第45話 書く場所
休み明けの商業ギルドでは、ノノとチコが隣り合う窓口に入り、受付が開いて間もなく、昨日食堂でパンを口に押し込んで席を立った若い男が、商会の印が入った書類を手にノノの前へ来た。
「東門から出す荷の護衛です。保証金はうちの商会で持ちます。その条件を契約に入れられますか」
「ほら、来た。言った通りっしょ?」
「聞こえています」
保証金を受け取るのも、護衛をする冒険者の受注資格を確認するのも冒険者ギルドだった。商業ギルドで扱うのは、商会がその金を負担するという契約の方だ。
ノノは新しい用紙を出さず、いつもの契約書へ条件を書き加えた。受付手数料も、通常の契約と変わらない。
昼前には、昨日ルゥラの皮を欲しがっていた商人が冒険者を連れてきた。こちらは保証金を出す代わりに、持ち帰った皮を一枚銀貨三枚で買い取る契約だった。
ノノは保証金の負担と皮の買取を別の条件として書き、銀貨三枚で売ることを冒険者本人にも確認した。
二人が離れると、チコが隣から声をかけた。
「二件目」
「内容は別です」
「そこじゃなくてさ。どっちも最初に聞くの、商会が保証金出すって条件を入れられるか、じゃん」
「……共通しているのは、そこだけですね」
「そこだけで十分じゃん。だったら最初に、向こうで受けられるか確認したか聞けばよくない?」
ノノは午前中に受け付けた二枚の契約書を見比べた。
「確認が済んでいる方なら、こちらは契約の話から始められます」
「じゃ、それ先に聞こ」
「保証金を商会側が負担したいと言われた場合だけです」
「細かっ。でもオッケー」
午後には、別の商人が採取依頼の書類を持ってきた。
「こっちで保証金を出す条件でも、契約に入れられるか?」
「冒険者ギルドで受注資格の確認は済んでいますか?」
「いや、まだだ」
「でしたら、先にそちらを確認してください。受注できる方であれば、こちらでは商会が保証金を負担する条件を契約へ記載できます」
「分かった。先に向こうだな」
商人は書類を持ったまま受付を離れた。
「ノノちゃん、もう慣れてんじゃん」
「今決めたとおりに聞いただけです」
「昨日は手順ないって言ってたのに?」
「保証金は今も扱っていません」
「はいはい、そこ大事ね」
チコは次の客を呼んだ。
* * *
その日の午後、冒険者ギルドの受付で、クリストフは見慣れない男が冒険者と並んでいるのを見かけた。
「受けるのはこいつだ。保証金はうちの商会が出す。昨日、それでいいって聞いたぞ」
受付の職員は冒険者の札と依頼書を確認し、必要な保証金が揃っていることまで確かめた。
「受注できます。保証金はこちらでお預かりします」
「じゃあ頼む」
商人が離れたあと、冒険者は依頼書を持って受付の奥へ進んだ。
夕方になり、受注記録をまとめた職員が帳簿を抱えてギルド長室へ来た。
「ギルド長、保証金の記録、見てもらえますか」
「またリール商会か?」
「いえ。今日はリール商会以外の名前がいくつか混じっています。護衛や討伐、採取です」
クリストフが帳簿を受け取ると、昨日までリール商会の名が続いていた欄に、別々の商会名が入っていた。
「受注条件で引っかかった奴は?」
「いません。全員、ランクも条件も満たしています。保証金も必要額が入っています」
「なら、受付は今まで通りでいい」
職員はすぐには戻らなかった。
「これ、前のリール商会の件に足しますか?」
「いや。これはもう、リール商会の話ではないな。冒険者本人じゃなく商人が保証金を出した受注が増えてるって、本部にも上げる」
「分かりました」
職員が帳簿を持って出ていったあと、机の端に置いていたセレスティーヌからの返書を開いた。求められていたのは、支援を受けた者が無事に戻ったか、断られた者が次に何を選んだか、その続きだった。
今日の受注記録だけでは、まだ返せるものはない。
今度は、冒険者ギルド本部へ送る報告書に書いた。
* * *
仕事が終わるころ、オルメイは作業台に広げていた道具を端へ寄せた。
「今日はここまでだ。湊、それ片づけたら帰っていいぞ」
「はい」
湊が使っていた道具を棚へ戻す横で、シェナも今日の記録をまとめ、紙を鞄にしまった。
「湊さん、このあと時間ありますか?」
「ありますけど」
「マトリカリアに行きませんか」
「茶葉屋ですよね。いいですよ。俺、まだ行ったことないです」
断られなかったことに、シェナは胸の内でわずかに安堵した。
二人で工房を出た。
マトリカリアの扉を開けると、乾いた葉と甘い花の香りが湯気の向こうから流れてきた。壁際の棚には色の違う茶葉や薬草を詰めた瓶が並び、空いている卓もいくつかある。
二人で向かい合って座り、湊は店員に勧められた茶を、シェナは香りの弱いものを頼んだ。
「こういう店だったんですね」
湊は棚の瓶を見ている。
「もっと薬草店みたいなのを想像してました」
「使っているものは近いですけど、飲むために合わせていますから」
店員が杯を置いた。湊の方からは甘い香りが立ち、シェナの杯には細い葉が何枚か浮いている。
湊が一口飲んでから、向かいを見た。
