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境界線の商人  作者: カミツキ
三つ葉の商会

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第2話 ひとつだけ

 翌朝、リールが商館裏の空き家を開けると、閉め切っていた埃が足元で舞い、炉と棚の間を測るように歩いていた湊が振り返った。昨日できたものをもう一度作れるか確かめるだけなら、まずはここで足りるだろう。


「本当に、ここを使っていいんですか」


 桶を抱えたイベリーは、煤の残る炉を覗き込みながら、まだ敷居の外に立っていた。


「昨日、そう契約したでしょう。湊の寝床は二階よ。使う前に窓だけ開けておいて」

「はい。ありがとうございます」

「お礼は、昨日も聞いたわ」


 リールが鍵を渡すと、イベリーは今度こそ中へ入り、桶を置けそうな場所を探し始めた。昨日まで寝床もなかったくせに、湊はもう鍋と作業台をいくつ置けるか数えている。


「それで、最初は何個くらい作ればいいですか」

「作れるだけ作って。ただし、外に出すのは一つだけよ」

「一つだけ、ですか」

「ええ」

「一つでは、使える人も一人しか増えません」

「同じものをもう一度作れるかも分からないのに、何人へ売るつもり?」


 湊にとっては、一度作れたものはもう『作れるもの』らしい。


「作り方は分かっています。材料もあります」

「なら、その試作品と同じ石鹸を、今日は何個作れる?」

「鍋を借りられれば――」


 湊の返事が止まった。


「……同じもの、ですよね」


 灰汁も脂も途中から目分量で、火から下ろした時刻さえ残っていないなら、同じものをもう一度作れる根拠はどこにもない。


 昨日うまくいった手順を、覚えているだけだ。


「今日は、使った脂と灰汁の量、火へかけた時間を全部書いて。形が悪くても、臭いが残っても捨てないこと」

「失敗したものもですか?」

「ええ、むしろ失敗したものほど残して。違うところが分からなければ、明日また同じ失敗をするわ」

「ねぇリールさん、売りに出す一個は、どうやって決めるんですか」

「今日の終わりに決めるわ。それまでは、売ることより同じ手順を残して」


 今度は湊も言い返さず、イベリーと鍋の置き場所を確かめ始めた。


 * * *


 夕方、リールが空き家へ戻ると、六個の石鹸が作業台の端まで場所を取り、炉にはまだ灰の赤みが残っていた。朝、作り方は分かっていると言っていたのに、色も固さも形もばらばらで、最初の試作品に近いのは最後の一個しかない。


「これなら、最初の物とほとんど同じです。泡も立ちます」


 リールも手を洗ってみた。脂は落ち、洗ったあとにざらつきもない。ただ、鼻先へ近づけると、獣脂の臭いがわずかに残っている。


「イベリー、これを嗅いで何を思い出す?」

「ええと……父の解体場です」

「最初にそれを思い出すものを、自分の家へ置きたい?」


 イベリーは石鹸を嗅ぎ直したあと、首を横へ振る。


「でも、汚れは落ちます」


 湊が別の石鹸を取り上げた。形は少し崩れているが、泡立ちは最後に作った石鹸と変わらない。


「これも使えます。売らないなら、必要な人に渡してもいいですよね」

「自分たちで使う分には構わないわ」

「売るのは駄目なんですか」

「あなたは、店に並んだこれを見て、お金を出したいと思う?」

「石鹸だと分かっていれば」

「この街で、それを知っているのはあなたたちだけよ」

「使えば、良さは分かります」

「手に取ってもらえればね」


 その石鹸を机の端へ置き、少し離れて眺めた。表面の欠けた灰色の塊は、事情を知らなければ、洗う道具より先に捨て損ねた脂に見える。


「これが、知り合いの家の食卓に置かれていたら、触ってみたいと思う?」


 湊はすぐには答えず、イベリーも石鹸と自分の手を見比べていた。


「……石鹸だと教えてもらえれば」

「教えてもらう前に避けられたら、そこで終わりよ」

「では、これは解体場で使います」


 イベリーが欠けた角を指で確かめると、小さな石鹸の屑が作業台へ落ちる。


「父なら、形は気にしないと思います。手についた脂が落ちる方が大事なので」


 石鹸をポケットへしまう。


「使った感想もちゃんと聞いて、ここに書いておきますね」

「それなら無駄にはなりませんね」


 リールは石鹸を取り分けた。


「明日も、この手順で作って。残りは使った人の反応まで記録すること」

「持っていくのは、本当にこれだけですか」

「今はね」


 * * *


 商館へ戻ると、リールは布に包んだ石鹸を机の中央へ置き、取引先の帳簿を開いて、湊とイベリーを向かいへ座らせた。


「最初は聖堂がいいと思います。必要としている人も多いので」

「聖堂へ持っていけば、血を落とす道具としては認められるでしょうね」

「それなら――」

「でも、最初はそこへ持っていかない」


 イベリーは帳簿をめくる。


「では、洗濯屋でしょうか」

「二人とも、使う人から探すのね」

「使わない人に渡しても仕方ないでしょう」

「そう思うでしょうね。でも、最初の一個で見たいのは、使った人だけじゃないわ」


 リールは帳簿をめくり、菓子と茶葉の注文が多く、贈り物にはいつも人目を引く品を選ぶ客のページで手を止めた。この客なら、石鹸をしまい込んではおかない。人が来れば、きっと見せる。


「その人自身が困っているかは、後なんですか」

「最初の一個はね」

「……俺なら、困ってる人に渡します」

「そうでしょうね。でもまずは、困っている人でも、お金を持っている人でもない」


 リールは手紙を、一つだけ包んだ石鹸の上へ重ねた。


「いちばん、見られている人に渡すわ」

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