第50話 その先の話
夕方の通りには、仕事を終えた荷車が何台も戻ってきていた。工房の煙突から細い煙が上がり、その向こうでは傾いた日が屋根の端を赤く照らしている。荷台から樽を下ろす掛け声と、馬具の金具が鳴る音が重なる中を、シェナだけが記録帳を胸に抱えたまま走っていった。
通りの角を曲がり、シェナの姿が見えなくなった。湊の前を荷車が一台通り過ぎ、車輪が石畳を鳴らした。
工房の入口から、リグレットとオルメイが揃って出てきた。
「いやー、リグちゃんびっくりしちゃった! 声出そうになったもん。ねぇ、オルメイさん」
「あぁ。いつからなんだ」
何の話をしているのか分からない。
「どういうことですか?」
「またまたー。Fランク君も隅に置けないじゃん。シェナちゃんとだよ、シェナちゃんと」
「シェナさん?」
リグレットの笑いが止まった。
「Fランク君。もしかして、『一緒にいたい』の意味、知らない?」
「意味?」
「おめぇ、それ婚約するときに言う言葉だぞ」
「……え?」
湊はシェナが消えた角へ顔を向けた。もう姿はない。
「いや、待ってください。俺、婚約するつもりで言ったんじゃ――」
「それはあとで本人に言え」
「でも――」
「ただ、今追っかけて『違いました』だけ言うのはやめろ。おめぇ、あの嬢ちゃんにいなくなってほしくなかったんだろ」
「……はい」
「一緒にいたいと思ったのも?」
「思いました」
オルメイはこちらを見ていた。
「なら、そこまで嘘にすんな。婚約したいかどうかなんざ、その先の話だ。おめぇが何したいのか、どうなりたいのかは、おめぇが決めろ。工房のことも、冒険者のことも、あの嬢ちゃんのこともだ」
「でも俺、自分で決めようとしても、また間違えるかもしれないです」
「そりゃ間違えるだろ」
あまりにも普通に返され、湊はオルメイを見た。
「俺だって間違える。リグレットだって間違える。あの嬢ちゃんだってそうだろ」
「ちょっと、何でリグちゃんまで入ってるの?」
「うるせぇ」
リグレットを追い払うように片手を振ってから、オルメイは続けた。
「だからって、人に決めてもらうな。人に決めてもらったら、しくじったときにそいつのせいにしたくなる」
今日だけでも、何度答えを求めただろう。
「おめぇが決めて、しくじったなら、おめぇが次を考えりゃいい」
「……はい」
「急ぐ必要もねえ」
オルメイは工房へ戻り、作業台の角板を手に取った。
「工房ならここにある。俺は逃げねえから、ゆっくり決めろ」
削る道具が角板に触れ、乾いた音がまた工房に戻った。
湊が通りへ目を戻すと、シェナが曲がった角にはもう別の人が歩いている。
追いかけるなら、何を言うのか。
それもまだ分からない。
湊は誰にも聞かず、その角をもう一度見た。
* * *
王都の冒険者ギルド本部では、机に大商家の責任者が持ってきた要望書が開かれ、レヴィンがその向こうで男の話を聞いていた。扉の向こうを人が行き来する靴音が何度か通り過ぎても、レヴィンは最後まで口を挟まない。
「なるほど、なるほど。第三者負担については知ってますよ。で、保証金を出さない依頼から冒険者が離れていく。だから止めてほしい、と」
「ああ」
「分かりました。その点は本部でも確認しましょう。第三者が負担した場合でも、保証金が本来の役割を果たしているのか。見る価値はありますね」
ようやく話が通じた。
「なら、今日から止めろ」
「ああ」
レヴィンが笑った。
「そこは別の話ですね」
「何が違う」
「確認していないものを、今日から止めるのでしょう?」
「このまま続けば、出す商人と出さない商人で冒険者の取り合いになる」
「ええ。その心配をされているのは分かります」
レヴィンは要望書から顔を上げた。
「あなたのところでも、昨日は護衛二組分の保証金を負担したそうですね」
「もうそこまで上がっているのか」
「本部ですからね。誰が保証金を出したかは記録に残ります」
「なら分かるだろう。うちまで出している」
「では、それは払えない額でしたか?」
「そういう話じゃない」
「ええ、そうでしょうね」
レヴィンはあっさり頷いた。
「払える。ですが、本来なら払いたくない。払わなければ、依頼主が保証金を負担する別の依頼へ冒険者が行ってしまう。だからあなた方も出した」
「そうだ」
「ああ、なるほど」
何がそんなに面白いのか、レヴィンの口元が緩んだ。
「ようやく分かりました」
「何がだ」
「あなた、保証金そのものに怒っているわけではないんですね」
部屋の外から、依頼を受け付ける女の声が届いた。
こいつ、最初からそこを聞きたかったのか。
「保証金を出さなければ、今まであなた方が押さえていた冒険者をほかの商人に取られる。それが困る」
「当たり前だろう!」
声が部屋へ響いた。
「商売なんだぞ。護衛が取れなきゃ荷を出せない。出すために保証金までこっちで持って、その分をどこかで回収しなきゃならん!」
「手配料を上げた」
男の口が止まった。
レヴィンはまだ笑っている。
「違いましたか?」
「……上げた」
「それで?」
「何が言いたい」
「いやあ、その先ですよ。費用が増えたから手配料を上げた。それだけなら商売として普通でしょう。それで何か困ったことが?」
