第47話 帰る道
新しいダンジョンの入口は、前にテオと来たときと何も変わっていなかった。
岩肌の裂け目から冷たい空気が流れ出し、外の明るさは数歩も入れば背中側にしか残らなくなる。
ゲリオンを先頭に、湊とリグレットが数歩後ろを続いた。
「Fランク君、そこ段差あるよ」
「覚えてます」
「前も引っかかった?」
「引っかかってません」
「じゃあ何で覚えてんの?」
リグレットの声はいつもと変わらなかった。
その前を歩くゲリオンは振り返らず、壁際へ寄った。
「しゃべんのは構わねえが、足音まで聞こえなくすんじゃねえぞ」
「はーい」
「姉ちゃん、返事だけ軽くすりゃいいってもんじゃねえからな」
リグレットが湊の隣まで下がってきた。
「怒られちった」
「聞こえてますよ」
「聞かせたの」
前ではゲリオンが小盾を上げたまま、曲がり角の手前で止まっていた。
前に来たとき、湊はテオの背中を追うだけだった。どこまで進んだのかも、次の角に何があるのかも、テオが止まってから知った。
ゲリオンは違った。
角を曲がる前に足元を見て、そのあと壁を見る。天井から水が落ちている場所では真下を通らず、狭い道へ入る前には、来た道を一度振り返った。
「右は?」
「そっちは行ってません。俺たちは左へ行きました」
「なら左だ。知らねえ道まで増やす必要はねえ」
迷わないのではなく、増やさないらしい。
しばらく進むと、灯りの端で半透明のものが動いた。
「ルゥラです」
「一匹?」
ゲリオンに聞かれ、湊は奥まで目を凝らした。
「見えるのは一匹です」
「見えるのは、な」
ゲリオンは進まなかった。
リグレットも弓を構えたまま、矢を放たない。
ルゥラが床を滑るように近づいてくる。その右手、岩陰でもう一つ、紫がかった半透明の身体が動いた。
「あ、二匹」
「だから前だけ見んなって言ったろ」
一匹目が跳ねた。
ゲリオンは小盾を前へ出したが、受け止めるのではなく横へ流した。ルゥラの身体が壁際へ逸れたところへ、リグレットの矢が刺さる。
二匹目はそのまま引いた。
「追わねえぞ」
「えー、今ならいけるって」
「行きてえなら一人で行け。俺ぁ帰る」
「助けに来た人が帰っちゃ駄目でしょ」
「だったら余計なもん追うな」
リグレットは矢をつがえ直すだけで追わなかった。
ゲリオンは倒れたルゥラにも近づかず、先に奥を確かめていた。
さっきの動きも、魔物を倒したというより、リグレットが射やすい場所へ押し出したように見えた。
「ゲリオンさんって、何ランクなんですか?」
湊が聞くと、リグレットが先に答えた。
「Aでしょ? 下手したらSじゃない?」
「Dランクだ」
「またまた」
「Dだって言ってんだろ」
リグレットの返事が止まった。
「……え?」
「耳まで悪ぃのか。Dランクだ」
「いやいやいや。待って待って。じゃあ冒険者になって何年?」
「十年くらいじゃねえか」
「詐欺じゃん! 見た目詐欺!」
「うるせえ!」
「だって十年でD!? その見た目で!?」
「どの見た目だ!」
「絶対、酒場の隅で新人に『昔は俺もSランクでな、この傷はよぉあの時の戦いで』とか言う見た目!」
「言ったことねえよ!」
こんな場所なのに、少しだけ緊張が抜けた。
それでも十年という言葉は残った。
「上がれなかったんですか?」
「昇格試験を受けてねえんだよ」
ゲリオンはそれだけ言って、また歩き始めた。
「今のランクで飯食えてんだ。わざわざ知らねえ魔物追っかけて、首ぃ突っ込む必要もねえだろ」
「でも、ここ新しいダンジョンですよ?」
「新しいつったって、もう帰ってきた奴ぁいる。入口近くを見て戻る調査なら、俺でもできるって話だ」