「今日は、シェナさんの人生相談ですか?」
思わず、シェナは湊を見返した。
「どうしてそうなるんですか」
「前は俺の相談に乗ってもらったので。今度はシェナさんかなって」
外れてはいない。
けれど、自分から何を話せばいいのかまでは決めていなかった。
「……湊さんは、工房のこと、まだ迷っていますか?」
「迷ってます」
「冒険者を続けるか、ここで働くか?」
「それもあります。でも、最近ちょっと違う気もしてきました」
湊は杯を両手で持ち、湯気の向こうを見た。
「俺、こっちに来てから、自分で考えてなかったわけじゃないんですよね」
「はい」
「思いついたことは結構あったと思います。でも、それをリールさんに話したら、あとはリールさんがどうするか決めてくれてたんです」
「リールさんなら、商売にするかどうかまで考えますからね」
「はい。それで普通だと思ってました。俺、この街のこと何も知らなかったし。自分で勝手に決めるより、知ってる人に話した方がいいって……。でも、道のときは違ったんです」
「違った?」
「リールさんがもうやらないって言ったあとも、俺、オルメイさんのところ行ったじゃないですか。あれ、誰かに行けって言われたわけじゃないんですよね」
湊は杯を持ったまま、少し考えた。
「なんであのときは行けたんだろうって、最近ちょっと思ってて」
湊が苦笑した。
「行ったら最初、オルメイさんに帰れって言われたんですけど。それでも帰らなかったんですよね。道を直してほしい人が、オルメイさんが来るまでずっと待つしかないのを何とかできないかって。それは俺がやりたかったから」
杯から上がっていた湯気は、もう薄くなっている。
「そのあと、リールさんにも言われました。魔法を使うやり方は商会ではやらないって」
「それでも続けましたね」
「はい」
湊はそこで一度黙り、杯に口をつけた。
「たぶん、あれが初めてだったんだと思います」
「何がですか?」
「リールさんに話して、それで終わりじゃなかったの」
「自分で続けたからですか?」
「……たぶん」
シェナは返事をしなかった。
「別に、立派な理由があったわけじゃないです。道を待ってる人が減ればいいなって思っただけだし、途中からはオルメイさんと考えるのが面白くなってましたし」
湊は少し考えてから続けた。
「だから、この前シェナさんに、遊びたいだけかもしれないって話したじゃないですか」
「はい」
「あれも、そんなに悪いことじゃないのかなって、ちょっと思ってます」
「どうしてそう思ったんですか?」
「道のときだって、最初から仕事にしようとか考えてなかったんですよ。オルメイさんと話してたら、もうちょっとやりたくなって」
「楽しかったんですか?」
「……たぶん。だから、見たいから見に行くとか、やりたいからやるでも、別にいいのかなって」
湊は笑った。
「もっと早く、自分でどっか行ってみてもよかったのかなって思います」
「どこへですか?」
「分かんないです……。それが分かんなかったから、行かなかったんでしょうけど」
湊は、誰かに言われてオルメイのところへ行ったわけではない。
先輩から言われたのは、湊が自分から話したことだけを残すことだった。聞き出すために近くにいるのは嫌だと、自分から言った。だけど、必要だと思った言葉は記録してきた。
「シェナさん?」
湊に呼ばれ、シェナは杯へ落としていた視線を上げた。
「すみません。少し考えていました」
「俺、変なこと言いました?」
「いいえ」
変なのは、わたしだ。
以前なら、湊がこんな話をしたあと、どこまで記録するべきかを考えただろう。けれど今、真っ先に浮かんだのは記録ではなかった。
「湊さん」
「どうしました?」
「前に、私も考え中だと言いましたよね」
「はい」
「少しだけ、分かった気がします」
「何がですか?」
「自分で決めるということです」
シェナが監察局の人間であることは知っている。けれど、自分の言葉の一部が記録され、メルドへ渡っていたことまでは知らない。
故郷のことも、家族のことも、帰るか迷っていることも話した。これからも同じ距離にいるのなら、そのことだけを伏せたままにしたくなかった。
「今度、湊さんに話したいことがあります」
「今じゃ駄目なんですか?」
思ったより早く返され、シェナは答えに詰まった。
「……今日は、まだうまく話せそうにありません」
「じゃあ、また今度ですね」
湊はそれ以上聞かず、残っていた茶を飲んで、店員が置いていった茶菓子を一つ取った。
「そのときは、またここでもいいですよ」
「人生相談ですか?」
「今度はシェナさんの番じゃないですか」
シェナは少しだけ笑った。
「そうかもしれません」
鞄の中には、湊の発言も書いてきた記録帳が入っている。
仕事を勝手に捨てるつもりはない。必要なことを確認するのも、監察官として記録を残すのも、自分の役目だ。
けれど、そのことを知らない湊から話を聞き続けるのは違う。
先輩がいないからでも、先輩ならどうするかでもない。自分が、このまま続けたくなかった。
記録されることを知らないまま話してもらうのは、今日までにしよう。




