第1話 値段のつかないもの
リールが商館へ戻る頃には、昼を告げる鐘が鳴っていた。
売上のない輸送計画を帳簿の脇へ置くと、解体屋の娘、イベリーが、見慣れない服を着た少年を連れて店へ入ってきた。
普段は父親の代わりに買い取り証を届けて帰る娘が、今日は白い脂のこびりついた桶まで抱えていた。
「リールさん。お忙しいところ、すみません。こちらは、湊さんです。昨日この街へ来たばかりなんですけど、どうしても見ていただきたいものがあって」
「あなたが商談を頼みに来るなんて、珍しいわね」
「あの、商談になるかどうかも、まだ分からないんです。でも、父の店で捨てていたものが、商品になるかもしれなくて」
最後は、聞き返さなければならないほど小さな声になった。
「分かったわ。二人とも、奥へ」
応接室に通したあとも、リールは帳簿に最後の一文字を書き終えるまで顔を上げなかった。羽ペンを置いてから、湊が膝の上に抱えた布包みに目を向けた。
「おまたせ、さっそく見せてちょうだい」
「はい、この石鹸です。水だけでは落ちない脂や血を洗えます」
布の中から現れたのは、形の歪んだ灰色の塊だった。
「……これで?」
湊が水で濡らして擦ると、白い泡が立った。イベリーが持ってきた獣脂を指につけて洗えば、べたつきも臭いも消え、乾いた血のついた革も元の色に戻った。
リールは洗った指を擦り合わせ、それから灰色の塊を見た。
「これは、何から作ったの?」
「獣の脂と、木の灰です」
今度は、イベリーの抱えてきた桶に目を向けた。
「一日にどれだけ集まるの?」
「昨日は、この桶一つ分です。獣が入った日はその日のうちに捨てています。裏にもまだ残っていました」
捨てていたものが、一日で一桶。
「昨日初めて作ったもの?」
「はい」
「なら、次は同じものを作れるか確かめたいわ」
「俺一人では難しいです。でも、イベリーさんがいれば」
イベリーが目を瞬いた。
「私ですか?」
「灰汁の濃さ、昨日はイベリーさんが見てくれましたよね」
「でも、あれくらいなら解体屋では普通に……」
「俺は解体屋じゃないです」
「でも、濃いか薄いかを見るくらいなら、父もみんなもやっています」
「俺は昨日、それが分からなかったんです」
イベリーの返事が止まった。抱えてきた桶の縁には、白い脂がまだこびりついていた。
「……昨日、私がいなかったら?」
「たぶん、失敗してました」
イベリーはもう一度、桶を見た。
作れるだけでは、足りない。
「湊。この街で、それを石鹸だと知っている人は?」
「俺と、イベリーさんくらいだと思います」
リールは灰色の塊を布の上に戻した。
「なら、このまま店に置いても、客には何をする物かも分からないわね」
「使ってもらえれば、良さは分かります」
「ええ。問題は、そこまでどうやって持っていくかよ」
湊は灰色の塊を見た。
「俺なら、使い方を聞きます」
「だからあなたは、これを持ってきた側なのよ」
リールは布の上の灰色の塊を取り上げた。
「取引をしましょう。寝床と食事、材料はこちらで用意する。その代わり、まず同じものをもう一度作って」
「できたら、そのあとは?」
「そこから先の条件を決めましょう」
「……できなかったら?」
「今と同じ条件では続けられないわ」
「寝床もですか?」
「ええ」
湊は膝の上の布包みを見た。
「……結構、厳しいですね」
「商売だから」
「分かりました。やります」
なら、湊の方はこれでいい。
「イベリー、あなたは? 湊に付き合うだけなら、無理に受けなくていいのよ」
「……やりたいです。脂のことなら父の店で分かりますし、灰汁も昨日みたいに私が見られます」
「なら、あなたにはその判断をお願いするわ。働いた分はこちらから払います」
「私にもですか?」
「仕事を頼むんだから当然でしょう」
リールが石鹸を布に戻したところで、湊が続けた。
「できるだけ安くしたいんです。みんなが買える値段にできれば」
「最初から?」
「はい。必要な人ほど、お金がないかもしれないから」
安く。
まだ一人も、欲しいとは言っていないわ。
「安く売るのは、最後よ」




