第1話 値段のつかないもの
北街道が崩れて三日目の朝、商人のリールは、大商家の裏口で輸送計画の紙を広げていた。
「ですので、急ぎの荷だけ北街道を通します。右端の敷石は昨日確認しました。途中で馬も替えられます」
責任者は地図の線を追い、途中の農場まで目を通した。
「なるほどな。よく調べてある。それで銀貨十五枚以内なら安い。しかし、残りの荷はどうする?」
「東へ回します。遠回りになりますが、期限には間に合います」
「そうか。魔術師殿も来ないようだし、これなら通せそうだ。君に任せよう」
「ありがとうございます。それでは、契約書に署名をお願いします」
書記が契約書を引き寄せ、金額を書き始めた。
これで取れる。
リールが地図を畳もうとしたところで、奥の扉が開いた。
「待たせたな。北街道の荷だったか」
濃い青のローブを着た男が入ってきた。
「魔術師殿。来たか。だが、もうこちらの商人へ頼むことに――」
男は机の地図へ目を落とした。
「急ぎはこれだけか?」
「そうだが」
「なら、俺が運べる。途中で道が塞がっても、この量なら問題ない。明日の昼には着く」
「本当か!? 費用は?」
「金貨二枚だ。ここまで調べてあるなら、それでいい」
銀貨十五枚より高い。それでも、リールには言えないことが一つあった。
必ず着く。
責任者の手が、書きかけの契約書を押さえた。
「分かった。頼もう」
「荷の番号をくれ。あと、この地図も借りたい」
「ああ。それを持っていってくれ」
責任者が地図を男の方へ押し出したところで、リールは紙の端を押さえる。
魔術師が運ぶのは荷だけだ。それなのに、昨日歩いて確かめた敷石も、押さえた馬も、そのまま男の仕事へ使われようとしている。
そこまで、ただで渡す理由はない。
「お待ちください! その地図をお使いになるのでしたら、調査料をいただきます」
「君の案は採用していないぞ」
「輸送ではなく、地図の調査料です」
責任者はリールには答えず、書記へ言った。
「運ぶ荷の番号を書け。右端の敷石と、途中で馬を替えられる農場もだ」
「……右端の敷石と農場の情報も、お使いになるのですね」
「必要になるからな」
「でしたら、その分の調査料をお支払いください」
書記の羽ペンは、敷石と農場の名まで書き写していた。
「使わないのでしたら、それで構いません。ただ、もう書き写されています」
羽ペンが止まり、責任者も書記の手元を見たが、書いた文字を消せとは言わなかった。
「……商談というのは、そういうものだろう。見せられた条件を比べて、その中から一番いいものを選ぶ」
「選ばれなかった方から、使える部分だけ持っていくことまで含まれるとは思っていませんでした」
責任者は紙をリールの前へ滑らせた。
「地図は返す。だが、見たものまで忘れろと言われても、それは無理な話だ」
紙を重ねると、端にまだ乾いていない墨がついた。
「……承知しました。お時間をいただき、ありがとうございました」
頭を下げたときには、責任者はもう魔術師へ急ぎの荷の積み方を説明していた。
裏口を出ると、軒下で荷車を動かす予定だった二人が待っていた。年配の男はリールの顔を見るなり腰を上げた。
「どうだった?」
「別の方に決まりました」
「ああ」
男は荷運び場を覗いた。
「まさか……魔法か」
「ええ」
「はぁ……そりゃ、明日までって言われたら強いな。また急ぎじゃない荷があったら呼んでくれ」
「そうします」
二人が歩き出しかけたところで、リールは財布を開いた。
「待ってください」
銅貨を差し出すと、年配の男は受け取るより先にリールの顔を見た。
「何だ、これ」
「朝から待っていただいた分です」
「何も運んでないぞ」
「待ってもらう約束はしました」
「仕事を取れなかったのは、あんただろ」
「はい」
「だったら、あんたも一銭にもなってないじゃないか」
「それと、あなたの時間は別です」
男は銅貨へ手を伸ばしかけ、一度引っ込めてから受け取った。
「……次は取ってこいよ」
「そのつもりです」
「なら、もらっておく」
* * *
商館へ戻る頃には、昼を告げる鐘が鳴っていた。
売上のない輸送計画を帳簿の脇へ置くと、解体屋の娘、イベリーが、見慣れない服を着た少年を連れて店へ入ってきた。
普段は父親の代わりに買い取り証を届けて帰る娘が、今日は白い脂のこびりついた桶まで抱えている。
「リールさん。お忙しいところ、すみません。こちらは、湊さんです。昨日この街へ来たばかりなんですけど、どうしても見ていただきたいものがあって」
「あなたが商談を頼みに来るなんて、珍しいわね」
「あの、商談になるかどうかも、まだ分からないんです。でも、父の店で捨てていたものが、商品になるかもしれなくて」
最後は、聞き返さなければならないほど小さな声になった。
「分かったわ。二人とも、奥へ」
応接室に通したあとも、リールは帳簿へ最後の一文字を書き終えるまで顔を上げなかった。羽ペンを置いてから、湊が膝の上に抱えた布包みへ目を向ける。
「それが新しい商品?」
「石鹸です。水だけでは落ちない脂や血を洗えます」
布の中から現れたのは、形の歪んだ灰色の塊だった。リールは石鹸より先に、イベリーの抱えている桶を見る。
「一日にどれだけ集まるの?」
「それは……イベリーさん、昨日は?」
「昨日は、この桶一つ分です。獣が入った日はその日のうちに捨てています。裏にもまだ残っていました」
昨日だけで一桶あるなら、試作のたびに材料を探し回る必要はない。
「試しても?」
「もちろんです」
イベリーから脂を少し受け取り、指先へ塗る。石鹸を水へ浸して擦ると細かな泡が立ち、脂が水面へ浮いた。流したあとには、べたつきも獣の臭いも残っていない。
「血も落ちます」
イベリーが差し出した革切れには、乾いた血がこびりついていた。泡を載せて擦ると、黒ずんだ赤が泡へ移り、下から革本来の色が現れる。
洗った指先を擦り合わせる。べたつきはない。
「同じものを、もう一度作れる?」
「俺一人では難しいです。でも、イベリーさんがいれば」
「私ですか?」
「灰汁の濃さ、昨日はイベリーさんが見てくれましたよね」
「見たというか、父の仕事で慣れていただけで……」
「俺には分からなかったので」
作り方を持ってきたのは湊でも、加減を知っているのはイベリーだった。
「なら、取引をしましょう。寝床と食事、材料はこちらで用意する。その代わり、色と臭いを整えて、同じ形のものを何度でも作れるようにして」
「ありがとうございます」
「お礼は、同じものができてからでいいわ」
「……寝床も、それまでですか?」
「食事もね」
「分かりました。やります」
返事に迷いはない。湊の方はこれでいい。
「イベリー、あなたは? 湊に付き合うだけなら、無理に受けなくていいのよ」
「……やりたいです。脂のことなら父の店で分かりますし、灰汁も昨日みたいに私が見られます」
「なら、そこはあなたに任せるわ」
リールが石鹸を布へ戻したところで、湊が続けた。
「できるだけ安くしたいんです。みんなが買える値段にできれば」
安く。
まだ同じものをもう一つ作れるかも分からないのに、安くする話を先にしてどうするの。
リールは灰色の石鹸を布で包み直した。
「安く売るのは、最後よ」




