第40話 空の袋
荷車を引いて北門へ向かう湊の横を、リグレットは弓を背負って歩いていた。
門の脇にいた革鎧の男が、その姿を見つけて声をかけた。
「リグレット。お前、ネロズワルド行くんじゃなかったのか」
「だから今から行くんだって」
「はぁ? 保証金どうしたんだよ。足りねえって言ってただろ」
「リールさんとこで足りない分出してもらった」
「借りれるのか?」
「それが、違うんだなぁ」
「じゃあ何なんだよ」
「失敗しても、商会が出した分は私の借金にならないんだって」
革鎧の男は黙った。
「……それ、俺でもいいのか?」
「知らない。そこはリールさんに聞いてよ」
「リール商会だな?」
「そうそう。で、それより誰か空いてない? 一人で飛竜やるの、できれば避けたいんだけど」
「わりい、今日は無理だな。朝から新しいダンジョンの方に流れてんだ」
「だよねぇ。じゃ、予定どおり一人で行ってくるよ」
「おい、本気か?」
「保証金まで出してもらって、そのまま帰って石鹸作ってたんじゃ格好つかないでしょ」
革鎧の男は口を開きかけたが、後ろから門を抜ける荷車に道を譲った。湊も荷車を引いて北門を抜け、リグレットと北街道へ出た。
やがて街道の先に森が見えてきた。
「あそこ。溜油果なら、この辺りから入れば見つかるよ」
「リグレットさんは?」
「私はもうちょい先。街道をそのまま行った沼地」
湊は荷車から採取袋を取った。ここで別れることは商館を出る前から分かっていた。それでも、森を目の前にすると、木々の間は思っていたより暗かった。
入口近くの木の根元で黒いものが動き、茂みの奥へ消えた。
ただそれだけで、足が止まった。
暗い岩肌と折れた剣。胸から腹にかけて大きなルゥラが張りついたまま、岩壁を滑って崩れたテオの姿が重なった。森に目を戻しても、影はもう見えなかった。
森へ入るだけだ。ダンジョンでもないし……受けたのは採取依頼だ。それくらい分かっているのに、次の一歩が出なかった。
湊が動けずにいる間も、リグレットは急かさなかった。
「今日はやめとく?」
「……まだ、分かりません」
「じゃ、リグちゃんは先に行ってくるよ。帰りにまたここ寄るから、それまで考えときな」
「一人で行くんですか?」
「ギルドで探したけど、いなかったからねぇ」
「でも、飛竜ですよね」
「知ってて受けたんだって。荷車はここに置いとけばいいよ。勝手に沼地まで持ってったりしないから」
湊が返事に詰まると、リグレットが続けた。
「あれ引いて戦えって言われても困るし」
リグレットはそのまま北街道を歩いていった。
弓を背負った姿が街道の先へ小さくなっても、湊の採取袋はまだ空だった。
* * *
オルメイの工房へ戻ると、作業台ではオルメイが刀身の途中から折れた剣を布で拭っていた。シェナはその向かいで道路修繕の記録を開いた。
「湊さんは?」
「油買いに行かせた。もう戻ってきてもいい頃なんだがな」
折れた剣の横に置かれた鞘には見覚えがあった。
「それ、テオさんの剣ですか?」
「そうだ。また折りやがった」
「また……」
「今回は湊が背負って帰ってきたらしいぞ」
「湊さんが?」
「ああ。二人で依頼に行って、テオがやられた。あいつも冒険者になってたんだとよ」
最後に会ったときは、ここで道路修繕の道具を戻していた。あれから、冒険者登録までしていたんだ。
「Fランクだそうだ。戦えもしねえのに、よくやる」
オルメイは折れた剣を作業台に戻した。
「その油がねえから、今止まってんだよ」
「じゃあ、戻るまでここで記録を整理します。湊さんが戻ったら、道路修繕の分も確認したいので」
「監察官に工房仕事させたって怒られねえだろうな」
「壊れているものを教えてください。記録するだけです」
シェナは壊れている道具をオルメイに確認しながら、道路修繕の記録を書き足した。一通り整理し終えても、湊は戻ってこなかった。
* * *
北街道を進むにつれて、道の脇に水を含んだ泥が増えていった。リグレットはぬかるみを避けながら沼地へ入り、弓を背から下ろした。
「あー、いたいた」
倒れた木の向こうで、大きな翼が動いた。