「ルゥラニュクスは?」
「あいつが出たら帰る」
返事が早かった。
「戦わないんですか?」
「何で戦うんだよ」
ゲリオンが今度こそ振り返った。
「倒しに来たんじゃねえ。帰ってこねえ奴を探しに来たんだろうが」
そうだった。
リグレットもそれ以上は何も言わなかった。
前に進むほど、湊には見覚えのある場所が増えてきた。壁が大きく抉れた場所を抜け、その先の二股を左へ曲がる。
喉が少し乾いた。
「この先です」
「でかいのが出た場所か?」
「はい」
前にテオが剣を折られた場所だった。
曲がり角の向こうにあった空間も、壁の形も覚えている。テオが立っていた場所まで、ほとんどそのままだった。
ただ、ルゥラニュクスはいない。
「ここです」
リグレットが周囲を見回した。
「何もいないね」
「前は、あっちから出てきました」
湊が奥の通路を示すと、ゲリオンはすぐには向かわなかった。
床へ灯りを近づけている。
「ゲリオンさん?」
「踏むなよ」
湊は出しかけた足を戻した。
石の上に薄く泥が乗り、その中に細い跡が続いていた。靴の跡らしいものもあるが、何度も誰かが通ったせいで崩れている。
その中で、一つだけ奥へ向かっている跡をゲリオンが示した。
「こいつぁ新しいな」
「分かるんですか?」
「古い方は縁が乾いてる。こっちはまだ黒い」
湊には並べて見ても、同じ泥にしか見えなかった。
リグレットが足跡の脇へ靴先を向けると、ゲリオンはしゃがんだまま、その周りの濡れた床を先まで追った。
「戻った跡は?」
「少なくとも、ここじゃ見えねえ」
ゲリオンは立ち上がった。
「行くぞ。ただし、ここから先は俺も知らねえ」
奥へ向かう跡を外さず、その先へ進んだ。濡れた床に残った足跡は、岩壁の曲がりに沿って暗がりへ続いている。
「Fランク君、離れないでね」
「はい」
「姉ちゃんもだ。弓持ってるからって先行くんじゃねえぞ」
「分かってるって」
「信用ならねえ返事だな」
奥へ入ると通路が狭まり、壁から染み出した水が床の中央を流れていた。
しばらく進んだところで、ゲリオンが止まった。
今度は何も言わない。
湊にも聞こえた。
奥から、石を叩くような音がした。
こん。
少し間が空く。
こん。
リグレットの声から、いつもの軽さが消えた。
「……誰かいる」
こん。
三度目の音のあと、ゲリオンは灯りを低くした。
「姉ちゃん、矢ぁつがえたまま右。若ぇのは俺の後ろだ」
「了解」
音は通路の先、左へ折れたところから聞こえている。ゲリオンは小盾を前に出したまま進み、角の手前で一度止まった。
こん。
また鳴った。
魔物が立てている音には聞こえない。一定の間隔で、一度だけ石を叩いている。
ゲリオンが角から半身だけ出し、すぐ戻った。
「人がいる。動いてねえ」
湊も続こうとすると、小盾で止められた。
「待て。人が倒れてりゃ安全って誰が決めた」
ゲリオンは先に床と天井を見て、それからゆっくり角を曲がった。
何も飛び出してこない。
「来い」
奥には小さな行き止まりがあった。
壁際に杖が転がり、その先端へ天井から落ちた水滴が当たっている。
こん。
そのすぐ横に、女が倒れていた。
「シェイム!」
湊は一歩出たが、ゲリオンの腕がまた前へ入った。
「姉ちゃん、周り見ろ!」
「見てる!」
リグレットはシェイムではなく、通路へ弓を向けていた。
ゲリオンがしゃがみ込み、シェイムの顔の横へ手を寄せる。次に首元へ触れ、肩を軽く叩いた。
「息ぁある。おい、姉ちゃん。こっちの腕見ろ」
袖が裂け、皮膚に紫色の跡が残っていた。
「ルゥラ?」
「分からねえ。決めつけんな」
