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境界線の商人  作者: カミツキ
三章 銀貨開戦

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第47話 帰る道

 新しいダンジョンの入口は、前にテオと来たときと何も変わっていなかった。


 岩肌の裂け目から冷たい空気が流れ出し、外の明るさは数歩も入れば背中側にしか残らなくなる。


 ゲリオンを先頭に、湊とリグレットが数歩後ろを続いた。


「Fランク君、そこ段差あるよ」

「覚えてます」

「前も引っかかった?」

「引っかかってません」

「じゃあ何で覚えてんの?」


 リグレットの声はいつもと変わらなかった。


 その前を歩くゲリオンは振り返らず、壁際へ寄った。


「しゃべんのは構わねえが、足音まで聞こえなくすんじゃねえぞ」

「はーい」

「姉ちゃん、返事だけ軽くすりゃいいってもんじゃねえからな」


 リグレットが湊の隣まで下がってきた。


「怒られちった」

「聞こえてますよ」

「聞かせたの」


 前ではゲリオンが小盾を上げたまま、曲がり角の手前で止まっていた。


 前に来たとき、湊はテオの背中を追うだけだった。どこまで進んだのかも、次の角に何があるのかも、テオが止まってから知った。


 ゲリオンは違った。


 角を曲がる前に足元を見て、そのあと壁を見る。天井から水が落ちている場所では真下を通らず、狭い道へ入る前には、来た道を一度振り返った。


「右は?」

「そっちは行ってません。俺たちは左へ行きました」

「なら左だ。知らねえ道まで増やす必要はねえ」


 迷わないのではなく、増やさないらしい。


 しばらく進むと、灯りの端で半透明のものが動いた。


「ルゥラです」

「一匹?」


 ゲリオンに聞かれ、湊は奥まで目を凝らした。


「見えるのは一匹です」

「見えるのは、な」


 ゲリオンは進まなかった。


 リグレットも弓を構えたまま、矢を放たない。


 ルゥラが床を滑るように近づいてくる。その右手、岩陰でもう一つ、紫がかった半透明の身体が動いた。


「あ、二匹」

「だから前だけ見んなって言ったろ」


 一匹目が跳ねた。


 ゲリオンは小盾を前へ出したが、受け止めるのではなく横へ流した。ルゥラの身体が壁際へ逸れたところへ、リグレットの矢が刺さる。


 二匹目はそのまま引いた。


「追わねえぞ」

「えー、今ならいけるって」

「行きてえなら一人で行け。俺ぁ帰る」

「助けに来た人が帰っちゃ駄目でしょ」

「だったら余計なもん追うな」


 リグレットは矢をつがえ直すだけで追わなかった。


 ゲリオンは倒れたルゥラにも近づかず、先に奥を確かめていた。


 さっきの動きも、魔物を倒したというより、リグレットが射やすい場所へ押し出したように見えた。


「ゲリオンさんって、何ランクなんですか?」


 湊が聞くと、リグレットが先に答えた。


「Aでしょ? 下手したらSじゃない?」

「Dランクだ」

「またまた」

「Dだって言ってんだろ」


 リグレットの返事が止まった。


「……え?」

「耳まで悪ぃのか。Dランクだ」

「いやいやいや。待って待って。じゃあ冒険者になって何年?」

「十年くらいじゃねえか」

「詐欺じゃん! 見た目詐欺!」

「うるせえ!」

「だって十年でD!? その見た目で!?」

「どの見た目だ!」

「絶対、酒場の隅で新人に『昔は俺もSランクでな、この傷はよぉあの時の戦いで』とか言う見た目!」

「言ったことねえよ!」


 こんな場所なのに、少しだけ緊張が抜けた。


 それでも十年という言葉は残った。


「上がれなかったんですか?」

「昇格試験を受けてねえんだよ」


 ゲリオンはそれだけ言って、また歩き始めた。


「今のランクで飯食えてんだ。わざわざ知らねえ魔物追っかけて、首ぃ突っ込む必要もねえだろ」

「でも、ここ新しいダンジョンですよ?」

