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境界線の商人  作者: カミツキ
三章 銀貨開戦

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第50話 その先の話

 夕方の通りには、仕事を終えた荷車が何台も戻ってきていた。工房の煙突から細い煙が上がり、その向こうでは傾いた日が屋根の端を赤く照らしている。荷台から樽を下ろす掛け声と、馬具の金具が鳴る音が重なる中を、シェナだけが記録帳を胸に抱えたまま走っていった。


 通りの角を曲がり、シェナの姿が見えなくなった。湊の前を荷車が一台通り過ぎ、車輪が石畳を鳴らした。


 工房の入口から、リグレットとオルメイが揃って出てきた。


「いやー、リグちゃんびっくりしちゃった! 声出そうになったもん。ねぇ、オルメイさん」

「あぁ。いつからなんだ」


 何の話をしているのか分からない。


「どういうことですか?」

「またまたー。Fランク君も隅に置けないじゃん。シェナちゃんとだよ、シェナちゃんと」

「シェナさん?」


 リグレットの笑いが止まった。


「Fランク君。もしかして、『一緒にいたい』の意味、知らない?」

「意味?」

「おめぇ、それ婚約するときに言う言葉だぞ」

「……え?」


 湊はシェナが消えた角へ顔を向けた。もう姿はない。


「いや、待ってください。俺、婚約するつもりで言ったんじゃ――」

「それはあとで本人に言え」

「でも――」

「ただ、今追っかけて『違いました』だけ言うのはやめろ。おめぇ、あの嬢ちゃんにいなくなってほしくなかったんだろ」

「……はい」

「一緒にいたいと思ったのも?」

「思いました」


 オルメイはこちらを見ていた。


「なら、そこまで嘘にすんな。婚約したいかどうかなんざ、その先の話だ。おめぇが何したいのか、どうなりたいのかは、おめぇが決めろ。工房のことも、冒険者のことも、あの嬢ちゃんのこともだ」

「でも俺、自分で決めようとしても、また間違えるかもしれないです」

「そりゃ間違えるだろ」


 あまりにも普通に返され、湊はオルメイを見た。


「俺だって間違える。リグレットだって間違える。あの嬢ちゃんだってそうだろ」

「ちょっと、何でリグちゃんまで入ってるの?」

「うるせぇ」


 リグレットを追い払うように片手を振ってから、オルメイは続けた。


「だからって、人に決めてもらうな。人に決めてもらったら、しくじったときにそいつのせいにしたくなる」


 今日だけでも、何度答えを求めただろう。


「おめぇが決めて、しくじったなら、おめぇが次を考えりゃいい」

「……はい」

「急ぐ必要もねえ」


 オルメイは工房へ戻り、作業台の角板を手に取った。


「工房ならここにある。俺は逃げねえから、ゆっくり決めろ」


 削る道具が角板に触れ、乾いた音がまた工房に戻った。


 湊が通りへ目を戻すと、シェナが曲がった角にはもう別の人が歩いている。


 追いかけるなら、何を言うのか。


 それもまだ分からない。


 湊は誰にも聞かず、その角をもう一度見た。


 * * *


 王都の冒険者ギルド本部では、机に大商家の責任者が持ってきた要望書が開かれ、レヴィンがその向こうで男の話を聞いていた。扉の向こうを人が行き来する靴音が何度か通り過ぎても、レヴィンは最後まで口を挟まない。


