第57話 誰といるか
翌朝、商館の前に立っていた女は、リールが想像していた侯爵家の護衛とは何一つ合っていなかった。腰に剣を提げ、上着を肩へ引っかけたまま、入口の柱へ片足を預けている。連れてきた男が荷箱を入口脇へ下ろそうとすると、「そこ塞ぐな。客の流れを堰き止めんじゃねえ」と先にどかした。
女が商館へ入ってきたところで、コレットの手から注文票が一枚落ちた。
「……姐さん?」
「おう。随分と潮が巡ったな、コレット」
「なんで姐さんがここにいんだよ!」
「なんでって、仕事だよ」
「青濤会の頭が直々に来る仕事かよ!」
女はそのまま取引台まで来た。
「アンタがリールか」
「はい」
「青濤会のイサリだ。ブーケのお嬢から、しばらくここの水際を預かれって話が来てる」
「……侯爵家の人が来ると思ってたんですけど」
「ハッ。話が濁ってんな。アタシはブーケの人間じゃねえよ」
「コレット、知り合いなの!?」
「知り合いっていうか……昔、世話になってたっていうか……」
「世話してやったな。飯食わせて、仕事教えて、喧嘩の尻拭いまでしてやった」
「余計なことまで言うなよ!」
「見た目は変わっても、本流は昔のまんまか」
「誰のせいだと思ってんだよ!」
入口の鈴が鳴り、若い冒険者が一人入ってきた。コレットはそのまま取引台へ回り込む。
「いらっしゃいませぇ。今日は何をお探しですかぁ?」
「矢を入れる革袋ってあります?」
「ありまぁす。こちらですよぉ」
客が棚の方へ行くと、イサリが鼻で笑った。
「なんだその声。水面だけ随分きれいに取り繕うようになったな」
「うっさいなー、商売なんだよ」
* * *
通りに面したオルメイの工房では、戸口を開けたまま朝の仕事が始まっていた。火床には新しい炭が入り、作業台ではオルメイが金具の縁を削っている。湊は床へ落ちた削り屑を箒で集め、その横ではリグレットが昨日仕上がった弓に、買ってきた矢を一本ずつ合わせていた。
「Fランク君、朝から暗くない?」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「えー。リグちゃん、ご飯付き合ってあげただけなのに」
「そのあとが大変だったんですよ」
「それはシェナちゃんに言ってよ」
箒の先が作業台の脚に当たり、集めかけた削り屑が一本だけ向こうへ残った。
昨日、食堂から飛び出したシェナを追わなかった。追いかけたところで、また何を聞けばいいのか分からなくなりそうだったし、本人から「察してください」とまで言われている。
察せるなら、こんなに困っていない。
開いた戸口の前で、人影が止まった。
「湊さん」
シェナだった。昨日と同じ記録帳を胸に抱えたまま、今日は工房の中へ入ってくる。
「シェナさん」
「昨日は……すみませんでした」
「食堂で、また逃げました」
昨日は扉の向こうへ消えたままだったシェナが、今日は自分から工房に入ってきた。
「でも、今日は来てくれたじゃないですか」
「……はい。昨日、湊さんに逃げずに答えてくださいと言われました。それなのに、結局また自分が逃げました」
奥ではオルメイの鑢が金具を削り続けている。昨日ならすぐ口を挟んできたリグレットも、矢を弦へ合わせたまま何も言ってこない。
「なので、今日は答えに来ました」
急かせば、昨日と同じになる。湊は箒を持ったまま、シェナが続きを口にするのを待った。
「婚約を今すぐ決めるとか、そういうところまでは、まだ分かりません」
「そこまで今決めてほしいとは思ってません」
「でも、私も湊さんと一緒にいたいです」
「よかった……」
思ったより先に声が出た。
「そんなに安心するなら、昨日追いかけてきてくれてもよかったじゃないですか」
「追いかけても、また何を言えばいいか分からなかったんですよ」
「……私が察してくださいなんて言ったからですか」
「察せたら追いかけてました」
「そこは察してくださいよ!」
「だから分からないんですって!」
「それは……。リグレットさんと二人でいたからです!」
そこまで言って、シェナが記録帳で口元を隠した。
「へえー」
「……何ですか」
「何でもないよ?」
「絶対何かありますよね」
「ないない。それよりさ」
リグレットは選び終えた矢を机へ置いた。
「Fランク君、今のとこずっと住むつもり?」
「え?」
「リグちゃんの知り合いがさ、空き家持て余してて困ってるんだよね。住む人いないと傷むし、誰か入ってくれないかなーって」
「それで俺に?」
「うん。部屋余ってるし」
リグレットの目が湊からシェナへ移った。
嫌な予感しかしない。
「二人で住めば、家賃も半分で済むよ?」
「き、急に一緒に暮らすんですか!?」
シェナの声が工房に響き、オルメイの手まで止まった。
「朝からうるせぇぞ」
「す、すみません!」
シェナが頭を下げる横で、リグレットは不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 嫌なの?」
「いやじゃ……ないですけど」
「じゃ、聞いとくね」
「待ってください、まだ何も――」
「嫌じゃないんでしょ?」
「そうですけど! そういう問題じゃなくてですね!」
「だから、まだ決めたわけじゃなくて――」
シェナがリグレットへ食い下がっている横で、胸の前に親指が一本立った。こちらにだけ見せている。
昨日までなら、その手にどうすればいいか聞いていた。
今日は、住む本人が目の前にいる。
「シェナさん。俺は一緒に住めたら嬉しいです。家を見てから決めませんか」
「……はい」
湊がどう返すべきか迷っているうちに、オルメイがまた金具を削り始めた。
「オルメイさん、いや、親方」
「おぅ……。んあ!?」
「俺、決めました。この間の返事ですけど、ここで働かせてください」
「冒険者はどうすんだ」
「辞めます。シェナさんと一緒にいたいって言ったのに、毎回無茶して帰ってくるか分からないままなのは嫌なんです」
さっきまで途切れなかった鑢の音が消え、火床で炭のはぜる音だけが近くなった。オルメイは削りかけの金具を持ったまま、何も言わない。
ちゃんと聞かれた。
「Fランクくん、冒険者だと幸せにできないってこと?」
「違います。一緒にいたいって言ったのに、明日帰ってこられるか分からない仕事をずっと続けるの、俺が嫌なんです。」
シェナは記録帳を抱いたまま湊を見ていた。いつもなら何かあればすぐ開く帳面も、今日は胸元から動かない。
「へー。だってさ、シェナちゃん」
「いや、その……。ここで言わなくてもよくないですか!?」
背後ではシェナがまだ何か言っている。目の前では、オルメイが削りかけの金具を持ったまま返事を待っていた。
「……親方。俺じゃ駄目ですか」
「馬鹿野郎。職人でもなんでもねえ奴が、あの道作るかよ」
「……オルメイさん」
「親方っつったのはおめぇだろ。話すなら手ぇ動かせ。住むとこ決めても仕事は減らねえぞ」
「はい」
湊は箒を動かし、床に散った削り屑を集め直した。明日の朝もここに立つと思えば、火床の脇に残った屑まで目についた。
背後では、シェナの話だけがまだ終わっていなかった。
「だから、嫌じゃないのと一緒に住むのは別の話なんです!」
「でも一緒にいたいんでしょ?」
「リグレットさん!」
工房の奥から、オルメイの舌打ちが聞こえ、そのあとに鼻で笑う音が混じった。
「ったく、朝から騒がしい連中だな」
オルメイはそう言いながら、金具を削る手を止めなかった。




