷車に乗ったのは、その日の午後だった。空いた荷台へ荷物を載せ、リールはコレットと並んで腰を下ろした。イサリは御者のそばに座り、荷車が門を通り抜けても、誰からも呼び止められなかった。


 車輪が石の継ぎ目を越えるたび、鞄が膝から滑りかけた。荷台の縁へ身体を寄せ、革紐を腕に掛け直した。昨日は今日の注文を受け、今日も同じ場所で働くつもりでいた。


 鍋を増やした日の代金も、工房を使えるようにするため払った金も、もう返ってこない。それでも、あのとき買わなければよかったとは思えなかった。


 どこをやり直せば、持っていかれずに済んだの。


 病名の付いた書面を、もう一度思い出した。


 ふざけないで。


 口に出しかけた言葉を呑むと、喉が痛んだ。膝の鞄を押さえたまま、荷車が揺れるたび、コレットに手を離させた自分まで腹立たしくなった。


 * * *


 港で船が出るまで待つ間も、リールは宿と船着き場を往復するだけだった。コレットが買ってきた食事を食べ、船の積み込みが始まったと聞けば、鞄を持って部屋を出た。


 船着き場では、荷運び人が木箱を肩へ担ぎ、渡り板を上がっていた。リールが荷物を持ったまま渡り板の手前で待っていると、船員と話していたイサリが戻ってきた。


「乗れるぜ。次の荷が上がったら渡れ」


 リールは、荷車代と宿代を払って薄くなった財布から、運賃を取り出した。差し出した金が船員の掌へ移ると、男は荷物を置く場所を教え、次の荷運び人へ声をかけた。


 これから稼ぐための金まで、出ていくために減っている。商館にはまだ、客が持ってきた銅貨を収める箱があるのに。


 船へ乗って鞄を下ろしたところで、コレットが隣へ荷物を置いた。続いて渡ってきたイサリが渡り板を引き上げるのを手伝い、綱を外すよう呼びかける船員の声が聞こえた。


 岸に王国の旗が立っていた。風を受けて広がった布が、荷を待つ人々の頭上ではためいている。


 リールは船縁まで歩き、離れ始めた岸を見続けた。


 あのまま稼ぎ続けるのだろうか。私の物を使って。私を追い出した場所で。


 コレットが隣に来た。


「リールさん。座れるとこ、あったよ」

「……あとで行くわ」


 船が大きく揺れ、縁へ置いた手に力が入った。岸の旗は、まだ見えていた。


 このまま遠ざかれば、あの連中はそれで終わったと思うのかもしれない。


 終わってなんかいない。


 岸の人影が見分けられなくなっても、リールは船縁から離れなかった。


 この国を、許さない。必ず奪い返すわ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

第70話をもって、第三章は完結です。


リールがこの先どう動くのか。次章もお付き合いいただけたら嬉しいです。


「続きを読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価等で応援していただけると、執筆の励みになります。

引き続き、よろしくお願いいたします。

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