第2話 ひとつだけ
翌朝、リールが商館裏の空き家を開けると、閉め切っていた埃が足元で舞い、炉と棚の間を測るように歩いていた湊が振り返った。
昨日できたものをもう一度作れるか確かめるだけなら、まずはここで足りるでしょう。
「本当に、ここを使っていいんですか」
桶を抱えたイベリーは、煤の残る炉を覗き込みながら、まだ敷居の外に立っていた。
「昨日、そう契約したでしょう。湊の寝床は二階よ。使う前に窓だけ開けておいて」
「はい。ありがとうございます」
「お礼は、昨日も聞いたわ」
リールが鍵を渡すと、イベリーは今度こそ中へ入り、桶を置けそうな場所を探し始めた。昨日まで寝床もなかったくせに、湊はもう鍋と作業台をいくつ置けるか数えている。
「それで、最初は何個くらい作ればいいですか」
「作れるだけ作って。ただし、商会の品として人前に出すのは一つだけよ」
「一つだけ、ですか」
「ええ。まず昨日と同じものを作れるか確かめましょう」
* * *
夕方、リールが空き家へ戻ると、六個の石鹸が作業台に並んでいた。色も固さも形もばらばらで、昨日の試作品に近いのは最後の一個しかない。
「これなら、最初の物とほとんど同じです。泡も立ちます」
リールも手を洗ってみた。脂は落ち、洗ったあとにざらつきもない。ただ、鼻先へ近づけると、獣脂の臭いがわずかに残っている。
「イベリー、これを嗅いで何を思い出す?」
「ええと……父の解体場です」
「最初にそれを思い出すものを、自分の家へ置きたい?」
イベリーは首を横に振った。
「でも、父なら気にしないと思います。手についた脂が落ちる方が大事なので」
リールは最後にできた一個を作業台の端に寄せ、残った石鹸を見た。
「なら、そっちは解体場に持って帰っていいわ。使った人に、何を洗ったかと使いにくかったところを聞いてきて」
「分かりました」
イベリーは残った石鹸を一つずつ布に包み、リールは作業台に残した石鹸を別の布で包んだ。
「明日も、この手順で作って。残りは使った人の反応まで記録すること」
「持っていくのは、本当にこれだけですか」
「今はね」
* * *
商館へ戻ると、リールは布に包んだ石鹸を机の中央へ置いた。
湊は椅子へ座るより先に、その包みを見た。
「さっき、商会の品として見せる一個は別って言いましたよね」
「ええ」
「その一個も、必要な人に渡したいです。血とか脂とか、水だけじゃ落とせなくて困ってる人に」
「それなら聖堂でしょうか。怪我をした方も来ますし」
イベリーがそう言うと、湊が頷いた。
「聖堂なら、血を落とす道具としては使ってもらえるでしょうね」
「じゃあ――」
「でも、最初はそこへ持っていかないわ」
湊の口が止まった。
「でしたら、洗濯屋でしょうか。毎日いろいろな汚れを落としていますし」
「イベリーも、使う人を探すのね」
「使うものなんですから、当然じゃないですか」
「俺もそう思います。使ってもらうために作ってるんですから」
「ええ。覚えてるわ」
リールは取引先の帳簿を引き寄せた。
「だから、最初の一個を一人で使って終わりにはしない」
「その人に使ってもらうために選ぶんじゃないんですか?」
「使ってはもらうわ。ただ、その人一人のためには選ばない」
帳簿をめくり、菓子と茶葉の注文が月に何度も並び、そのたびに品目も変わっているページで手を止めた。
一人で使って終わる家ではない。
「その人自身が困っているかは、後なんですか」
「最初の一個はね」
「……俺なら、困ってる人に渡します」
「知ってるわ」
リールは便箋を一枚引き寄せた。
「でも、最初の一個には、次の人まで連れてきてもらう」
湊はまだ石鹸を見ていた。
リールは招待を願う文面を書き始めた。
「いちばん、見られている人に渡すわ」