「新しいつったって、もう帰ってきた奴ぁいる。入口近くを見て戻る調査なら、俺でもできるって話だ」

「ルゥラニュクスは?」

「あいつが出たら帰る」


 返事が早かった。


「戦わないんですか?」

「何で戦うんだよ」


 ゲリオンが今度こそ振り返った。


「倒しに来たんじゃねえ。帰ってこねえ奴を探しに来たんだろうが」


 そうだった。


 リグレットもそれ以上は何も言わなかった。


 前に進むほど、湊には見覚えのある場所が増えてきた。壁が大きく抉れた場所を抜け、その先の二股を左へ曲がる。


 喉が少し乾いた。


「この先です」

「でかいのが出た場所か?」

「はい」


 前にテオが剣を折られた場所だった。


 曲がり角の向こうにあった空間も、壁の形も覚えている。テオが立っていた場所まで、ほとんどそのままだった。


 ただ、ルゥラニュクスはいない。


「ここです」


 リグレットが周囲を見回した。


「何もいないね」

「前は、あっちから出てきました」


 湊が奥の通路を示すと、ゲリオンはすぐには向かわなかった。


 床へ灯りを近づけている。


「ゲリオンさん?」

「踏むなよ」


 湊は出しかけた足を戻した。


 石の上に薄く泥が乗り、その中に細い跡が続いていた。靴の跡らしいものもあるが、何度も誰かが通ったせいで崩れている。


 その中で、一つだけ奥へ向かっている跡をゲリオンが示した。


「こいつぁ新しいな」

「分かるんですか?」

「古い方は縁が乾いてる。こっちはまだ黒い」


 湊には並べて見ても、同じ泥にしか見えなかった。


 リグレットが足跡の脇へ靴先を向けると、ゲリオンはしゃがんだまま、その周りの濡れた床を先まで追った。


「戻った跡は?」

「少なくとも、ここじゃ見えねえ」


 ゲリオンは立ち上がった。


「行くぞ。ただし、ここから先は俺も知らねえ」


 奥へ向かう跡を外さず、その先へ進んだ。濡れた床に残った足跡は、岩壁の曲がりに沿って暗がりへ続いている。


「Fランク君、離れないでね」

「はい」

「姉ちゃんもだ。弓持ってるからって先行くんじゃねえぞ」

「分かってるって」

「信用ならねえ返事だな」


 奥へ入ると通路が狭まり、壁から染み出した水が床の中央を流れていた。


 しばらく進んだところで、ゲリオンが止まった。


 今度は何も言わない。


 湊にも聞こえた。


 奥から、石を叩くような音がした。


 こん。


 少し間が空く。


 こん。


 リグレットの声から、いつもの軽さが消えた。


「……誰かいる」


 こん。


 三度目の音のあと、ゲリオンは灯りを低くした。


「姉ちゃん、矢ぁつがえたまま右。若ぇのは俺の後ろだ」

「了解」


 音は通路の先、左へ折れたところから聞こえている。ゲリオンは小盾を前に出したまま進み、角の手前で一度止まった。


 こん。


 また鳴った。


 魔物が立てている音には聞こえない。一定の間隔で、一度だけ石を叩いている。


 ゲリオンが角から半身だけ出し、すぐ戻った。


「人がいる。動いてねえ」


 湊も続こうとすると、小盾で止められた。


「待て。人が倒れてりゃ安全って誰が決めた」


 ゲリオンは先に床と天井を見て、それからゆっくり角を曲がった。


 何も飛び出してこない。


「来い」


 奥には小さな行き止まりがあった。


 壁際に杖が転がり、その先端へ天井から落ちた水滴が当たっている。


 こん。


 そのすぐ横に、女が倒れていた。


「シェイム!」


 湊は一歩出たが、ゲリオンの腕がまた前へ入った。


「姉ちゃん、周り見ろ!」

「見てる!」


 リグレットはシェイムではなく、通路へ弓を向けていた。


 ゲリオンがしゃがみ込み、シェイムの顔の横へ手を寄せる。次に首元へ触れ、肩を軽く叩いた。


「息ぁある。おい、姉ちゃん。こっちの腕見ろ」


 袖が裂け、皮膚に紫色の跡が残っていた。


「ルゥラ?」

