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境界線の商人  作者: カミツキ
三章 銀貨開戦

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第58話 選ばれなかった方

 ひと月あまりが過ぎた午後、リール商会の前を荷車が絶えず行き交い、開けた扉からは車輪が石畳を踏む音と、向かいの店が客を呼ぶ声が流れ込んでいた。取引台ではコレットが午前中の注文帳をまとめ、リールは届いた仕入れの控えと硬貨を照らし合わせている。入口脇では、すっかりそこが自分の場所になったような顔で、イサリが椅子の前脚を浮かせていた。


 扉の鈴が鳴り、コレットが帳面を閉じながらいつもの声を出しかけた。


「いらっしゃいま――」


 その声が途中で切れたため、リールも硬貨を数える手を止めた。


 入ってきた男には見覚えがある。


 身につけている上着も靴も、初めて大商家の応接室で会った頃と変わらない。それでも、以前なら必ず誰かを従えていた男が、今日は一人だった。


 取引台へ向かいかけた男の目が、入口脇で止まる。


「……青濤会の女頭が、こんなところで何をしてる」

「ハッ、水際を預かってんのさ」


 男はイサリからリールへ目を移した。


「ずいぶんと物騒な商会になったな」

「お久しぶりです」


 返事はなく、男は注文書も出さないまま取引台の正面で足を止めると、その端に刻まれた三つ葉へ目を落とした。


「まだ、それを使ってるのか」

「三つ葉ですか?」

「ああ」

「ええ。商会の印ですから」

「商会の印、か」


 男の口元が歪んだが、笑っているようには見えなかった。リールが羽ペンを置くと、男は三つ葉から顔を上げないまま言った。


「西の倉庫を手放した」


 それだけでは意味が分からず、続きを待つ。


「北の便も減らす。南の荷車も売った。もう三つの街道へ毎日荷を出すことはできん」


 最近、通りを走る荷車には見慣れない印が増え、大商家の印をつけた荷車を見かけることも減っていた。その理由が、そこでようやく分かった。


「そう、でしたか」

「それだけか?」

「……私に、何と申し上げてほしいのでしょう」

「お前は、うちの仕事を受けていただろう」

「はい」

「北街道が崩れたときもそうだ。あの道を歩いて、地図まで作って持ってきた」

「ええ」

「うちが仕事を出したからだ」


 それはその通りだった。


「石鹸だってそうだ。最初に広めたのはどこだ?」

「奥様のお茶会です」

「うちだろう!」


 声が商館の奥まで届き、注文帳を束ねていたコレットの手が止まった。入口脇ではイサリが椅子にもたれたまま、取引台へ寄ってくる様子はない。


「うちの屋敷だ。うちの奥様だ。そこへ来ていたのもうちの客だ。お前はそこで石鹸を見せて、欲しがった連中から注文を取った!」

「奥様には、ご協力いただきました」

「協力?」


 男はそこで初めて笑ったが、すぐに唇を噛んだ。


「うちが、お前に機会をやったんだぞ。何もなかった商会に客を見せた。うちの客筋を使わせてやった。北街道だってそうだ。お前はうちの仕事を受けて、うちを足掛かりに大きくなったんだろうが!」

「……それと、今回のことがどうつながるのですか」

「分からないのか?」


 男の手が取引台へ落ち、木の板が鈍く鳴った。


「お前のところで始めたんだろう! 空で帰る荷車に別の荷を載せるなんて真似を!」

「それはやっています」

「今は商業ギルドがやってる!」

「ええ。聞いています」


「護衛の保証金もだ。お前が冒険者に金を出し始めて、ほかの商人まで真似をした。今じゃ依頼主が直接冒険者を取り、荷車も自分で探す。途中の倉庫まで商業ギルドでつながる!」


「ですが、それを私が頼んだわけでは――」

「誰が命令したかなんて聞いてない!」


 男が取引台へ身を乗り出し、声が一気に間近になった。


「何十年かけたと思ってる」


 続く声は、さっきまでの怒鳴り声より低かった。


「荷車を揃えて、馬を置いて、倉庫を借りて、街道が止まれば別の道を探した。荷車が壊れれば予備を出して、荷が少ない日でも決めた日に走らせてきた。だから連中はうちへ預けたんだ。自分で一台ずつ探さなくても済むように、途中で何かあってもうちに言えば済むように」


 取引台についた指に力が入り、節が白くなる。


「それを今さら、安い荷車が見つかったから、帰り道が同じだから、自分で護衛を頼めるようになったからって、昨日までうちへ頭を下げてた連中が好き勝手に荷を抜いていくんだぞ」


 必要なときだけ頼られて、そのための荷車も倉庫も人も普段から抱えておけと言われれば、使われない日の費用まで消えるわけではない。そこまではリールにも分かった。


「困ったときだけ戻ってくる奴までいる。普段は安い方へ持っていって、荷車が見つからなくなれば、またうちへ載せろと言う」


 男は取引台を押すように手を広げた。


「ふざけるな。俺たちは、あいつらの予備じゃない」


 リールは何も挟まず、男の言葉を待った。


「値段も戻した。保証金だってこっちで出した。それでも全部は戻らなかった」


 喉を鳴らしてから、男は乾いた笑いを漏らした。


「選ぶんだとさ。自分に合う方を選ぶんだと」


 男は一度口を閉じ、取引台の三つ葉を見た。


「……条件を比べて、一番いいものを選ぶ。それが商売だ」


 その言葉には覚えがあった。


 男の指が、取引台の上でゆっくり開いていく。


「分かってるよ。あいつらは契約を破ってない。商業ギルドも、冒険者ギルドもだ。誰もうちの荷を盗んじゃいない。安い方を選ぶのも、都合のいい方を使うのも、商売なら当たり前だ」


