第4話 人を増やした日
翌朝、リールが二人の働き手を連れて工房へ入ると、炉の熱と獣脂の臭いが開いた戸口まで流れてきた。
若い男は、腰に空の鞘だけを下げており、その隣の女は、薬草店の印が入った注文書を指の間で小さくなるほど折り直していた。
「テオとシビラよ。二人とも、今日はここで働いてもらうわ」
湊は作業台の向こうから二人に挨拶し、イベリーは脂を入れた桶を端へ寄せた。テオは鍋と灰色の石鹸を見比べてから、腰の鞘へ手を置く。
「俺たち呼んで、やることは脂を煮るだけか?」
「そうよ。今日は鍋の前で働ける人を探してたの。嫌なら今なら帰ってもいいけど」
「いや。剣が直るまで稼げりゃいい。やるよ」
「シビラは?」
「はい。薬草代が必要なので、仕事をいただけるなら助かります」
リールは二人に一日ごとに賃金を払う日雇いの契約書を渡した。テオは最後まで読まずに署名しかけたが、シビラに止められ、最初から読み直していた。
「これなら、少なくとも昨日の倍にはできます」
「四人になったから?」
「はい。手も二倍ですし」
「なら今日は、それを確かめましょう。どこで止まったかも残しておくわ」
新しい帳面を開く。
「湊、昨日と同じやり方を二人にも教えて。最初から最後まで、それぞれ一つずつ作ってもらうわ」
* * *
脂を刻んでいたテオが包丁を止めると、白い脂が刃に張りついた。
「湊、このくらいでいいのか?」
湊は脂を一片受け取り見本を作った。
「これくらいです。大きさはそろえてください」
見本を作っているあいだ、湊自身の仕込みは進まなかった。戻る頃には、シビラが灰汁を抱えたままイベリーを待っていた。
帳面には、誰が誰を待ったかだけを残した。
昼の鐘が鳴る頃には、テオの鍋から焦げた獣脂の臭いが立ち、シビラの仕込みも売り物にはならなかった。
「……脂煮るだけだと思ってたんだけどな」
「みんな、一度、手を止めて」
リールの声に合わせて四人が作業台の周りへ集まると、リールは午前中の記録を開いた。
「このまま、一人ずつ教える?」
「初めてなら見本は必要です。何も分からないまま任せるのは……」
「なら午後は、一人で一鍋を作るのをやめましょう」
午後は一人一鍋をやめ、テオとシビラには判断のいらない作業を任せることにした。材料と火加減はイベリー、次に何を始めるかだけは湊が決めた。
「一つの石鹸を、四人で作るんですか」
「今はね。全部覚えるのを待ってたら、注文の方が先に増えるわ」
* * *
午後になると、炉の前では木べらが鍋を擦る音が途切れなくなった。
シビラが灰汁の鉢を持ってきた。
「イベリーさん、こっちはどうでしょう」
イベリーが中を確かめ始めたところで、今度は湊の声が重なる。
「イベリーさん、次の鍋も見てもらえますか」
「はい。今――」
火の前では、テオの鍋も煮詰まり始めていた。イベリーの手には、まだシビラから受け取った鉢がある。
自分で見るだけなら、こんなに迷わないのに。人にこれでいいと返すだけで、同じ灰汁が急に怖くなる。
「待ってください。順番に見ますから」
イベリーはシビラの鉢を返すと、そのまま次の鍋へ向かった。
リールの羽ペンが、また帳面の上を走った。
夕方、作業台に売り物として残った石鹸は三個だった。人を二人増やしても、昨日より一つ増えただけだ。
「……すみません。私がもっと早く見られれば、もう少しできたと思います」
「なんでお前が謝るんだよ。失敗したの俺だぞ」
二人はリールを見た。
「どっちも違うわ。初めて来た人が、イベリーに聞かないと進めない形にした私の方が悪い。今日はここまでにしましょう」
リールは二人へ賃金を渡した。テオは硬貨を数えたあと、失敗した鍋へ目を向ける。
「三個しかできてねえのに、全部もらっていいのか?」
「今日働いた時間に払う契約よ。売れた数に払うとは書いていないわ」
「明日も同じ鐘まででいいんだな」
「ええ。今日と同じ条件でお願いするわ」
