第49話 払う必要のない金
冒険者ギルドでは、湊とリグレットがまだ濡れた装備のまま受付前に残っていた。クリストフの前には、シェイムの名前が載った記録が開かれている。
ゲリオンが出ていった扉が閉まりきる前に、外側からもう一度押し開けられた。入ってきた男を見て、湊は濡れた袖を直しかけた手を止めた。
石鹸のときの人だ。
男は冒険者ギルドを見回すと、受付の方へ向かった。
「ギルド長は?」
「俺です。何かありましたか」
「ひとつ聞きたい。冒険者の保証金を、依頼主や商人が肩代わりしても、依頼は受けられるのか」
「受ける奴がランクと条件を満たしてて、必要な保証金も入るなら、誰が払ったかだけで断る理由はない」
「……やはり、そうか」
男の声が低くなった。
「昨日、うちでも護衛を二組押さえるために保証金を出した。払えないから言っているんじゃない。商人が次々に肩代わりすれば、今度は出さない依頼から人が消える」
「依頼を選ぶのは冒険者だ。報酬や日数と同じで、保証金を誰が出すかを見る奴も出るだろ」
「それを、見ているだけか?」
「今の規則じゃ、止める根拠はない」
男は受付台に手をついた。
「保証金は、冒険者が依頼を投げ出さないための金だったはずだ。報酬なら依頼主が払う。だが、保証金までこちらが持つのか? そんなものは、本来なら俺たちが払う金じゃない」
「保証金の仕組みそのものを変えろ、と?」
「ああ。第三者が出せないようにするか、少なくとも、このままでいいのかを見直せ」
「それなら、この支部だけで決める話じゃない」
「どこへ持っていけばいい」
「王都の本部だ。制度を変えるなら、そっちの話になる」
男は受付台から手を離した。
「……分かった。なら、本部へ行く」
湊たちには目も向けず、そのまま扉の向こうへ消えていった。
「Fランク君、そんなにじっと見ちゃってどうしたの?」
「さっきの人、前にリールさんと石鹸を見せに行った家の人だったんです」
「へえ。あの石鹸の?」
「はい」
閉じた扉を見ていても仕方がない。湊が濡れた袖を直すと、リグレットも弓を持ち直した。
「俺、リールさんのところに戻ります」
「あ、私も。まだ買い物終わってないし」
湊も本来の用事を思い出した。
今日は角板を買いに出ただけだった。
* * *
商館へ戻ると、扉の音にコレットが帳簿から顔を上げた。
「おかえりぃ。シェイムはぁ?」
「見つかりました」
取引台の奥にいたリールもこちらを向いた。
「無事だったの!?」
「生きています。ギルドに戻って、そのままヴェール大聖堂へ運ばれました」
リールの肩から力が抜けた。
「怪我は?」
「右足と腕。たぶんルゥラにやられたんだと思う。足は腫れてたし、腕にも跡が残ってたから」
リグレットの返事を聞き終えると、リールは湊を見た。
「シェイムは、どんな様子だった?」
怪我のことなら、今リグレットが話した。けれど、湊が一番引っかかっているのはそこではなかった。
「……余程、怖い思いをしたんだと思います」
「うん」
「目を覚ましてから、泣きながらずっと、死にたくないって言ってました」
リールの視線が湊から外れ、取引台の上へ落ちた。
「そう……。聞きたいことはあるけど、今じゃないわね。本人が話せるようになってからにするわ」
その横でコレットが帳簿を脇へ寄せた。湊はポケットから、朝オルメイから渡された端材を取り出す。
「それと、これを」
「ああ、角板ねぇ」
コレットは端材を受け取り、棚の奥から二枚の角板を持って戻ると、端材に一枚ずつ重ねて厚さを確かめた。
「これなら同じくらいだよぉ」
「やっと買えた」
リグレットが角板を受け取り、コレットは代金を帳簿につけた。
「じゃ、持って帰ろっか」
角板を抱えたリグレットと一緒に、湊も商館を出た。
* * *
オルメイの工房へ戻ると、火床にはまだ赤い火が残っていた。
作業台の端には朝のネロズワルドの腱が置かれたままで、別の道具を手入れしていたオルメイは、二人の靴と濡れた服を見るなり眉を寄せた。