「分からねえ。決めつけんな」


 ゲリオンはシェイムの杖を拾い、脇へ置いた。


「骨ぁどうだ」

「それ私に聞く?」

「俺よりゃマシだ。見て分かるとこだけ見ろ」

「雑な信頼だなぁ」


 そう言いながらも、リグレットは弓を湊へ預け、シェイムの腕と脚を確かめた。


「右足は腫れてる。立たせない方がいいね。あとは……分かんない。とにかく連れて帰ろ」

「最初っからそのつもりだ」


 ゲリオンが自分の外套を外し、床へ広げた。


「若ぇの、そっち持て」

「俺ですか?」

「姉ちゃんに持たせたら、帰りの弓がなくなるだろうが。戦えねえなら運べ。それも仕事だぜ」

「はい」


 湊は預かっていた弓をリグレットへ返し、外套の端を持った。


 行きは自分の足で歩いた道なのに、人を乗せるだけで狭さが変わる。曲がり角では壁へぶつけないよう持ち上げ、段差では前後で高さを合わせなければならない。


「止まれ」


 ゲリオンが言うたび、湊も足を止めた。


「次、右足から下げるぞ」

「はい」

「おめえは前だけ見んな。俺が滑ったら一緒に持ってかれる」


 言われて足元を見ると、さっきまで気にもしなかった水が石の上を薄く流れていた。


 帰る道は、来たときより長かった。


 リグレットは弓を構えたまま前を歩き、ときどき振り返った。何度こちらを見ても、さっきまでの軽口は一度も飛んでこなかった。


 半分ほど戻ったところで、外套が急に揺れた。


「待て」


 ゲリオンが止まる。


 シェイムの指が動いていた。


「シェイム?」


 湊が名前を呼ぶと、閉じていた目が開いた。


 シェイムは何度か瞬きをして天井を見上げ、岩肌をたどった視線が暗い通路へ届いた瞬間、身体が跳ねた。


「いやっ!」


 外套から起き上がろうとして、腫れた右足をぶつける。


「動くな!」

「あ、あ、ああああッ! 誰か、誰か助けてぇッ!!」


 シェイムは自分の体を両腕でキツく抱きしめ、激しく震え出した。


「シェイム、もう帰ってる途中!」


 リグレットが弓を下ろして近づいた。


 シェイムは反応しない。


「いや……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない、死にたくないぃッ!」


 杖を探すように両手が床を掻いた。


「ルゥラはいないよ。ここにはいない!」

「ひっ……う、あ、ああああッ!」


 見開かれた瞳は完全に血走り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、ただひたすらに叫び続けていた。


「シェイム! 大丈夫だって」

「いる! あそこにいる!」


 シェイムが指した先には、何もなかった。


 それでも彼女は壁際まで逃げようとし、外套から落ちかけた。


「押さえつけんな!」


 ゲリオンが湊の腕を止めた。


「でも」

「怪我してる場所だけ守れ。無理に寝かせんな」


 シェイムの呼吸が速くなっていた。


 息を吸っているはずなのに、次の息をすぐ求めている。喉から細い音が続き、言葉も途中から形にならなくなった。


「シェイム、こっち見て」


 リグレットが正面ではなく、少し横へしゃがんだ。


「出口に向かってる。戻ってない。ちゃんと外に向かってるから」

「いや……やだ……」

「うん。嫌だよね。だから帰るよ」


 シェイムは何度も首を振った。


「もう、やだ……やだ……」

「分かった。今はそれでいいから」

「見たくない……」


 その声だけは、さっきまでよりはっきりしていた。


 リグレットが湊へ目を向けた。


「Fランク君、杖持って」

「はい」

「見えるところに置かないで」


 湊は脇に置かれていた杖を拾い、シェイムから見えないよう背中側へ回した。


 ゲリオンも急かさず、シェイムが自分から外套へ身体を戻すまで待った。

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