シビラは硬貨を薬草店の注文書と一緒にしまい、帰り際に明日使う灰の場所をイベリーへ聞いた。
二人が帰ると、湊はリールの帳面を手元へ引き寄せた。午前にも午後にも、イベリー待ちと湊待ちが並んでいる。
湊はしばらく帳面を見ていた。
「……これ、また二人増やしても同じですね」
「ええ」
「俺とイベリーさんが、もう一人ずつ必要になりますね」
リールは売り物にならなかった石鹸を見た。
「そう。だから次は、聞かなくても作れるようにするの」
* * *
仕事を終えたあと、イベリーに誘われて、リールは最近できた茶葉屋のマトリカリアへ寄った。
扉を開けると、青い草の匂いに甘い花の香りが混じって流れてきた。壁一面の棚には、乾燥させた薬草を詰めた瓶が並んでいた。
さっきまでいた工房の獣脂臭が、まだ袖には残っていた。
「ここ、ずっと来てみたかったんです」
向かいに座ったイベリーは、湯気の立つ杯を両手で包んだ。薬草店では見たことのない葉を選んだらしく、湯の色は薄い琥珀色になっている。
「だったら、湊も誘えばよかったのに」
「今日は、リールさんと来たかったんです」
「あら」
イベリーが財布を出し、二人分の銅貨を会計皿へ置いた。
「それと、今日は私が払います」
差し出された銅貨を見て、リールは口を挟まなかった。
初めて商館へ来た日は、自分にも賃金が出ると聞いただけで驚いていた。その銅貨で、今は人を茶へ誘っている。
店員が二人分の杯を置くと、乾いた葉の香りが湯気と一緒に立った。リールが口をつける。苦みのあとから、舌の奥にかすかな甘さが残った。
「今日、私、全然駄目でした」
イベリーが杯を覗き込んだ。
「何が?」
「みんなに聞かれると、怖くなって。自分で灰汁を見るだけなら、今まで普通にやってたのに」
「でも、最後まで見たでしょう」
「三個しかできませんでした」
「それはあなた一人の仕事じゃないわ」
「分かってます。……分かってるんですけど」
イベリーは杯を持ち直した。
「最初は、私が知ってることなんて、父も店のみんなも知ってるし、別に何でもないと思ってました」
「そう言ってたわね」
「今は、みんな私に聞きに来ます」
ようやく、イベリーが顔を上げた。
「変な感じです。でも……ちょっと、嬉しいです」
「なら、よかったじゃない」
「リールさんは、最初から分かってたんですか?」
「何が?」
「私が知ってることにも、お金を払う価値があるって」
リールは杯の縁に指を添えた。
「価値があるかどうかを決めたのは私じゃないわ。湊があなたを必要として、私がその仕事を頼んだ。それだけよ」
「でも、私ならたぶん、お金なんてもらわずに手伝ってました」
「でしょうね」
「だから、どうして払ってくれたんですか?」
湯気が薄くなり、さっきまで強かった薬草の香りも落ち着いてきていた。
「どうして? そんなの、働いたからよ」
「それだけですか?」
リールはすぐには答えなかった。
「……自分が作ったものを、相手の都合で価値がないことにされるのが嫌いなの」
イベリーが瞬いた。
「前に、そうされたことがあるんですか?」
「昔ね」
リールが笑うと、イベリーは何を思い出したのか、それ以上は聞かなかった。
杯の底には、細かな葉が沈んでいる。
「だから、リールさんは商人になったんですか?」
「それだけじゃないけど、誰かが勝手につけた値段で終わるのが嫌なのよ。私が価値を見つけたなら、ちゃんと商売にしたいの」
「……石鹸も?」
「石鹸も。あなたの仕事も」
イベリーはしばらく黙ったあと、自分が払った二人分の銅貨が消えた会計皿を見た。
「じゃあ、私が今日リールさんにお茶を奢ったのも?」
「それはあなたが勝手に使ったお金でしょう」
「私が働いて、もらったお金ですから」
「そうね」
イベリーが笑った。
リールも杯を持ち上げる。もう湯気はほとんど立っていなかったが、口に含むと薬草の苦みはまだ残っていた。
「次は、もう少し甘いのにしましょう」
「また一緒に来てくれるんですか?」
「あなたが誘うならね」