「荷が抜け始めてる」
「ああ。そういうことですか」
「なんだ、何がおかしい」
「いえいえ、おかしくはありませんよ。値段が変われば、別の方法を探す方もいるでしょうから」
荷車を一台貸して終わる商売ではない。荷を預かれば、途中の倉庫も、積み替えも、護衛もこちらで揃える。荷主は行き先だけ伝えればいい。何十年も、それで金を取ってきた。
その中から、護衛だけを客が手配し始めている。
「その別の方法を、お前らが教えてるんだろうが」
「オレたちが?」
「荷主本人でも護衛依頼を出せる。そう案内しているそうじゃないか」
「ええ。出せますからね」
「それだ!」
男が机に手をつくと、開いた要望書の端がずれた。
「今までなら荷車も倉庫も護衛も、うちへまとめて頼んでいた。なのに護衛だけ自分で頼めると知った連中が、荷車まで別に探し始めてる!」
「ああ、それでしたら」
レヴィンは机の端に置かれていた一枚の紙を引き寄せた。
「もう出ていますよ」
「……何がだ」
「あなた方を通さずに北街道へ出た荷です」
言われた意味が分からず、紙に目を落とした。
「商業ギルドで運送人を探して、護衛は荷主本人から支部へ依頼したそうです。小さな荷ですけどね」
「誰の荷だ」
「リール商会というところですね」
石鹸商人だと。
男は紙を掴みかけて、手を止めた。
「……いつだ」
「昨日ですね」
「聞いてないぞ」
「オレに言われましても」
男は紙から顔を上げた。
「誰が教えた」
「何をでしょう」
「うちを通さずに荷を出せることだ!」
「ああ。それですか」
この男は、こちらが怒れば怒るほど機嫌が良くなる。
「荷主本人でも護衛依頼を出せますし、商業ギルドでは運送人を仲介しています。どちらも以前からできますよ」
「だから、それをわざわざ教えるなと言ってる!」
扉の向こうで、何人かの冒険者が依頼票を読み上げる声が重なった。
レヴィンの笑みが深くなった。
「ああ。なるほど」
「何だ」
「以前からできたことでも、知られたら困る、と。それなら最初から、そう言ってくださればよかったのに」
「ふざけるな!」
机を叩くと、要望書が跳ねた。
「うちは何十年も荷を運んできたんだ! 一台の荷車を探して護衛を二人つけたくらいで、同じことができると思うな!」
「ええ。思っていませんよ」
予想していなかった返事に、男は口を閉じた。
「馬が潰れたら代わりを出す。荷が予定どおり揃わなければ別の便へ組み替える。途中で荷を預ける倉庫も必要でしょうし、積み替えだってある。そういうものをまとめて引き受けてきたから、皆さんあなた方へ頼んでいたのでしょう?」
「……分かってるじゃないか」
「ええ。とても便利だと思います」
「だったら――」
「ですから、その便利さが必要な方は、これからも頼むのではありませんか?」
「……必要な方?」
「ええ」
レヴィンは椅子へ背を預けた。
「全部を任せたい方もいるでしょう。荷車だけ頼みたい方もいる。護衛だけ必要な方もいる。今まで全部あなた方へ頼んでいたからといって、これからも全部頼まなければならない理由はないでしょう?」
「それを決めるのはお前じゃない」
「もちろん」
レヴィンはすぐに頷いた。
「荷主本人ですよ」
「お前、わざとやってるだろ」
「何をです?」
「うちを通さなくても仕事が回るようにしてる」
「オレがあなた方の仕事を断ったわけでもないのに?」
「客に、ほかのやり方を教えてるだろうが」
「ああ」
レヴィンは納得したように笑った。
「またそこへ戻るんですね」
レヴィンは胸に片手を当てた。
「何かやった覚えがないのに恨まれているのかと思いました」
「そういうところだよ!」
声を荒げても、レヴィンは動かなかった。
「もういい。お前と話していても何も変わらん」
「そうですか。それは残念です」
「冒険者ギルド本部は、お前一人で決めていい場所じゃないだろ。金を出しているところにも話を持っていく」
「ああ。そうなさいますか」
「まずブーケ家だ」
「ええ」
「そこで、今の運営を続けていいのか聞く。必要なら、お前をこの席から外すよう求める」
レヴィンの指が、要望書の端で止まった。
「何だ。急に黙ったな」
「……好きにすりゃいいだろ」
低い声だった。
けれど、その次にはもう口元に笑みが戻っていた。
「――失礼。少し言い方が悪かったですね」
「本性はそっちか」
「さて、どうでしょう」
レヴィンは跳ねた要望書を揃える。
「運営に問題があるとお考えなら、出資している方へ相談されるのは当然でしょう。オレが止める理由はありません」
「なら、そうする」
男は椅子を引き、扉へ向かった。
「ただ、一つだけ決めてから行かれた方がいいですよ」
振り返ると、レヴィンは要望書を押さえていた。
「保証金の第三者負担を止めてほしいのか」
笑っている。
「それとも、あなた方以外を選べることを止めてほしいのか」
「……何だと」
「ブーケ家でも、たぶん同じところを聞かれるでしょうから」
男は肩ごと引くように扉を開けた。蝶番が短く軋んだ。
「では、お気をつけて」
最後まで、レヴィンの声は楽しそうだった。