ゲリオンはシェイムの杖を拾い、脇へ置いた。
「骨ぁどうだ」
「それ私に聞く?」
「俺よりゃマシだ。見て分かるとこだけ見ろ」
「雑な信頼だなぁ」
そう言いながらも、リグレットは弓を湊へ預け、シェイムの腕と脚を確かめた。
「右足は腫れてる。立たせない方がいいね。あとは……分かんない。とにかく連れて帰ろ」
「最初っからそのつもりだ」
ゲリオンが自分の外套を外し、床へ広げた。
「若ぇの、そっち持て」
「俺ですか?」
「姉ちゃんに持たせたら、帰りの弓がなくなるだろうが。戦えねえなら運べ。それも仕事だぜ」
「はい」
湊は預かっていた弓をリグレットへ返し、外套の端を持った。
行きは自分の足で歩いた道なのに、人を乗せるだけで狭さが変わる。曲がり角では壁へぶつけないよう持ち上げ、段差では前後で高さを合わせなければならない。
「止まれ」
ゲリオンが言うたび、湊も足を止めた。
「次、右足から下げるぞ」
「はい」
「おめえは前だけ見んな。俺が滑ったら一緒に持ってかれる」
言われて足元を見ると、さっきまで気にもしなかった水が石の上を薄く流れていた。
帰る道は、来たときより長かった。
リグレットは弓を構えたまま前を歩き、ときどき振り返った。何度こちらを見ても、さっきまでの軽口は一度も飛んでこなかった。
半分ほど戻ったところで、外套が急に揺れた。
「待て」
ゲリオンが止まる。
シェイムの指が動いていた。
「シェイム?」
湊が名前を呼ぶと、閉じていた目が開いた。
シェイムは何度か瞬きをして天井を見上げ、岩肌をたどった視線が暗い通路へ届いた瞬間、身体が跳ねた。
「いやっ!」
外套から起き上がろうとして、腫れた右足をぶつける。
「動くな!」
「あ、あ、ああああッ! 誰か、誰か助けてぇッ!!」
シェイムは自分の体を両腕でキツく抱きしめ、激しく震え出した。
「シェイム、もう帰ってる途中!」
リグレットが弓を下ろして近づいた。
シェイムは反応しない。
「いや……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない、死にたくないぃッ!」
杖を探すように両手が床を掻いた。
「ルゥラはいないよ。ここにはいない!」
「ひっ……う、あ、ああああッ!」
見開かれた瞳は完全に血走り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、ただひたすらに叫び続けていた。
「シェイム! 大丈夫だって」
「いる! あそこにいる!」
シェイムが指した先には、何もなかった。
それでも彼女は壁際まで逃げようとし、外套から落ちかけた。
「押さえつけんな!」
ゲリオンが湊の腕を止めた。
「でも」
「怪我してる場所だけ守れ。無理に寝かせんな」
シェイムの呼吸が速くなっていた。
息を吸っているはずなのに、次の息をすぐ求めている。喉から細い音が続き、言葉も途中から形にならなくなった。
「シェイム、こっち見て」
リグレットが正面ではなく、少し横へしゃがんだ。
「出口に向かってる。戻ってない。ちゃんと外に向かってるから」
「いや……やだ……」
「うん。嫌だよね。だから帰るよ」
シェイムは何度も首を振った。
「もう、やだ……やだ……」
「分かった。今はそれでいいから」
「見たくない……」
その声だけは、さっきまでよりはっきりしていた。
リグレットが湊へ目を向けた。
「Fランク君、杖持って」
「はい」
「見えるところに置かないで」
湊は脇に置かれていた杖を拾い、シェイムから見えないよう背中側へ回した。
ゲリオンも急かさず、シェイムが自分から外套へ身体を戻すまで待った。