「なるほど、なるほど。第三者負担については知ってますよ。で、保証金を出さない依頼から冒険者が離れていく。だから止めてほしい、と」

「ああ」

「分かりました。その点は本部でも確認しましょう。第三者が負担した場合でも、保証金が本来の役割を果たしているのか。見る価値はありますね」


 ようやく話が通じた。


「なら、今日から止めろ」

「ああ」


 レヴィンが笑った。


「そこは別の話ですね」

「何が違う」

「確認していないものを、今日から止めるのでしょう?」

「このまま続けば、出す商人と出さない商人で冒険者の取り合いになる」

「ええ。その心配をされているのは分かります」


 レヴィンは要望書から顔を上げた。


「あなたのところでも、昨日は護衛二組分の保証金を負担したそうですね」

「もうそこまで上がっているのか」

「本部ですからね。誰が保証金を出したかは記録に残ります」

「なら分かるだろう。うちまで出している」

「では、それは払えない額でしたか?」

「そういう話じゃない」

「ええ、そうでしょうね」


 レヴィンはあっさり頷いた。


「払える。ですが、本来なら払いたくない。払わなければ、依頼主が保証金を負担する別の依頼へ冒険者が行ってしまう。だからあなた方も出した」

「そうだ」

「ああ、なるほど」


 何がそんなに面白いのか、レヴィンの口元が緩んだ。


「ようやく分かりました」

「何がだ」

「あなた、保証金そのものに怒っているわけではないんですね」


 部屋の外から、依頼を受け付ける女の声が届いた。


 こいつ、最初からそこを聞きたかったのか。


「保証金を出さなければ、今まであなた方が押さえていた冒険者をほかの商人に取られる。それが困る」

「当たり前だろう!」


 声が部屋へ響いた。


「商売なんだぞ。護衛が取れなきゃ荷を出せない。出すために保証金までこっちで持って、その分をどこかで回収しなきゃならん!」

「手配料を上げた」


 男の口が止まった。


 レヴィンはまだ笑っている。


「違いましたか?」

「……上げた」

「それで?」

「何が言いたい」

「いやあ、その先ですよ。費用が増えたから手配料を上げた。それだけなら商売として普通でしょう。それで何か困ったことが?」

「荷が抜け始めてる」

「ああ。そういうことですか」

「なんだ、何がおかしい」

「いえいえ、おかしくはありませんよ。値段が変われば、別の方法を探す方もいるでしょうから」


 荷車を一台貸して終わる商売ではない。荷を預かれば、途中の倉庫も、積み替えも、護衛もこちらで揃える。荷主は行き先だけ伝えればいい。何十年も、それで金を取ってきた。


 その中から、護衛だけを客が手配し始めている。


「その別の方法を、お前らが教えてるんだろうが」

「オレたちが?」

「荷主本人でも護衛依頼を出せる。そう案内しているそうじゃないか」

「ええ。出せますからね」

「それだ!」


 男が机に手をつくと、開いた要望書の端がずれた。


「今までなら荷車も倉庫も護衛も、うちへまとめて頼んでいた。なのに護衛だけ自分で頼めると知った連中が、荷車まで別に探し始めてる!」

「ああ、それでしたら」


 レヴィンは机の端に置かれていた一枚の紙を引き寄せた。


「もう出ていますよ」

「……何がだ」

「あなた方を通さずに北街道へ出た荷です」


 言われた意味が分からず、紙に目を落とした。


「商業ギルドで運送人を探して、護衛は荷主本人から支部へ依頼したそうです。小さな荷ですけどね」

「誰の荷だ」

「リール商会というところですね」


 石鹸商人だと。


 男は紙を掴みかけて、手を止めた。


「……いつだ」

「昨日ですね」

「聞いてないぞ」

「オレに言われましても」


 男は紙から顔を上げた。


「誰が教えた」

「何をでしょう」

「うちを通さずに荷を出せることだ!」

「ああ。それですか」


 この男は、こちらが怒れば怒るほど機嫌が良くなる。


「荷主本人でも護衛依頼を出せますし、商業ギルドでは運送人を仲介しています。どちらも以前からできますよ」

「だから、それをわざわざ教えるなと言ってる!」


 扉の向こうで、何人かの冒険者が依頼票を読み上げる声が重なった。


 レヴィンの笑みが深くなった。


「ああ。なるほど」

「何だ」

「以前からできたことでも、知られたら困る、と。それなら最初から、そう言ってくださればよかったのに」

「ふざけるな!」


 机を叩くと、要望書が跳ねた。


「うちは何十年も荷を運んできたんだ! 一台の荷車を探して護衛を二人つけたくらいで、同じことができると思うな!」

「ええ。思っていませんよ」


 予想していなかった返事に、男は口を閉じた。


「馬が潰れたら代わりを出す。荷が予定どおり揃わなければ別の便へ組み替える。途中で荷を預ける倉庫も必要でしょうし、積み替えだってある。そういうものをまとめて引き受けてきたから、皆さんあなた方へ頼んでいたのでしょう?」

「……分かってるじゃないか」

「ええ。とても便利だと思います」

「だったら――」

「ですから、その便利さが必要な方は、これからも頼むのではありませんか?」

「……必要な方?」

「ええ」


 レヴィンは椅子へ背を預けた。


「全部を任せたい方もいるでしょう。荷車だけ頼みたい方もいる。護衛だけ必要な方もいる。今まで全部あなた方へ頼んでいたからといって、これからも全部頼まなければならない理由はないでしょう?」

「それを決めるのはお前じゃない」

「もちろん」


 レヴィンはすぐに頷いた。


「荷主本人ですよ」

「お前、わざとやってるだろ」

「何をです?」

「うちを通さなくても仕事が回るようにしてる」

「オレがあなた方の仕事を断ったわけでもないのに?」

「客に、ほかのやり方を教えてるだろうが」

「ああ」


 レヴィンは納得したように笑った。


「またそこへ戻るんですね」


 レヴィンは胸に片手を当てた。


「何かやった覚えがないのに恨まれているのかと思いました」

「そういうところだよ!」


 声を荒げても、レヴィンは動かなかった。


「もういい。お前と話していても何も変わらん」

「そうですか。それは残念です」

「冒険者ギルド本部は、お前一人で決めていい場所じゃないだろ。金を出しているところにも話を持っていく」

「ああ。そうなさいますか」

「まずブーケ家だ」

「ええ」

「そこで、今の運営を続けていいのか聞く。必要なら、お前をこの席から外すよう求める」


 レヴィンの指が、要望書の端で止まった。


「何だ。急に黙ったな」

「……好きにすりゃいいだろ」


 低い声だった。


 けれど、その次にはもう口元に笑みが戻っていた。


「――失礼。少し言い方が悪かったですね」

「本性はそっちか」

「さて、どうでしょう」


 レヴィンは跳ねた要望書を揃える。


「運営に問題があるとお考えなら、出資している方へ相談されるのは当然でしょう。オレが止める理由はありません」

「なら、そうする」


 男は椅子を引き、扉へ向かった。


「ただ、一つだけ決めてから行かれた方がいいですよ」


 振り返ると、レヴィンは要望書を押さえていた。


「保証金の第三者負担を止めてほしいのか」


 笑っている。


「それとも、あなた方以外を選べることを止めてほしいのか」

「……何だと」

「ブーケ家でも、たぶん同じところを聞かれるでしょうから」


 男は肩ごと引くように扉を開けた。蝶番が短く軋んだ。


「では、お気をつけて」


 最後まで、レヴィンの声は楽しそうだった。

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