第3話 触れてはいけない石鹸
二日前は裏口だった。それが今日は、招待状を見せただけで正面玄関が開く。
同じ家でも、持ってくる話が変われば入口まで変わるらしい。
「昨日言っていた、いちばん見られている人って、こちらの奥様なんですね」
「ええ。だから今日は、石鹸より奥様の周りを見ていて」
「石鹸を使うところじゃなくて?」
「狙いはあるわ。どこまで効くかは、やってみないと分からないけど」
戻ってきた使用人に案内され、二人は女主人の待つ応接室へ入った。
リールの包みを見るなり、女主人は挨拶もそこそこに椅子を勧める。
「それで? 昨日のお手紙には、見たことのない品としか書かれていなかったわね」
「先に説明してしまうより、実際にお使いいただいた方が早いと思いまして」
「ふーん、ずいぶん小さな包みだけれど、それがそうなの?」
「はい。ただし、今日はお売りできません」
女主人は差し出しかけた手を止めた。
「売らないものを、商人が持ってきたの?」
「今日は、売る前のお願いに参りました」
「お願い?」
「午後のお茶会で、奥様だけに一度お使いいただきたいのです」
「私だけ?」
「はい。使ったあとは、お客様から見える洗面台へ置いてください。欲しがる方がいても、触れさせないようお願いいたします」
女主人は石鹸ではなく、リールを見る。呆れたというより、面白がっている目だった。
「……ずいぶん意地の悪いお願いね」
リールも女主人を見返す。断る人なら、昨日の帳簿でこのページは開いていない。
「お嫌でしたら、お断りいただいて構いません」
「それを聞いて、断ると思う?」
今度は隣の湊を見る。
「でも、こちらは納得していない顔ね」
「俺は、使ってもらった方がいいと思っています。汚れを落とすものなので」
「あなたが作ったの?」
「はい。イベリーさんと二人で」
「なるほど。あなたは皆に使ってほしい。こちらの商人は使わせたくない」
包みを受け取る。
「ふふっ、面白いわ。午後までに、使い方だけ教えてちょうだい」
* * *
午後の茶会では、焼き菓子と果実の蜜を使った菓子が振る舞われた。
女主人は客の話が途切れたところで立ち上がり、焼き菓子を摘んでいた指を布で拭いながら、菓子皿の並ぶ卓を離れた。
リールが渡した石鹸を濡らして擦ると、灰色の塊から白い泡が立つ。
「まあ。本当に油が消えたわ」
水で流した指先を布で拭き、隣にいた客へ見せる。甘い菓子と香油が混じっていた臭いも残っていなかった。
「その灰色のものが?」
「石鹸というそうよ。水だけでは落ちない汚れを洗えるのですって」
「ずいぶん地味な色ね」
「でも、指には何も残っていないわ」
客の一人が洗面台へ近づき、石鹸に手を伸ばす。
「申し訳ございません。そちらは奥様だけのお品です」
使用人が、手を差し入れる。
「えっ、触れるだけでも?」
「お使いいただけるのは、奥様だけと伺っております」
伸ばした手が戻ると、今度は別の客がリールへ顔を向けた。
「それで、いくらなの?」
「まだ販売しておりません」
「なんですって!? 売り物ではないの?」
「同じ品質で、まだ数を揃えられないのです」
「では、用意できたら知らせて。うちにも置きたいわ」
「ちょっと、私にもお願い。夫は珍しい品に目がないの」
「あら、あなた、さっきは地味だと言っていたでしょう」
「色はね。でも、使えないとは言っていないわ」
笑いが起こったあとも、話題は石鹸から離れなかった。
菓子ばかり見ていた客まで、帰り際には使用人へ商館の名を尋ねている。
使ったのは一人だけ。それなのに、触れられなかった客の方が、いつまでも石鹸の話をしている。
ここまでは、狙いどおり。
客が帰り始めると、玄関先では二人の使用人がリールを待っていた。客だけでなく、使用人まで欲しがるとは思っていなかった。
いつ用意できるかは答えず、商館の場所だけ教えた。
茶会が終わると、女主人は洗面台に残った石鹸を包まず、そのまま銀の小皿へ置いた。
「次に人を招く日まで、預かっても構わないかしら」
「もちろんです。ただし、ほかの方にはお使いにならないようお願いいたします」
「分かっているわ。私だけの品なのでしょう?」
帰りの馬車へ向かう途中、湊が口を開いた。
「……欲しいって言ってる人にも、渡さないんですね」
「湊なら渡すでしょうね」
「渡しますよ。せっかく使いたいって言ってるのに」
「分かってるわ」
「じゃあ、なんで――」
「一個しか渡せないからじゃないわ。一人しか持てないようにしたの」
「……わざとですか」
「ええ」
「欲しいって言わせるためですか?」
「そうよ」
「俺は、使ってほしくて作ったんです」
「ええ。分かってる」
「だったら――」
「湊。明日になれば分かるわ」
湊は正面玄関を振り返った。開いた扉の向こうには、洗面台の銀皿がまだ見えていた。
* * *
翌朝、茶会を開いた大商家の責任者が、リールの商館を訪れた。
「この間はどうも」
「北街道の荷は、間に合いましたか」
「昼前には着いた。あの道順がなければ、もう少しかかっただろう」
「調査がお役に立ったようで何よりです」
責任者は咳払いした。
「……奥様からだ。同じ石鹸を十個用意してほしい」
「ご注文として承ります」
「いつ届けられる?」
「まだ、お約束できません。同じものを作れる数が限られています」
責任者は店内を見回す。二日前は地図しか見なかった男が、今日は空の棚を見回している。
「茶会にいた連中より後になるというのか」
「皆様からは、昨日のうちにご注文をいただいております」
「奥様がお望みなんだぞ」
「承知しています。十個でよろしいですか」
責任者は息を吐いた。
「あぁ。できたものから届けてくれ」
「承知しました」
責任者が帰ったあとも、昼まで注文の使いが途切れなかった。
昨日は「いくら」だった。今日は「いつ届く」ばかりだ。受け取り日だけは約束せず、注文帳へ名前と数を加えていった。
値段より、手に入るかどうかを気にし始めている。
その日の夕方、注文帳を持って工房へ向かうと、作業台には二つの石鹸が並んでいた。前日より形が揃い、獣脂の臭いもほとんど残っていない。
リールは注文帳を作業台へ置いた。
「二個じゃ足りないわね」
「今、何人待ってるんですか?」
「二十七人よ」
「二十七人!?」
湊が注文帳を開くと、名前は次のページまで続いていた。イベリーも隣から覗き込む。
「昨日、使ったのは奥様だけですよね」
「ええ。待ってる二十七人は、誰も使ってないわ」
「……誰も、使ってないのに」
売れるかどうかはもう試さなくていい。次に見るべきなのは、客の方じゃないわ。
「明日から、人を増やすわ」