ネロズワルドが身体を起こす。腹から脚にかけて透明な粘液がまとわりつき、動くたびに地面へ垂れていた。
飛竜はこちらを見つけると、翼を開いた。
「できれば今日は、あんまり長く遊びたくないんだよねぇ」
リグレットが矢をつがえて弦を引ききると、矢の後ろに赤い光が集まった。
「ソニック・バースト」
矢が放たれた瞬間、空気が弾けた。赤い線が沼地を走り、その左右で泥がまとめて跳ね上がる。飛び上がろうとしていたネロズワルドの身体が横から押され、翼ごと地面へ落ちた。
跳ね上がった泥が落ちても耳鳴りは消えず、リグレットは弓を下ろした。
「はい、おしま――」
泥の中で翼が動いた。
「……じゃないかぁ」
ネロズワルドが身体を持ち上げ、片方の翼を引きずりながら立ち上がった。そのまま首を低くし、泥を蹴ってリグレットへ向かってくる。
リグレットは腰の鞄から魔力回復薬を一本抜いた。
「一本で終わってくれたら、これ持って帰れたのにねぇ」
瓶を空にしてもう一度矢をつがえる。その間にも、飛竜との距離は縮まっていた。
次は外せない。
「ソニック・バースト」
二本目の赤い線が、立ち上がったネロズワルドの身体を正面から貫いた。
遅れて広がった衝撃が、沼の水を左右へ押しのけた。
飛竜は倒れ、今度は翼も動かなかった。
「……よし」
リグレットは腰の鞄から残った一本も飲み干した。立ち上がろうとしたが、膝が伸びきる前に脚から力が抜け、そのまま地面へ腰を下ろした。
「あーあ」
倒れた飛竜を見た。翼も爪も、このまま置いて帰るには惜しい。けれど、今の脚では森まで戻るだけでも時間がかかりそうだった。
* * *
湊は結局、森へ入れないまま街道脇に座っていた。何度か入口までは行ったが、葉が擦れる音や枝の折れる音がするたびに足が戻った。
「Fランク君。荷車、まだある?」
湊が顔を上げると、街道の先にリグレットがいた。
「ありますけど……大丈夫ですか?」
別れたときより、歩くのが遅かった。服の裾には乾きかけた泥がつき、背負っていた弓も、今は手に下げていた。
「大丈夫大丈夫。歩いて戻ってこれたから」
「それ、大丈夫って言うんですか?」
「言う言う。で、ちょっと付き合って」
リグレットは湊の横に置かれた空の採取袋を見たが、何も言わなかった。
湊が荷車を引き、二人で街道を先へ進んだ。
沼地へ近づくにつれて土が水を含み、荷車の車輪が重くなった。その先に、大きなものが倒れていた。
湊は荷車を止めた。
「……これが?」
「ねばねばでしょ?」
ネロズワルドの身体には透明に近い粘液が広がり、翼の縁から地面まで細い糸が伸びている。
「これ、一人で倒したんですか?」
「うん」
「強すぎませんか?」
「逆逆」
リグレットは近くの倒木へ腰を下ろした。
「私、魔力の操作が下手なんだよねぇ。ちょっとだけ使うってのができないの。だから撃つなら、ほぼ全部」
「ほぼ全部って、魔力をですか?」
「そ。一発撃つとほとんど空っぽ。だから薬で戻して、もう一発」
湊は、地面に転がった二本の空瓶を見た。
「じゃあ、魔力はもう戻ってるんですか?」
「戻ってるよ。気持ち悪いけど」
「気持ち悪い?」
「魔力酔い。短い間に薬を飲みすぎるとなるんだよねぇ。私は特になりやすいの」
リグレットは額を押さえた。
「魔力は戻っても、疲れた身体まで元気になるわけじゃないし。これ以上動くと、たぶん吐く」
「……座っててください」
「じゃ、Fランク君」
リグレットが腰からナイフを抜き、柄の方を湊へ差し出した。
「翼と爪。持って帰れるところだけお願い」
「俺が切るんですか?」
「リグちゃん今、見てのとおりだからねぇ。無理なとこは言うから」
湊はナイフを受け取り、ネロズワルドのそばへしゃがんだ。
「まず、どこからですか?」
「翼の付け根。刃を入れやすいところ探して」
言われた場所へ手をついた瞬間、掌が横へ滑った。
「うわっ」
手を離すと、掌と飛竜の身体の間に透明な糸が伸びた。
「あはは。だからねばねばって言ったでしょ」
「これ、取れます?」
「帰ったら洗えば取れるよ。たぶん」
「たぶん?」
「ほら、手止めない」
湊は言われた場所へナイフを入れた。