「遅ぇ。角板買いに行くだけで何してやがった」
「いやー、買い物の途中で人探しすることになるとは、リグちゃんも思わなくてさぁ」
「人探し?」
「帰ってない子がいたんだよ」
オルメイの手が止まった。
「見つかったのか」
「うん、今ヴェール大聖堂で治療してもらってる」
「ならいい。先にそれ脱げ。床まで濡らすな」
二人の会話を聞きながら今日の記録をまとめていたシェナの手が止まった。
その横で、オルメイはリグレットが差し出した角板を受け取った。
「これでいい?」
「貸せ」
オルメイは朝の端材に角板を一枚ずつ重ね、指先で厚みを確かめてから、今度はリグレットの弓に当てた。
「これなら使える。弓は置いてけ」
「えー。今日持って帰れないの?」
「今から付けて、そのまま使えると思ってんのか。明日来い」
「はーい」
リグレットが弓を外して作業台へ置くと、オルメイは角板に削る位置の印を付け、ネロズワルドの腱と一緒に弓の横に並べた。
湊も一度、弓の横に置かれた角板を見たが、そのまま今朝使っていた道具の棚へ向かった。
「湊さん」
後ろから呼ばれて振り返ると、シェナが記録帳を抱えて立っていた。
「少し良いですか」
「はい」
オルメイはもう角板に線を引き始め、リグレットは作業台の向こうからそれを覗き込んでいる。シェナは二人から離れるように工房の入口へ向かった。
湊もその後を追った。
外へ出ると、濡れた服に風が当たった。工房の中からは、オルメイが何かを削る音が続いている。
「前に、今度お話ししたいことがあると言いましたよね」
「ああ。人生相談の」
いつものように返したつもりだったが、シェナは笑わなかった。
「違います」
抱えていた記録帳へ、シェナの指がかかった。
「私はこれまで、湊さんが話したことの一部を記録していました」
「……え?」
「先輩から言われていたのは、こちらから聞き出すのではなく、湊さんが自分から話したことだけを残すことでした。その中で必要だと思ったものを、私は記録して、先輩にも報告していました」
何を言われているのか、すぐには分からなかった。
記録。
自分が話したことを。
「……どこまでですか」
シェナの指が記録帳の表紙を押さえた。
「全部ではありません」
「じゃあ、何を?」
「監察に必要だと判断したことです」
必要。
その言葉だけが引っかかった。
「俺が故郷に帰るか迷ってるって話もですか」
「その中にも、記録したものがあります」
「工房で働くか、冒険者を続けるか分かんないって話も?」
「……はい」
「遊びたいだけかもしれないって言ったのも?」
シェナは俯いた。
それで分かった。湊の胸の奥から、さっき冒険者ギルドで押さえ込んだものがまた上がってきた。
「じゃあ、あの飯も仕事だったんですか」
「違います」
「マトリカリアに誘ったのも?」
「それも違います」
「でも、そこで俺が喋ったことは書いたんですよね」
シェナの口が止まった。
「仕事じゃなかったのに?」
「……はい」
何だよ、それ。
仕事が終わったあとにご飯を食べた。知らないものの話をして、シェナが変なところで真面目に考え込むのを見て笑ったこともあった。
自分だけだったのか。
「俺、シェナさんのこと仲間だと思ってたんですよ」
シェナが顔を上げた。
「一緒に道直して、一緒に飯食って、くだらない話もして……普通に、そういうもんだと思ってました」
「湊さん」
「馬鹿みたいじゃないですか」
自分でも声が大きくなっているのが分かった。それでも止まらなかった。
「俺が勝手に仲間だと思って、勝手に色々喋って。それをシェナさんは後で記録してたんですよね?」
「違います」
「何が違うんですか!」
工房の中から聞こえていた削る音が止まった。
「俺は何なんですか。監察するための道具ですか? 俺が何言うか見て、使えそうなことだけ持って帰ってたんですか!」
「違います!」
