プロローグ 売れなかった地図
「良い計画だ。君に任せよう」
大商家の応接室では、依頼を出した責任者が机の向こうに座り、書記がその脇につき、女商人のリールは地図を広げた机を挟んで正面に腰掛けていた。
その言葉を聞くまでに、リールは昨日一日、崩れた北街道を歩いていた。荷車が通れる敷石を確かめ、途中で馬を替えられる農場を押さえ、急ぎの荷だけ北街道へ通して残りは東へ回す。
費用は銀貨十五枚に収まり、期限にも間に合う。
「ありがとうございます。それでは、契約書に署名をお願いします」
書記が契約書を引き寄せ、金額を書き始めた。
これで取れる。
奥の扉が開いた。
「待たせたな。北街道の荷だったか」
「魔術師殿。来たか。だが、もうこちらの商人へ頼むことに――」
魔術師は机まで歩み寄り、地図の一角を指した。
「急ぎはこれだけか?」
「そうだが」
「なら、俺が運べる。途中で道が塞がっても、この量なら問題ない。明日の昼には着く」
「費用は?」
「金貨二枚だ。ここまで調べてあるなら、それでいい」
銀貨十五枚より高い。それでも、リールの計画にはないものが一つあった。
必ず着く。
責任者の手が、書きかけの契約書を押さえた。
「分かった。頼もう」
「荷札の番号をくれ。あと、この地図も借りたい」
「ああ。それを持っていってくれ」
責任者が地図を魔術師の方へ押し出したところで、リールは紙の端を押さえる。
魔術師が運ぶのは荷だけだ。それなのに、昨日歩いて確かめた敷石も、押さえた馬も、そのまま魔術師の仕事に使われようとしている。
そこまで、ただで渡す理由はない。
「お待ちください! その地図をお使いになるのでしたら、調査料をいただきます」
「君の案は採用していないぞ」
「輸送ではなく、地図の調査料です」
責任者が書記に言った。
「運ぶ荷札の番号を書け。右端の敷石と、途中で馬を替えられる農場もだ」
「……右端の敷石と農場の情報も、お使いになるのですね」
「必要になるからな」
「でしたら、その分の調査料をお支払いください」
「使わないのでしたら、それで構いません。ただ、もう書き写されています」
書記の羽ペンが紙から離れた。責任者は、書き写された敷石と農場の情報を消せとは言わなかった。
「……商談というのは、そういうものだろう。見せられた条件を比べて、その中から一番いいものを選ぶ」
「選ばれなかった方から、使える部分だけ持っていくことまで含まれるとは思っていませんでした」
責任者は紙をリールの前へ滑らせた。
「地図は返す。だが、見たものまで忘れろと言われても、それは無理な話だ」
「忘れろとは言っていません。契約しないことにも文句はありません。ただ、昨日一日歩いて調べたものです。使うなら、その分は払ってください」
リールは返された地図を取らなかった。
責任者の眉がわずかに動く。
「君は商談の席で、その情報をこちらへ見せた」
「見せました。でも、それは買っていただくためです」
「こちらには、見たものを使うなという約束はしていない」
「そんな約束まで必要なんですか」
「あぁ、必要だったということだ」
責任者が紙を重ねると、端にまだ乾いていない墨がついた。
見せた途端、相手のものになるなんて、随分な商売だわ。
「……承知しました。お時間をいただき、ありがとうございました」
頭を下げたときには、責任者はもう魔術師へ急ぎの荷の積み方を説明していた。
裏口を出ると、軒下で荷車を動かす予定だった二人が待っていた。年配の男はリールに気づくと腰を上げた。
「リールさん、どうだった?」
「別の方に決まりました」
「ああ……。そうか」
男は荷運び場を覗いた。
「まさか……魔法か」
「ええ」
「はぁ……そりゃ、明日までって言われたら強いな。また急ぎじゃない荷があったら呼んでくれ」
「そうします」
二人を呼んだのも、朝から荷車を空けて待ってもらったのも自分だ。
帰りかけたところで、リールは財布を開いた。
「待ってください」
銅貨を差し出しても、年配の男は受け取らなかった。
「何だ、これ」
「朝から待っていただいた分です」
「おいおい、まだ何も運んでないぞ」
「待ってもらう約束はしました」
「仕事を取れなかったのは、あんただろ」
差し出した銅貨は、まだリールの指先にあった。
そこは、男の言うとおりだった。
「はい」
「だったら、あんたも一銭にもなってないじゃないか」
「それと、あなたの時間は別です」
男は銅貨へ手を伸ばしかけ、一度引っ込めた。
「……わかった。次は取ってこいよ」
「そのつもりです」
「なら、もらっておく」
今度は、その手が止まらなかった。
「その……なんだ。空荷で戻るだけだ。商館の近くまでなら乗っていきな」
「でも、申し訳ないわ」
「朝から歩き回ってたんだろ。いいから乗れって」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「おう」
二人の荷車に乗せてもらい、商館へ戻る途中、リールは売れなかった地図を膝の上に置いていた。
輸送の仕事は取れなかったし、北街道で集めた情報は魔術師の仕事に使われた。自分が仕事を取れなくても、自分の作ったものが誰かの仕事を動かせるのなら、売れるのは自分が請け負う仕事だけではない。
次は、それを最初から商売にする。