 開いた扉の向こうを荷車が通り、車輪が石畳の継ぎ目を二度踏んだ。


「でも、何十年も使ってたんだぞ」


 男の声が、その音に混じらず残った。


「だったら最後まで使えよ! 俺たちが必要だったから来てたんじゃないのか。うちだから預けてたんじゃないのか。それが、別でもできるって分かった途端、あっさり出ていきやがる」


 男の息が荒くなり、そこまで吐き出してもまだ終わらなかった。


「何十年やってきたと思ってる! 昨日今日出てきた荷車と同じ値段にしろってのか! うちには倉庫も馬も人もいる! そいつら全部、今日から要らなくなるわけじゃないんだぞ!」


 息を吸っても、男の声は収まらなかった。


「お前が来る前は、こんなんじゃなかった。石鹸だってそうだ。荷車だってそうだ。保証金だってそうだ。お前は一つずつ、こっちの方が安いだの便利だのって置いただけなんだろうよ。それで何で、なくなるのはこっちなんだ!」


「私は、あなたの商会を通さないよう誰かに頼んだことはありません。あなたの商会をなくそうと思って、何かをしたこともないです」


 男の口が閉じ、取引台へついていた肩から力が落ちた。


「それが」


 唇が震え、息だけが先に漏れる。


「それが、一番腹が立つんだよ」

「そういう意味では――」

「潰すつもりすらなかった?」


 男が身を起こした。


「俺たちは、お前の敵ですらなかったってことか?」

「違います。私は――」

「じゃあ何なんだ!」


 両手が取引台を打ち、インク壺が跳ねて縁へ転がった。床へ落ちる前に横から伸びた手がつかみ、イサリは壺を元の場所へ戻すと、取引台の上、男とリールの間に片手をついた。


「堰(せ)き止める気はねえ。続けな」


 男がイサリを睨む。


「恨み言なら好きに流しな。どれだけ濁ろうが、アタシは止めねえ。だが店に手ぇ出したら、そこで堰だ。そっから先はアタシが治水(ちすい)する」

「……分かってる」

「ならいい」


 イサリは取引台から手を離し、また入口脇へ戻った。


 男は荒く息を吐いたあと、黒い雫が落ちた木目を指で擦った。


「謝れよ」


 今度は取引台を叩かなかった。


「何か一つくらい、悪かったって言えよ。こんなことになるとは思わなかったって。うちまでこうなるつもりじゃなかったって」

「……あなたの商会がこうなることを望んだことはありません」

「違う」


 男は三つ葉の刻まれた場所を指先で押した。


「それじゃない」


 何を求められているのかは、もう分かった。


 男が欲しいのは、望んでいなかったという話ではない。男の商会から荷を奪い、倉庫を閉めさせ、荷車を売らせたのはうちだったと認めてほしい。


 けれど、それを言えば、していないことまで自分がしたことになる。


「こんなことになるとは思っていませんでした。でも、あなたの商会から客を奪おうとしてやったことではありません」


 男は三つ葉へ押しつけていた指を離した。


「……お前のせいだ」


 リールが答える前に、もう一度同じ言葉が落ちた。


「お前のせいだ」


 それから男は顔を上げ、これまで押し殺していたものを全部吐き出すように声を張った。


「全部だ! 石鹸も! 荷車も! 保証金も! うちの仕事を受けてたくせに! うちの客を使ったくせに! うちが機会をやったのに! うちを足掛かりに大きくなったくせに!!」


 息を吸い込み、取引台の向こうからリールへ腕を伸ばした。


「全部、あの三つ葉からだ!!」


 指が届くより先に、水が鳴った。


 床から跳ね上がった水が男の手首へ巻きつき、そのまま腕を横へ引いたため、身体が取引台から離れる。男が何をされたのか分からないうちに、水は肩から首元まで這い上がり、細い流れとなって喉の前で渦を巻いた。


 イサリは入口脇の椅子から立っていた。


「そこまでだ」

「……離せ」

「商売の恨み言なら好きなだけ吐け。アタシは口を挟まねえ」


 男が水を振り払おうと腕に力を入れても、手首に巻いた流れは形を崩さない。


「だが、こっから先は流れが変わるぜ」


 喉元の水が一度だけ音を立てた。


「自分で帰るか、海葬(かいそう)されるか。分水嶺(ぶんすいれい)だ。好きな方を選びな」


 男はイサリを睨みつけたまま腕へ力を入れていたが、やがて諦めたように肩を落とした。


「……か、帰る」

「そうしな」


 水が床へ落ちると、男は濡れた手首を押さえながら取引台から離れ、三つ葉へもう一度目をやったものの、今度は何も言わず、そのまま扉を開けて通りへ出ていった。


 扉が閉まると、隣から声がした。


「……やっぱ姐さん、かっけえ」


 コレットの声に、リールは返さなかった。


 側面にはリールの知らない商人の印が描かれ、荷台の後ろには護衛の冒険者が二人ついて歩いている。車輪の音が通りの先へ遠ざかってから、リールは取引台に残った黒い雫を布で拭った。


 そのすぐ脇には、三つ葉が彫られている。


 最初にこの印が押されたのは、灰色の石鹸だった。

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