今まで聞いたことのない大きさで、シェナの声が返った。
「全部じゃありません」
シェナは記録帳を胸へ押しつけた。
「全部記録していたわけじゃありません」
「だったら何で――」
「アニメの話をしてくれたとき、覚えていますか」
思ってもいなかった言葉に、湊は口を閉じた。
「絵を何枚も描いて、めくると動いて見えるって。声もついて、音楽もあって、戦ったり空を飛んだりするって」
「……はい」
「あのとき、途中で監察に必要な話が出ました。湊さんの世界では、物を買うときの負担が違うことがあるって」
「……はい」
「本当なら、そこへ話を戻して確認するべきでした」
シェナの指が記録帳の角を強く掴んだ。
「でも湊さんが、アニメの話を始めて……楽しそうに話していたから」
そこで声が途切れた。
「私は、戻せませんでした。監察に必要なことだけなら、聞けばよかったんです。話を戻して、必要なところまで聞いて、それを書けばよかった。でも、できませんでした」
「どうしてですか」
シェナの目が揺れた。
「分かりません」
「……分からない?」
「分からないんです!」
シェナの声がまた上がった。
「だから話そうと思ったんです。湊さんが何を言うかを見るために一緒にいたわけじゃない。でも、私は記録もしていました。仕事だからって、それをずっと黙ったまま、何も知らない湊さんと一緒にいるのは違うと思ったから」
記録帳を抱えていた腕から力が抜けた。
「それなのに、今になって話して、結局傷つけて……私にも、どうしたらいいのか分かりません」
喉が詰まった。
さっき自分が吐き出したのと同じだった。
何一つ決められないまま、今度はシェナまで分からないと言っている。
「俺だって分かんないですよ……」
さっきまであれだけ大きかった声が、うまく出なかった。
「リグレットさんに聞いても、自分で決めないと駄目で。ゲリオンさんには今日は決めるなって言われて……それでいいと思ったんです。明日考えればいいって」
息を吸うと、胸の奥が震えた。
「でもシェナさんにも話してて、それも記録されてて……じゃあ俺、誰に何を話したらいいんですか」
目の前が滲んだ。
「もう分かんないです」
袖で拭っても、次が出てきた。
「どうしたらいいか、教えてくださいよ……」
シェナは記録帳を抱えたまま立っていた。
「……私にも分かりません」
それだけ言うと、シェナは湊の横を通り過ぎた。
「シェナさん?」
シェナの足が止まった。
「明日、私はこの街を出ます」
湊は濡れた袖から顔を上げた。
「監察局に戻って、今回の任務から外してもらいます」
「待ってください」
考えるより先に声が出た。
シェナが振り返る。
「……俺のせいですか」
「違います」
「でも、今の話があったからですよね」
「私が湊さんを傷つけたからです」
シェナは記録帳を見た。
「そのことを分かったまま、明日も何もなかったように隣で記録を取ることはできません」
「だからって、帰らなくても」
「どうして引き留めるんですか」
どうして。
「湊さん?」
「待ってください」
さっきまで腹を立てていた相手だ。記録されていたことも、今までみたいに話せるのかも、まだ何一つ整理できていない。だけど、明日から工房へ来てもシェナがいなくて、仕事が終わっても一緒に飯を食わず、知らないものの話をする相手までいなくなると思うと、それだけは嫌だった。
何を言えばいいのかは分からない。
ただ、いなくなってほしくないなら、今分かっていることだけでも言わなければならない。
「シェナさん」
「なんですか」
息を吸った。
熱い。
喉。
声。
「俺……シェナさんと一緒に居たいみたいです」
「えっ」
シェナの目が見開かれた。唇が動いたものの、すぐには声にならない。目の縁に溜まったものが頬を伝った。
「あの、えっと……。今すぐには、その……。ごめんなさい」
記録帳を胸に抱え、シェナは背を向けた。そのまま工房の前の通りを走っていった。