翼の付け根は思ったより硬く、一度刃を入れただけでは切れなかった。刃の向きを変え、リグレットに確かめながら刃の入るところを探した。
切り離した翼や爪を荷台へ運ぶたび、透明な粘液が荷台の板についた。
最後の爪を載せたところで、湊はナイフを返した。
「これでいいですか?」
「十分十分。じゃ、あと一個」
「まだあるんですか?」
リグレットが自分を指した。
「リグちゃん」
「……リグレットさんも?」
「本当に荷物は任せたからねって言ったでしょ?」
「乗れます?」
「そこは手伝って」
湊が腕を貸すと、リグレットはどうにか荷台へ上がり、翼と爪を端に寄せて座った。
「いやぁ、荷車借りて正解だったねぇ」
「こうなると思って借りたわけじゃないですよ」
「結果よければ全部よし」
森へ戻った頃には、着いたときより日が傾いていた。湊が荷車を止めて空の採取袋を取ると、奥で枝が折れ、来たときと同じように身体が固まった。
荷台のリグレットは座ったままで、今何かが出ても、すぐに戦える状態には見えなかった。
「今日はやめてもいいよ。依頼ならまた出るし、リグちゃんもこの状態だしねぇ」
荷車には、オルメイから預かった空の小瓶が残っていた。
湊は採取袋を持ち直した。
「行ってきます」
「本当に?」
「はい。でも、奥までは行きません」
湊は森へ入った。何歩か進んだところでまた葉が鳴り、足が止まった。
来たときと同じだ。それでも、まだ街道は見えている。
音のした方へ近づかず葉の間を探すと、ひょうたんのような実がぶら下がっていた。
溜油果。
一つ採って袋に入れ、次の実を探した。奥で何かが動くたびに手は止まったが、音が遠ざかればまた実を探した。
依頼分とオルメイに持ち帰る分が揃って森を出ると、リグレットは荷車の上で横になっていた。
「採れた?」
「採れました」
「そっか」
それだけ言って、また目を閉じた。
湊は荷車の柄を握った。
来たときは空だった採取袋が、今は飛竜の翼と爪の横に載っていた。
「Fランク君……。あんまり揺らさないで……。やばいかも」
「街まで我慢してください」
* * *
街へ戻って冒険者ギルドで依頼を終えたあと、湊は荷車を引いてオルメイの工房へ向かった。工房の前で荷車を止めると、中からオルメイが出てきた。
「遅えぞ。油一本買いに行かせて、何時間――」
荷台を見たところでオルメイの言葉が途切れ、作業台のそばにいたシェナも出てきた。
「湊さん」
湊は溜油果を入れた袋を持ち上げた。
「油、売り切れてました」
「油じゃねえのは見りゃ分かる。何で飛竜まで増えてんだ」
「色々ありまして」
荷車の上からリグレットが片手だけ上げた。
「はいはーい。飛竜の方です」
「人までいるじゃねえか」
道路修繕の記録を開いたまま、シェナが湊に声をかけた。
「……油の買い出しでしたよね?」
「そのはずだったんですけど」
オルメイは袋を受け取り、中を覗いた。
「これなら使える。最初からこれ採ってこいとは言ってねえけどな」
「俺も、最初は買うつもりでした」
「待ってたんですか?」
「記録を確認したかったので。オルメイさんから、冒険者になった話も聞きました」
「そこまで聞いたんですか」
「テオさんを背負って帰ってきたことも」
「……あれは、置いて帰れなかったので」
オルメイは受け取った袋を作業台に置いた。
「話すなら後にしろ。こいつは俺が使うぞ」
「お願いします」
湊は荷車を引いて工房を出た。
* * *
リール商会へ戻ると、入口には冒険者が集まっていた。
その中に、北門でリグレットに声をかけていた革鎧の男がいた。
「お前、もう帰ってきたのか」
荷車の上のリグレットを見ると、革鎧の男は声を落とした。
「……勝ったんだよな?」
「勝った勝った。見てよ、この立派な凱旋」
「荷車に乗ってる奴が言うな」
商館の中からも、冒険者たちの声が重なっていた。取引台では、リールが一人ずつ話を聞いている。
北門にいた男も商館に入った。
「リールさん。こいつから聞いた話、俺にも聞かせてくれ」
男は財布をリールの前に置いた。
「俺も、あと少し足りないんだ」




